scene3 御守
このまま篠山さんと友達になっていくのかな。ぼんやりとそう考えているうちに、午後の授業は終わって放課後がやってきた。
部活動のあるクラスメートはあっという間にいなくなって、教室には帰宅部の私と、同じく帰宅部の男子三人組が残るだけになった。他にも部活動に入っていないクラスメートは何人かいたはずで、だけど彼女ら、彼らが今どこにいるのかを私は知らない。きっと帰宅部同士、何人かで連れ立って帰ったのだろうけれど。
今日も誰も声をかけてくれなかったな。情けない気持ちになりながら思う。同じ帰宅部なのだから、帰るときに声をかけてくれれば良いのに。例えば――そう、帰り支度をゆっくりしている私に対して、「北沢さんも帰宅部なんだっけ」とか、そういう風に話しかけてくれさえすれば、私だってそこからなんとか話を続けながら、そのまま一緒に校門ぐらいまでなら歩いて行けるかも知れないのに。
三人組の男子は、アニメか何かの話で盛り上がっている。あいつは本当は強い、だとか、お前はどの子が一番なんだ、とか。耳を傾けるまでもなく一言一句が聞き取れるその話題の中に、唐突に、私も何度か観たことのあるアニメのタイトルが混ざったので、男子たちのいる方を振り向いてみた。
三人のうちの一人と目が合う。それでも三人の会話はそのまま続いて、ほんの数秒も経たずに私に向けられる視線は再びゼロになった。
そりゃあそうだ。あの三人のうちの誰かが、「北沢もこのアニメ観たことある?」と声をかけてきてくれるだなんて、そんな都合の良いことがあるわけがない。
帰宅部の他の子にしたってそう。彼女たちにはもう一緒に帰る相手がいるというのに、わざわざ一度も話したことのない私に声をかけてくるわけがないのだ。
薄々、どころではなくはっきりと分かっていた。分かってはいるけれど、私にはどうしても、そんな都合の良い出来事を待つ以外のことができない。自分から人に話しかけることが、私はどうしようもなく苦手で、多分、怖い。
窓の外から、ばおばおと管楽器を練習する音が聞こえだす。教室の後ろにたむろする三人組が、私の知らない世界の話でどっと笑い声をあげた。私は、たった今帰り支度が抜かりなく全て終わったんですよ、というような顔をして、いつも通り一人で教室を後にした。
人の気配の残る、がらんとした廊下。通り過ぎ様に空き教室の中へ目をやると、誰も座っていない私の特等席が見える。篠山さんは、何か部活に入っているのだろうか。一緒にお弁当を食べたというのに、私は彼女について篠山菜々華という名前と、A組であるということしか知らないんだなあ、と、こんな時間になってから思う。それどころか、私に至っては自分の組すら告げていない。
明日も空き教室に行けば、きっと彼女はそこにいるだろう。その時にでも、お互いにいろいろと知り合うことができれば良いか。
――本当に、そう思ってる?
答えの分かりきった自問をしつつ、運動部の走り込みをする声を耳に渡り廊下を歩く。普段は通らないこの場所は、この時間帯の他の廊下と同じようにがらんとしていて、そのくせ他の廊下にはない、すんと澄ましたような空気が漂っている。
篠山さんと、このまま行けば友達になれるだろう。彼女はきっと私と友達になろうと考えてくれているのだろうし、何よりも、私に声をかけてきてくれた貴重な存在だ。実際、声をかけられた時は嬉しかった。
だけど。
そんなに親密にしなくても良いかなあ。
頭の中で、最低な私が計算をしている。もしも今、篠山さんと友達になってしまったら、それは間違いなくお互いにとっての唯一の友達、ということになる。そんなことになったらもう、篠山さんと私の交友関係はそこでストップしてしまうかも知れない。三年間篠山さんと二人きりで、他には誰とも仲良くなれないような気がする。なにしろ、これまでうまく友達を作ることのできなかった私と、見た目も言動も暗い篠山さんだ。
確実に活動的なタイプではないであろう篠山さんとの、二人きりの三年間。それはなんだか退屈そう。それよりも、他のチャンスを掴んだ方が良いんじゃあないだろうか。
階段を降りて、人の気配すら希薄な西館一階に辿り着く。人によっては身体測定とか健康診断とか、それぐらいでしか来ることがないであろうフロア。
教室にいたときよりも吹奏楽部の楽器の音は遥かに遠くて、運動部の掛け声は、どこよりもグラウンドに近い場所のはずなのに、意識を向け続けていないと消えてしまいそうに感じる。
