↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/18

第1話「退屈な天才少女と、存在しない事件」

第1話 退屈な天才少女と、存在しない事件


――2026年11月4日 午前8時15分

英国・ロンドン


 11月のロンドンは、相変わらず陰鬱だった。

 空には鉛色の雲が垂れ込め、朝から降り続く細かな雨が、古い煉瓦造りの建物や石畳の歩道を濡らしている。

 通りを走る赤い2階建てバス。

 傘を差して足早に歩く通勤客。道路脇に停車した黒いタクシー。

 世界有数の大都市は、今日も何事もなかったかのように動き始めていた。


 そんな街の一角を、1人の少女が歩いていた。

 灰金色の長い髪に、澄んだ青い瞳。整った顔立ちをした彼女は、紺色のブレザーに白いシャツ、チェック柄のスカートという、ごく普通の学生服を身につけている。右手には黒い傘、左手には革製の学生鞄。


 名前はエレノア・アシュフォード。16歳。


 ロンドン市内の私立セント・マーガレット学院に通う女子学生である。

 ただし、彼女を「ごく普通の女子学生」と呼ぶことには、少々問題があった。


「……退屈ね」

 エレノアは誰に聞かせるでもなく呟いた。

 その声には、16歳の少女には似つかわしくないほど深い倦怠感が漂っていた。

 彼女にとって、世界はあまりにも単純だった。

 学校の試験問題は教科書を一度読めば解ける。教師が授業中に出す質問も、答えを考えるより先に結論が浮かぶ。クラスメイトたちが夢中になる噂話に至っては、ほんの少し観察すれば、その大半が誇張か思い込みであることが分かってしまう。

 もちろん、彼女にも分からないことはある。しかし、少なくとも日常生活において、彼女の知的好奇心を満たしてくれるものは滅多になかった。


「せめて、何か面白い事件でも起きないものかしら」

 そう呟いた直後だった。

「待ってくれ! 誰か、そいつを捕まえてくれ!」

 通りの向こうから男性の叫び声が聞こえた。

 エレノアが視線を向けると、1人の若い男が人混みを縫うように走っていた。その後ろから、年配の男性が必死に追いかけている。

「泥棒だ! 財布を盗まれた!」

 周囲の通行人が驚いて振り返った。

 若い男は道路を横切り、地下鉄駅の入口へ向かって走っていく。しかし、エレノアは動かなかった。

 ただ、男の姿を数秒間観察しただけだった。


「……なるほど」

 彼女は小さく頷いた。そして、近くに立っていた警察官に声をかけた。

「お巡りさん。あの男性を追いかけるなら、駅の改札ではなく、右手の公衆トイレを確認した方がよろしいですよ」

「何だって?」

「彼は地下鉄に乗るつもりではありません。あの建物の陰へ逃げ込むつもりでしょう」

 警察官は怪訝そうな顔をした。

「どうして分かる?」

「簡単です。彼は駅の入口を何度も確認していますが、改札へ向かう人の流れを一度も見ていません。それに右足を少し引きずっています。長い距離を走るつもりなら、あの靴は不向きでしょう」

