scene3 依頼
「どうだったかな。おまじないの効果は」
くせ毛のスクールカウンセラーは、扉が閉まるのを待つと小声で言った。前に来た時と変わらず混沌を押し込めて整頓しなおしたかのような相談室は、奇妙な静けさを持っている。木版に描かれたキャラクターは記憶の中の姿から寸分も動かずに、棚の隙間でこちらを覗き込んでいた。
奥の椅子に座った深澤先生が着席を促すよう目配せをしたのに、私は気づかないふりをした。今回は挨拶だけが目的で、長居をするつもりはなかったからだ。
「効いた?」
重ねての質問。私は何かを言おうとして、言い淀んだ。その報告だけが今回の目的だったというのに、いざ、そんなストレートな訊きかたをされるとどう返事をしたら良いのか分からない。
言葉選びに迷ってしまう。
おまじないが、効いた。果たしてそんな表現で良いのだろうか。
持った途端に。唱えた途端に。実際のところ、どのタイミングで効果が現れたのかがはっきりとは分からないけれど、それでも効果を実感できるほど明らかに世界が変わったことは間違いがなくて、だけどそれは――
私の思うところの「おまじない」とはかけ離れている。魔法か何かみたいな――そう、魔法だ。いっそ魔法と言ってしまったほうがまだ納得できる。
「この間は、ありがとうございました」
結局、自分のペースで話すことにした。お礼を言って、友達ができたことを知らせる。それだけが目的で来たのだから。
深澤先生は朗らかな笑みを浮かべて、いえいえと言った。質問に応えないことを咎めるつもりがないらしいことに、私はようやく緊張を解いた。
「おかげで、次の日には友達、できました。ええと、相談、聞いてくれて、嬉しかったです」
深澤先生は、また、朗らかにいえいえと言った。意外なほどに淡白な反応。言うべき台詞を使い切った私には、もうこの人と話すべき話題がない。
グラウンドから、誰かの声。運動部の掛け声。音は近いのに、やっぱりここは静かだ。
何部の物か分からないホイッスルの音を合図に、もう帰りますねと背中を向けた。その時、誰かが、
「あーあーあーあー」
私の背後で、誰かが、
「あー、ああ、ああ」
壊れた。
表情を変えずに、感情を込めずに、その人は壊れたように見えた。だって、今の今まで普通に会話をしていた人が、いきなり意味の分からない音を発しているのはおかしい。目を見張ってみて初めて、私は自分が無意識に振り向いていたことに気がついた。眼鏡の奥の瞳が私の視線を絡め取ると、彼は嬉しそうに眉尻を下げて、ようやく人語を口にする。
「ああ、そうだ、そうだよ、思い出した」
ただの感動詞だった。そんなことに気づいたところで、どうにもならない。状況は変わらない。深澤先生の雰囲気がどこか変わってしまったということは明らかで、私が彼の領域に囚われてしまっているという事実は曲がりようもない。
足が竦んだ。その足はなぜか、椅子に腰かけるためだけには動いた。深澤先生は私が正面に座ると、優しくて嫌らしい顔をした。
「思い出したというか、そうだな……思いついたよ」
「何を……?」
どういうわけだか、私の口は会話する。
「いや、ね。北沢さんにちょっと、お願いできないかなと思ってね」
「お願い?」
「ああ。実は二年前にも、お守りを渡した生徒がいてね。一年後に返してほしいって言ってあったんだけど、今だに返してもらってなくて。それを、もらってきてくれないかな、と」
なんだ。そんなこと。
「どうかな。頼まれてくれると嬉しいんだけど」
断らせてくれるようには思えない。だけど、それほど大変なようにも思えない。だから、何か裏があるようにしか思えない。はい、と言いそうになって息を止めると、深澤先生が緩慢な動きで座りなおした。
「効いたよね、お守り」
ぞわり、と背筋が波を打つ。お礼をしろということか。
私の思考を否定するかのように、言葉は続く。
「だから、返すのが惜しいっていうのは分からなくもないんだけど」
「返したら、どうなるんですか」
ふふっ、と深澤先生は柔らかく笑った。
「友達、できた?」
「はい」
「それは、お守りを返したからってなくなることはないよ」
だから、大丈夫。
私がそう思ったのか、先生がそう言ったのか。去年流行ったJ-popを吹奏楽部が演奏し始めたせいで、それはよく分からなくなった。
三年生ですかと私が聞くと、深澤先生はその意図がすぐに分かったようで、そうそうと頷いた。
「三年生の、室町唯子って子なんだけど、ちょっと頼まれてくれないかな」
「一応、返してもらえるようにしようとは思いますけど」
「ああ、それで十分だよ。だめだったとしても文句は言わないからさ、ちょっと声かけてみて」
「はい。でも、どんな人かも、クラスも知らないし」
「ああ、そのことなら、矢野さんに聞いてくれれば良いよ」
唐突に出てきた名前に、一瞬、思考が止められた。
やのさんって、誰だっけ。矢野さんって――もしかしたら、あの、
「さなえさん……?」
全く自信のない小さな声で言うと、そうだよと即答される。
「やっぱり知ってたか。クラス一緒だし、少し目立つ子だからねえ。僕に頼まれたって言えば分かるはずだからさ、二人で行ってきてくれないかな」
「わかりました」
矢野さんも一緒なんだ。そう思うと、途端に気が楽になった。
「ありがとう。じゃあ、お願いね」
深澤先生の椅子がきいいと鳴ったので、私は友達待たせてるのでと言って立ち上がった。