保健室の前を足早に通り過ぎて、隣の部屋の前に立つ。もとは別の名前の部屋だったのだろうか。窓のない木製の扉の上には、色紙で手作りしたらしい「相談室」と書かれた札が、カラフルな見た目とは裏腹にひっそりと掛けられている。
ドアノブに手をかけて、それでもなんだか思い切りがつかなくて、音の出ないようそっと手を離した。
一度、深呼吸。私は何をしに来たんだっけ。頭の中を整理する。
篠山さんは、いったいどんなことを話したんだろう。今の今まで、どうしてそれを気にしていなかったのかが分からなくなる。本当に、人付き合いが苦手ですと言ったのだろうか。それとも、私の邪推した通りに友達ができませんと言ったのだろうか。
どちらも――想像できない。自分がそう言っているところを想像できない。言いたくもないし、言えないだろうし、それが悩みなのかどうかも実のところ、よく分からない。
そもそも彼女はどういう相談をして、どんなアドバイスをもらった結果、あの昼休みの笑顔に辿り着いたのだろう。
遠い世界で、誰かがサッカーボールを蹴った。ボールの中で空気があげる甲高い悲鳴に引っ張られて、運動部の喧騒が静かで薄暗い廊下にずかずかと侵入してくる。私の頭の中はかき乱されてしまって、なんだか考えることが面倒くさくなる。
もしかしたら、誰もいないかも知れない。そんな言葉がふわりと浮かぶ。相談室に誰もいなければ、それですっきりする。相談するための言葉を考えるよりも、そういう抜け道を考える方がずっと楽だった。
誰もいませんように。本末転倒な希望を胸に、再度ドアノブに手をかける。そのまま力を加えて、私は全身から力が抜けるのを感じた。
押しても、引いても開かない。鍵がかかっているのだ。今日はスクールカウンセラーの人はいないんだ。
「ああ、ごめんごめん」
男の声がぱたぱたという足音と一緒に近づいてきて、力の抜けきっていた全身に緊張が走った。見ると、よれよれのスーツにくせ毛のメガネ男が、スリッパをぱたつかせながら駆け寄って来ている。教師のような出で立ちに見えるけれど、初めて見る姿に私は息を飲むことしかできなかった。
「ごめんねえ、きみ、相談室に用だったんだよねえ。ああ、えっと、僕が相談室の――スクールカウンセラーの深澤だけど。職員室に用があってさ、少し留守にしていたんだよ。さあ、どうぞどうぞ」
深澤と名乗ったスクールカウンセラーは、私に返事をする間も与えずににこにことしたままそう言い切ると、鍵を開けて、迎え入れるように振り向いた。首からかけたネームプレートには、彼の名乗った通り「スクールカウンセラー 深澤誠」の文字。
駅で人波に押し流される時と同じような感覚。ごく自然に、何を考えるでもなく、私の足は相談室に吸い込まれる。
物が多い。相談室の第一印象。特に散らかっているという感じではないけれど、本やファイルの並べられた棚が通路を作るようにして配置されていて、棚と棚の隙間からは、文化祭か何かで使ったものだろうか、絵具で人気キャラクターの描かれた、身長ほどもある木版が収まりきらずに顔を覗かせている。
深澤先生――先生、で良いのだろうか――に先導されて棚の通路を抜けると、物置のようだった入り口からは一転、テーブルと椅子と、あとは先生用の机が奥に置かれているだけの、狭いながらも小奇麗な空間が、校内では珍しいカバー越しの明かりに照らされていた。
「どうぞ、座って」
膝の高さまでしかない木製のテーブルを挟んで、深澤先生はキャスターつきの椅子に腰かける。促されるまま手前の同じ椅子に座ると、先生は前かがみになって目の高さを近づけた。
ブラインドのかけられた窓の向こうからは、廊下にいたときよりも近く、運動部の声が聞こえてくる。それが、この空間の静けさというか、外界とは隔絶された場所であるという感覚を、どういうわけだか際立たせている。
「何年生?」
「一年生、です」
応えてから、それぐらいのことはスリッパの色を見れば分かるのに、と思い至った。今私の履いているスリッパの色は青で、これは今年度の一年生の色になっている。確か、二年生は赤で、三年生は緑だ。
「そっか。どう、学校には慣れた?」
高校生よりももう少し年少の子に話しかけるような穏やかさ。いかにも当り障りのない質問。
返事をしかねていると、先生は腰を伸ばして座りなおした。
「僕の早とちりだったら、ごめんね。部屋の前にいたから、相談室に何か用があるのかと思ったんだけど……もしかして、違った?」