「それだけで?」

「いいえ。彼の上着の右ポケットをご覧になりましたか?」

「いや……」

「財布らしい膨らみがありませんでした。盗品を持っているなら、普通は身体のどこかに隠すでしょう。ですが、彼は何度も左手を握り直していました」

 エレノアは地下鉄駅の隣にある建物を指さした。

「あそこには公衆トイレがあります。入口の横には清掃用具の収納室もある。盗んだ財布を一時的に隠すには都合がよさそうです」

 警察官は半信半疑のまま無線機を取り出した。

 数分後、若い男は公衆トイレの近くで取り押さえられた。盗まれた財布は、清掃用具の収納室にある棚の裏から発見された。

「驚いたな……」

 警察官が感心したように言った。

「君、探偵か何かなのか?」

「いいえ。ただの学生です」

 エレノアは淡々と答えた。

「それに、今のは推理というほどのものでもありません」

「そうなのか?」

「ええ。観察した事実から、最も可能性の高い行動を予測しただけです。外れる可能性もありました」

「それでも大したものだ」

「ありがとうございます」


 彼女は軽く会釈した。そして、再び歩き始めた。

「……やっぱり退屈ね」

 その表情には、達成感らしいものがほとんどなかった。

 もっとも、彼女自身は気づいていなかった。その言動が、かつてロンドンのベーカー街に住んでいたとされる、ある有名な名探偵を思わせることに。

 もっとも、その名探偵は架空の人物であり、彼女は現実の人間である。

 少なくとも、この時点では。



――同日 午前10時25分

私立セント・マーガレット学院



 教室には、教師の声と生徒たちがノートを取る音だけが響いていた。黒板には複雑な数式が並んでいる。

「では、この問題を解ける者はいるか?」

 数学教師が教室を見渡した。

 生徒たちは互いに顔を見合わせた。誰も手を挙げない。

 教師は小さく溜息をついた。


「アシュフォード」

「はい」

「君なら解けるだろう?」

 窓際の席で本を読んでいたエレノアが、ゆっくりと顔を上げた。

「答えだけでよろしいですか?」

「できれば途中の計算も説明してほしいが」

「それなら、黒板の3行目から間違っています」

 教室が静まり返った。

「……何?」

「先生が最初に置いた条件では、その変形は成立しません。正しく計算すれば、答えは別の値になります」

 エレノアは立ち上がると、黒板の前へ歩いた。そして教師からチョークを受け取り、数行の式を書き加えた。

「こちらが正しい解法です」

 教師はしばらく黒板を見つめていた。やがて、困ったように笑った。

「……なるほど。確かに私の間違いだ」

 教室のあちこちから小さな笑い声が漏れた。


 エレノアは何事もなかったように席へ戻った。

 隣の席の女子生徒が、呆れたように囁く。

「ねえ、エレノア。あなたって本当に嫌な性格してるわよね」

「どうして?」

「先生の間違いを、みんなの前で指摘するからよ」

「間違いを間違いのまま放置する方が、よほど失礼だと思うけれど」

「そういうところよ」

 エレノアは首を傾げた。

 どうやら、自分の言動が周囲にどのような印象を与えるのかについては、あまり関心がないらしい。


 彼女は再び本を開いた。

 表紙には、19世紀末に出版された犯罪学の専門書の題名が記されていた。指紋、足跡、血痕、毒物、筆跡。科学的な手法によって犯罪を解明するための研究書である。

 その余白には、エレノア自身が書き込んだ細かな注釈が並んでいた。

 ただし、その本もすでに3度読み返している。

「……新しい本を探さないと」

 エレノアは小さく呟いた。

 彼女の趣味は読書とヴァイオリンだった。

 特にヴァイオリンは、複雑な問題について考える際に好んで演奏する。もっとも、考え事に夢中になるあまり、同じ旋律を何時間も繰り返すことがあり、家族から苦情を受けることも珍しくなかった。