「相談、聞いてくれますか」
いくつか段階を飛び越えた質問に深澤先生は一瞬だけ呆気にとられた顔になったけれど、すぐに笑みを戻して、
「もちろん」
嬉しそうに言った。また目の高さが近くなって、私はなんとなく、目をそらせた。
「友達、できなくて」
「なるほど」
「作りたいとは思うんですけど、なんか、行動できなくて。だったらむしろ一人でいる方が楽かなって思ったりもするんですけど、なんか、それも辛くて」
うんうん、と深澤先生が穏やかな目で頷くたびに、私の中の言葉が掘り返されるようだった。聞かれてもいないのに、小学生や中学生の頃の「友達できないエピソード」を、時系列もばらばらに、思い出したそばから口に出していった。
「小学生の頃……何年生だったかな。多分同級生の子が二人、校庭で遊んでたんですよね。名前も、顔も、覚えてないんですけど」
「それで?」
「それで……当時は私、もうちょっと社交的っていうか、自分から人に声をかけてくタイプだったんですけど、二人に声かけたんです。遊ぼう、って」
「それで、どうなった?」
「そうしたら、なんか、嫌だー、って言われちゃって。それまで私、そんな風に拒絶されたことなかったから、だからすごくショックで――それで、きっと、それ以来、誰かに話しかけるの、遠慮しちゃうようになったんだと思うんです」
今まで意識していたのかどうかもあやふやな、ちょっとした嫌な思い出話を吐き出したところで、私は話のネタが尽きたことに気づいて息をついた。深澤先生はすぐにそれを察したようで、眼鏡の奥で優しげに目を細めると、ありがとうねと言って柔らかく笑った。
「そういえば君の名前、まだ聞いてなかったね」
あっ、と声が漏れる。篠山さんの時に引き続き――いや、それ以上のうっかりだ。今度は自分の名前すら告げていないなんて。
「北沢柑菜……です」
「北沢さん」
先生は笑顔のまま私の名前を復唱してから、深く息を吐きながら細身の身体を重々しく持ち上げた。彼が何やら意味ありげに窓の方を向いてしまうと、私の中には寂しさなのか物足りなさなのか、どちらにせよ自分にとっては意外に思われる感覚が薄っすらと浮かび上がった。
何かをもっと話したいような、話してほしいような。胸の中で頭の中でもやもやうずうずと管をまいて私のことを卑屈にさせる何かは、きっと、通学路や教室で私に話しかけてこない不特定多数の誰かに向けられる感情とほぼ同質のもの。だけど確実に全く一緒ではなくて、少なくとも一つはあるその相違点を挙げるのならば、それは彼と私との会話がまだ続くのだという確信が持てるという点だ。
グラウンドの方でホイッスルが鳴り響いた。何部のものかは分からない。窓の外からはブラインド越しの光が差し込んでくるばかりで、向こう側の様子を窺い知ることはできない。深澤先生は、そんな方を向いて、いったい何を見ているのだろう。
「僕はね、特別なおまじないを知っているんだ」
唐突に。少なくとも私にしてみれば唐突に、深澤先生が何かを言った。タイミングのせいか、あるいはその内容のせいか、その声は運動部の出した物音であるかのように私の耳へ届いた。
よく見ればしわの多いスーツジャケット。正面からの印象に比べればくせ毛の少ない後頭部。そんな後ろ姿が、スクールカウンセラーが、私よりも十は年上に見える大の大人が言うのには、「おまじない」という言葉はいかにも異質である。
「おまじない?」
聞き間違いであって欲しくて、小さな声を相談室に響かせた。先生はゆっくりとこちらに向き直って、何も答えず頬を緩ませる。
「スクールカウンセラーの仕事ではね、これは正直、ないよ。だけど僕はこの状況を変えられる」
何を言っているのか、よく分からない。分かるのは、彼には得体の知れない自信が満ちているということ。
「篠山さん、も?」
ついさっきまでとは一転、私の口は開くのが辛いほどに重たくなっている。やっとの思いで発した孤独な少女の名前に、深澤先生は穏やかな笑みを浮かべた。
「北沢さん。きみは、どうしたら良いと思う? 何が、変われば良いと思う?」
異様な雰囲気をまといながら、深澤先生は私の話を聞いていた時と同じように、軽い動きで椅子に座る。
「何が――?」
「そう。何が変われば北沢さんの悩みは解決するのかな」
目線が近づく。私が口を開かずにいると、彼の言葉は私のそんな反応を待っていたかのように、滑らかに続いた。
「二択にしようか。変わって欲しいのは自分? それとも――」
世界?
酷い二択だ。笑う気も起きないほど、規模が違う。
「でも」
反射的に出た言葉は問いへの答えではなくて。だけど私には、そして間違いなく深澤先生にも、答えは分かりきっていて。
「世界なんて、変わりますか」
「変わるよ」
自信に満ちた声に、私は言い返す言葉を失った。この、目の前の、夢みたいな訳の分からないことを冗談めかしもせずに言う大人に、もう何も言うことができなかった。呆れで、恐れで、期待で。
世界が変われば良い。今まで、そんなことを考えたことはなかった。考えたこともないと思っていたのは、言葉にしたことがないからだ。環境を変えたいと知り合いのいない高校を選んだのは、自分からは動かずに周りの人が声をかけてくるのを望むのは、世界よ変われと願うことと何が違うのだろう。
私は、世界に変わって欲しかった。世界が変わるのを待っていた。つまりはそういうことだ。
「世界は、変わるよ」
念を押すように、大の大人が言った。穏やかで、迷いがなくて、とても嘘を言っているようには聞こえない。
「僕は、その方法を知ってる。君はまだ、その方法を知らないだけだ」
宗教か何かの勧誘みたいだ。心のどこかで、誰かがそう思っている。紛れもなく、私の中の常識的な部分がこの男のことを胡散臭く思っている。
それでも、そんな思いは、今は自分のものではないことにする。世界に変わって欲しいから。
私が次の言葉を待っていることが分かったのだろう。にやりと悪戯っぽい笑みを浮かべて、深澤先生はよれたスーツの右ポケットから何かを取り出した。拳の中にすっぽりと収まってしまうほどのそれに細めた目を向けると、深澤先生は軽く息を吐いて再び視線をこちらに向ける。
「これは簡単なおまじないなんだけど――」
おまじない。懐かしい言葉に聞こえる。そういえばそんな話だった。今の彼は、なんだか私にとって現実離れした存在で、それこそ超能力か魔法でも造作なく使うことができてしまいそうな、そんな雰囲気があったのだ。
ポケットから取り出されたものを受け取ってみると、それは紐で閉じられた袋状のもので、見た目から判断するならば、
「お守り?」
そう見えないこともない。神社なんかで売られているようなお守りを真似て作った、細長くて、フラットな布製の青い袋。
身も蓋もない言い方をしてしまえば、ちゃちで安っぽい代物だ。荒い仕事ではないものの明らかに手縫いであることが分かるし、何よりも使っている布が無地の単色で、しかも薄い。家族や友達が自分のために作ってくれました、というエピソードがついて初めて価値の出るような、隠す気もない手作り感。
「はは、そう、お守り。分かってくれて嬉しいよ」
照れたように笑う深澤先生に対して、私は苦々しい笑顔を向けているのに違いなかった。
世界は変わる、なんて言っておいて、取り出したアイテムがこんな手作りのお守りだなんて。がっかりだとか拍子抜けだとかいう感情よりも、「嘘でしょ?」と思う気持ちが強い。
こんな子供だましのためにさっきまであんな態度をとっていたなんて、嘘でしょ?