 以前、彼女の母親は呆れたように言ったものだ。

『あなた、まるでシャーロック・ホームズみたいね』

 その時、エレノアは真顔で答えた。

『彼は架空の人物よ。それに、私はコカインなんて使わないわ』

 母親は返す言葉を失っていた。


 そんなことを思い出しながら、エレノアは窓の外を眺めた。

 灰色の空。降り続く雨。いつもと変わらないロンドン。

 今日も退屈な1日になる。

 少なくとも、この時の彼女はそう考えていた。




――同日 午後1時10分

セント・マーガレット学院・図書室



 昼休み。

 エレノアは図書室の奥にある窓際の席で、紅茶の入った水筒を傍らに置きながら本を読んでいた。図書室には数人の生徒がいるだけで、静かな時間が流れていた。

 そんな彼女のもとに、図書室の司書が近づいてきた。


「アシュフォードさん」

「何でしょう?」

「あなた宛てに、手紙が届いているわ」

「手紙?」

 エレノアは顔を上げた。

 司書の手には、1通の封筒があった。

「学校の受付に届いたそうよ。差出人が分からないから、念のため確認してほしいって」

「ありがとうございます」


 エレノアは封筒を受け取った。

 それは、現代ではあまり見かけない厚手のクリーム色の封筒だった。表面には、万年筆と思われる青黒いインクで、彼女の名前が丁寧に書かれている。


『Miss Eleanor Ashford』


 エレノアは眉をひそめた。

 自分宛ての手紙が学校に届くこと自体、珍しい。しかも、その筆跡には見覚えがなかった。

 彼女は封筒を裏返した。

 差出人の住所はない。ただし、封筒の隅には奇妙な郵便印が押されていた。

 日付は――。


「……1986年?」

 エレノアは思わず声を漏らした。 


 郵便印には、確かに1986年11月と読める数字が刻まれていた。

 もちろん、古い封筒を再利用した可能性はある。あるいは、誰かが古い郵便印を模倣したのかもしれない。それ自体は、決して不可能なことではなかった。

 だが、奇妙なのはそれだけではない。

 封筒の紙質、インクの滲み方、切手の種類。どれも、現代の一般的な郵便物とは異なっていた。


「……面白いわね」

 エレノアの青い瞳に、わずかな光が宿った。

 彼女は鞄から小さなペーパーナイフを取り出し、封筒を丁寧に開いた。

 中には、1枚の便箋が入っていた。

 そこには短い文章が記されていた。


『エレノア・アシュフォード嬢へ』

『1986年11月7日、私は殺される。』

『だが、犯人はまだ生まれていない。』

『真実を知りたければ、私の死を調べてほしい。』

『アーサー・ウィットモア』


 エレノアはしばらく便箋を見つめていた。そして、ゆっくりと口元を緩めた。

「……なるほど」

 彼女は便箋を机に置いた。

「これは、なかなか挑発的な文章ね」

 1986年に殺されると予告する人物。その手紙が、40年後の2026年に届く。しかも、犯人はまだ生まれていないという。

 常識的に考えれば、悪戯か何らかの暗号だろう。

 しかし、エレノアには1つ気になる点があった。

 文章の内容ではない。文章の書き方だった。

「『私は殺される』……」

 彼女は小さく呟いた。

 もし差出人が本当に1986年に生きていた人物なら、これは未来の出来事を予告する文章になる。

 だが、2026年の誰かが書いた文章なら、過去の事件について現在形で語っていることになる。どちらにしても不自然だ。

 そして何より、差出人はなぜ自分の名前を知っているのか。

「アーサー・ウィットモア……」

 エレノアはその名前を手帳に書き留めた。

 彼女は、ようやく少しだけ興奮していた。

 退屈な日常に、初めて小さな亀裂が入ったのである。



――同日 午後3時40分

ロンドン・ブルームズベリー地区



 授業が終わると、エレノアは真っ直ぐ帰宅することなく、ブルームズベリー地区へ向かった。

 この一帯には大学関係の施設や古書店が多く、古い資料を調べるには都合がよかった。

 雨はすでに上がっていたが、道路にはまだ水溜まりが残っている。

 エレノアは狭い路地にある古書店の前で足を止めた。

 店の看板には、金色の文字でこう書かれていた。


『ハリントン古書店』


 彼女は扉を開いた。

 小さな鈴の音が鳴った。

 店内には古い紙と革表紙の匂いが漂っている。天井まで届く本棚には、歴史書、古地図、新聞の縮刷版、古い雑誌などが所狭しと並んでいた。


「いらっしゃい」

 奥のカウンターから、白髪の店主が顔を上げた。

「また来たのかい、アシュフォードのお嬢さん」

「ええ。今日は少し調べたいことがあるの」

「今度は何だい? 毒物の歴史か、それとも犯罪心理学か?」

「1986年のロンドンで起きた死亡事件について」

 店主は眼鏡を直した。

「随分と具体的だね」

「アーサー・ウィットモアという人物をご存じ?」

 その名前を聞いた瞬間、店主の表情がわずかに変わった。

「……ウィットモア?」

「ええ」

「その名前なら、今日もう1人、尋ねてきた子がいるよ」

 エレノアの目が細くなった。

「もう1人?」

「ああ。君と同じくらいの年頃の女の子だ。奥で昔の新聞を調べているはずだよ」

 店主は店の奥を指さした。

 エレノアは礼を言うと、書棚の間を進んだ。


 その先には、小さな閲覧机があった。そして、そこに1人の少女が座っていた。

 少女は古い新聞の複写資料を机いっぱいに広げ、熱心に何かを書き留めていた。

 エレノアとは対照的に、その表情には柔らかな親しみやすさがあった。しかし、資料を見る眼差しは真剣だった。


「失礼」

 エレノアが声をかけた。

 少女が顔を上げる。

「はい?」

「アーサー・ウィットモアという人物について調べているのは、あなた?」

 少女は驚いたように目を見開いた。

「えっ? どうしてそれを?」

「店主から聞いたの。それで、少し質問してもいいかしら」

「もちろん。でも、あなたもウィットモアさんの事件を?」

「ええ。少々奇妙な手紙を受け取ったものだから」

「手紙?」

 エレノアは鞄から封筒を取り出した。

 少女は便箋を読んだ途端、息を呑んだ。

「これ……!」

「何か知っているの?」

「私も、似たようなものを見たの」

 少女は自分の手帳を開いた。


 そこには、古い新聞記事から書き写した文章があった。

『1986年11月7日、ロンドン市内の住宅でアーサー・ウィットモア氏が死亡』

『警察は事故死と判断』


 エレノアは記事を見つめた。

「事故死?」

「そう。でも、別の資料では殺人事件になっているの」

 少女はもう1枚の複写資料を差し出した。

 そこには、同じ新聞社、同じ日付の記事が掲載されていた。だが、見出しは異なっていた。

『ウィットモア氏殺害事件、警察が捜査を開始』

 エレノアは眉をひそめた。


「……妙ね」

「でしょう?」

「同じ日付の同じ新聞に、異なる記事が存在するなんて」

「最初は印刷ミスかと思ったの。でも、どちらも保存資料として残されているのよ」


 エレノアは2枚の記事を並べた。

 紙面の構成、写真の位置、記事の署名、ほかのニュースの見出し。それらは、ほとんど一致していた。

 しかし、事件に関する記述だけが異なっている。

「なるほど……」

 エレノアは腕を組んだ。

「同じ新聞の異なる版という可能性はあるわ。速報によって記事が差し替えられることは珍しくないもの」

「私もそう考えたの」

「でも?」

「事故死と判断された記事の方が、殺人事件の記事より後に印刷されたことになっているの」

「……ほう」

 エレノアの表情が変わった。


 少女は続けた。

「しかも、殺人事件の記事には、警察が捜査を開始したと書かれている。なのに、その後の新聞には事件の続報がないの」

「警察の捜査記録は?」

「公開されている資料では見つからなかったわ」

「死亡診断書は?」

「それも調べられる範囲では確認できなかった」

 エレノアは少女を見つめた。

 思っていた以上に、調査が進んでいる。単なる好奇心で古い新聞を眺めているわけではないらしい。


「あなた、なかなか優秀ね」

「え?」

「少なくとも、新聞記事を1つ読んだだけで結論を出す人間ではないようだわ」

 少女は苦笑した。

「それ、褒めているの?」

「もちろん」

「なんだか、あまり褒められた気がしないけど……」

 エレノアは気にしなかった。


「ところで、まだ名前を聞いていなかったわね」

「あ、そうだった」

 少女は笑顔を浮かべた。

「私はソフィア。ソフィア・ベネットよ」

「エレノア・アシュフォード」

「よろしくね、エレノア」

 ソフィアは手を差し出した。

 エレノアは一瞬、その手を見つめた。それから、軽く握り返した。

「ええ。よろしく」

 ソフィアは少し笑った。

「エレノアって、なんだか探偵みたいね」

「よく言われるわ」

「シャーロック・ホームズとか?」

「……彼と比較されるのは、あまり好きではないの」

「どうして?」

「彼は優秀な探偵だけれど、時々あまりにも芝居がかっているもの」

「そうかな?」

「それに、私はパイプも吸わないし、鹿撃ち帽も被らないわ」

 ソフィアは思わず笑った。

「でも、ヴァイオリンは弾きそう」


 エレノアの動きが止まった。

「……どうして分かったの?」

「えっ、本当に弾くの?」