「これで、世界が変わる」
いやいや、そんなわけないから。もういいから。こんな頭のおかしい大人の話をほんの少しでも信じかけていたということが、情けない。
「あの」
もしかしたら、目の前にいる狂人は何かを話そうとしていたのかも知れない。私が意を決して放った冷たい一声に、眼鏡の男は虚をつかれたという感じで貼りついたような笑顔を取り落した。
「帰ります」
早口に、突き放すように言い放って、席を立った。深澤先生の視線は、まだ座っていた私の目があったのであろう位置に向けられている。蝋人形のようなその表情は滑稽で、だけどその滑稽さの何倍も不気味だ。
早く逃げなきゃ。
そんなふうに思うことは申し訳ないと、良心が私を咎めている。せっかく私のことを思ってお守りを渡してくれたのに。だけど、それで逃げ出したいという気持ちがどこかへ消え去るわけでもなかった。
「用事が、あるので」
良心の、最後のひとかけら。騙すつもりすらない嘘。それで、私は彼に背を向ける。
はずだった。
「世界に変わって欲しい。そう思っているだけで良い。そのお守りを持ってね」
いつの間にか私の視線は、深く続く闇のような双眸にその全てを奪われていた。視線だけじゃない。この瞬間、耳に入ってくる音は彼の声だけ、頭が理解できるのは彼の言葉だけで、もしかすると私は彼の闇の中に囚われてしまったんじゃないかと、そんな錯覚すら覚えてしまう。
がしゃあ、と音がして、私はようやく一歩だけ後ずさることに成功したようだった。下がった足が何かを蹴飛ばしたらしく、ふくらはぎに軽い痛みが走る。
「それは、一年後にでも返してくれれば良い」
深澤先生がまだこちらを見ているのかは分からない。それを確認するよりも前に、私は失礼しましたと小さく呟くように言って、相談室のドアを閉めていた。
相変わらず人気のない廊下は、心なしかひやりとした空気で満たされている。扉一枚隔てた向こう側に恐怖の対象がいるという事実ですら忘れてしまいそうになるほどの、正常で平穏な空間。運動部の声。吹奏楽部の声。さっきまでずっと――それこそ、相談室にいるときからずっと――耳にあったはずの音たちが、いかにも懐かしそうに、そして優しく聞こえてくる。
「おっ、キグー!」
保健室の前を歩いていると、前のめりに明るい声が静かな廊下に短く響いた。反射的に振り向くと、保健室から出てきたらしい矢野さんが他でもなく私に向かって歩いてくる。全身に緊張が走った。
「ちょっと待ってね。話すの久しぶりだよね。名前思い出すから。えっと」
まくしたてるように言った後、矢野さんはすぐに嬉しそうに手を打った。
「そうだ、カンナだよカンナ。こんなところでキグーだねカンナ」
屈託のない笑顔。クラスの人気者に声をかけられるのは嬉しいはずなのに、私にはそれがあまりにも突然のことすぎて、笑顔を引きつらせることしかできない。
思えば、初めて声をかけてきたときにも矢野さんはこんな感じだった。馴れ馴れしくて、相手のペースなんかお構いなし。そのくせ、
「あ、なんか急に声かけちゃってごめん……だった? こんな所でクラスの子に会うなんて思わなくってさ、つい声かけちゃった」
自分が馴れ馴れしい自覚はあるみたいで、その上で、彼女自身に悪意がないことが分かりやすく伝わってくる。思うに、そんなところも矢野さんが人好きのする一要因なのだろう。
照れ隠しをするように矢野さんが頭に手をやると、少し派手な印象のふわっとしたポニーテールが、うなじの辺りでその毛先をいたずらっぽく揺らした。
「急いでた?」
「ううん。何も用事ないし、今から帰るところ」
「部活入ってなかったっけ」
「うん。矢野さんは何部だっけ」
矢野さんのジャージー姿を見ながら、運動部だよねと付け加えた。溌溂とした矢野さんの笑顔に、袖をまくってだぼついたジャージーがしっくりとよく似合っている。教室内で見るときの印象をもっと強く、凝縮したような姿は、彼女に対して卑屈な思いを抱いている私の目にすら、ごまかしようもないほど魅力的に映ってしまう。
「バレー部だよ。で、さっき思ったより高く跳びすぎてさ、足くじいちゃって」
「跳びすぎた?」
妙な言い回しに聞こえてしまい、思わず声に出る。言葉の選び方なんて人それぞれなのかも知れないけれど、私には着地に失敗した、とでも言えば良い場面に思えてしまう。あえて跳びすぎたという言葉を選ぶほど、高く跳んでしまったということなのだろうか。
矢野さんはそうそう、とはにかんで、ぺろりと舌を覗かせた。
「だからね、診てもらってたところ」
親指で保健室を指す仕草に、私は彼女が中性的な顔立ちをしていることを初めて意識した。はっきりと整った眉に、大きなアーモンド形の目。彼女の快活さを表しているかのように大きく開く口は、閉じているときには薄い唇のせいで凛とした強ささえうかがわせるようだ。
「大丈夫なの? 足」
「うん、ちょっと痛いかなー、ぐらい。平気だよ。でさ、カンナはこんなところで何やったたの」
「えっと、私は――」
思わず相談室の方へ目をやりそうになって、慌てて俯いた。理由は自分でもよく分からないけれど、相談室に行っていたことは知られたくなかった。
「探検、かな」
「タンケン?」
「そう。ほら、まだ私たちって、入学したばっかりでしょ。いろいろ、まだ知らない場所ってあると思うし、あらかじめ見て回っておこうかな、って」
「ああ、なるほど」
とっさの嘘にしては上出来だ。内心で自画自賛しながら矢野さんの顔を見ると、彼女の目は興味深そうな色で私の手元に向けられている。
はっとして、お守りを持った手を背中に回した。
急いで出てきたせいだろうか。あんなに気味悪く思っていたはずなのに。動揺を悟られたくなくて笑顔を向けると、矢野さんはお守りから興味を無くしてくれたようだった。
「探検なんて面白そうじゃん。そんなことしてたなんて、なんか意外だよ」
「意外、かな」
そもそもが口から出まかせとはいえ、「そんなに行動的に見えないよね」と言われているみたいで、胸がちくりと痛む。
「うん、カンナってクールなタイプでしょ。だから探検だなんてギャップ感じるっていうか――」
「クール?」
「クールじゃん。なんか孤高っていうかさ、かっこいいやつ」
「そんな――」
そんなつもりはなかったし、そんなことを言われるのは初めてだった。
「いつもは声かけたら迷惑かな、って思っちゃうんだけど、さすがにこんな人気のない所で出くわして、無言ってのも変じゃん。それで勇気出してみたんだけど、良かったよ、相手してくれて」
「私、そんなふうに見えてたかな」
「うん、勝手にそう思ってた。だけどごめん、勘違いだった」
少し早口気味に言って、矢野さんは小さく頭を下げた。
「じゃ、まだあたし、部活戻らないといけないからさ、行くよ」
謝罪の言葉に私が反応するよりも早く顔を上げると、一瞬前までは申し訳なさそうにしていたはずの顔は、溌溂とした明るいものに戻っていた。頭の中の整理が彼女の表情の変化に着いていかなくて、私はなんとかうん、とだけ口にした。そして、それだけではなんだか物足りなく思ったので、がんばって、と取ってつけた。焦りのせいか、声が裏返りかかっていた。
「うん、また明日ね」
どこにでも転がっている、私には長らく縁遠いものだったはずの挨拶。くじいているらしい足で駆けていく後ろ姿を見ながら、私は心の奥から震えが拡がっていくのを感じた。
クールだとか孤高だとか、変な誤解をされていたということへの驚き。
久しぶりに矢野さんと話をできたことへの喜び。
明日からはもっと矢野さんと話せるかも知れないという期待。
でも、それよりも。
後ろに回していた手を広げ、青いお守り袋に視線を落とす。握られたせいでしわだらけになってしまったその袋は、細長くて薄っぺらい内容物の形を薄っすらと浮かび上がらせている。
どうして持ってきてしまったのか。
――いや、そんなことよりも。
動悸が激しくなる。手の中の青に焦点が合わない。声なのか胃液なのかよく分からないものが喉に込み上げてきて、思わず息を止めた。
まさか。まさか。まさか。そんな。
世界は変わる。頭の中に鮮明に残っている言葉が、止めるすべも見つからないままに繰り返される。偶然に違いない、と考える常識的な自分を押しのけて、もしかしたらという言葉が私の中で氾濫している。
――世界が、変わった?
このお守りを手にして、いきなり。今まで孤独だった私が、学年の人気者に声をかけられて、また明日、だなんて言われる世界。
自然と、視線は相談室に向いた。相談室はお守りを手にする前と変わらず、手作りの札をひっそりと掲げたまま押し黙っている。
ばおばお、ひおひお。遠くにあるはずの吹奏楽部の音が、薄暗い廊下にしとしとと降り積もる。心臓の音と楽器の音とが混ざりあって、私は足元から溶けてなくなってしまいそうになる。
それが――溶けてなくなってしまうことが恐ろしくなって、私はその場から駆け足で逃げ出した。階段を上りだすと、もう私の耳には自分の心臓の音しか聞こえなくなった。