「ええ」

「なんだか、ますますホームズみたい」

 エレノアは小さく溜息をついた。

「……不本意だわ」

 ソフィアは楽しそうに笑っていた。

 エレノアは少しだけ不思議に思った。初対面の相手と、これほど自然に会話を続けたのは久しぶりだったからだ。



――同日 午後4時30分

ハリントン古書店



「つまり、あなたはこの記事を偶然見つけたというわけ?」

 エレノアが尋ねた。

「そうなの。昔の未解決事件について調べていた時に、名前が出てきたの」

 ソフィアは頷いた。

「でも、調べているうちに記録が食い違っていることに気づいて……」

「それで気になった?」

「うん。だって、誰かが亡くなった事件なのに、事故なのか殺人なのかさえ分からないなんて、おかしいでしょう?」

 エレノアは少し考えた。

「おかしいこと自体は珍しくないわ。記録の誤り、報道機関の混乱、あるいは意図的な隠蔽。可能性はいくらでもある」

「でも、だからこそ調べたいの」

「どうして?」

「亡くなった人にも、その人を大切に思っていた人がいたはずだから」

 ソフィアは静かに答えた。

「もし本当に殺されたのなら、事故として片づけられてしまうのは悲しいと思う」


 エレノアは黙った。

 彼女にとって、事件とは論理的に解明すべき問題だった。証拠を集め、矛盾を取り除き、唯一の結論へ到達する。

 そこに感情を持ち込む必要はない。

 しかし、ソフィアは違った。事件の向こう側にいる人間を見ている。

「……あなた、少し変わっているわね」

「それ、エレノアに言われたくないな」

 ソフィアは笑った。

 エレノアは不満そうに眉を上げた。

「どういう意味?」

「そのままの意味よ」

 2人は顔を見合わせた。そして、どちらからともなく小さく笑った。

 それから約1時間、2人は資料を調べ続けた。

 ウィットモアは当時48歳。職業は歴史研究者。ロンドン市内の自宅で死亡したとされている。

 独身で、近親者に関する記録はほとんど残されていなかった。

 そして、最も不可解だったのは死亡時刻だった。 


「見て、これ」

 ソフィアが別の資料を指さした。

「殺人事件として報じられた記事では、死亡推定時刻が午後6時から8時になっているの」

「ええ」

「でも、同じ日の午後10時頃に、本人を見たという証言があるの」

 エレノアは顔を上げた。

「目撃者は?」

「少なくとも3人。近所の商店主と、タクシー運転手、それから通行人」

「本人確認は?」

「詳しい記録はないわ」

「なら、単なる人違いの可能性が高いわね」

「そうかもしれない。でも……」

 ソフィアは記事の最後を指さした。

「目撃者の1人は、ウィットモア本人と会話したと証言しているの」

 エレノアは記事を読み直した。そして、ゆっくりと微笑んだ。


「……死者の目撃証言、ね」

「怖くない?」

「いいえ」

 エレノアは即答した。

「むしろ、興味深いわ」

 彼女は便箋を取り出し、新聞記事の隣に置いた。

『1986年11月7日、私は殺される。』

『だが、犯人はまだ生まれていない。』

 40年前の死亡事件。矛盾する新聞記事。死亡後の目撃証言。そして、現代に届いた奇妙な手紙。

 すべてが、1つの事件へつながっている。

 エレノアは久しぶりに胸が高鳴るのを感じた。

「ソフィア」

「何?」

「この事件、もう少し詳しく調べてみない?」

 ソフィアは嬉しそうに頷いた。

「もちろん!」

「ただし、1つ条件があるわ」

「条件?」

「幽霊だとか呪いだとか、そういう説明は持ち出さないこと」

 ソフィアは苦笑した。

「分かってるわよ」

「結構」

 エレノアは資料を鞄へしまった。

「では、まず現場へ行きましょう」



――同日 午後6時20分

ロンドン・ベーカー街付近



 夕闇がロンドンの街を包み始めていた。

 街灯が次々と灯り、濡れた舗道に淡い光を映している。

 エレノアとソフィアは、古い地図を頼りにベーカー街から少し離れた路地を歩いていた。 


「そういえば、ベーカー街って本当にあるのね」

 ソフィアが言った。

「当然でしょう。架空の探偵が住んでいたからといって、通りまで架空になるわけではないわ」

「221B番地も?」

「ええ。今では博物館になっているわ」

「行ったことある?」

「3回ほど」

「やっぱりホームズが好きなんじゃない」

「資料を調べに行っただけよ」


 エレノアは即答した。

「それに、あの作品の推理には時々無理があるわ」

「例えば?」

「観察から導き出せる可能性を、まるで唯一の真実であるかのように断定するところね。現実の推理では、複数の仮説を検討する必要があるの」

「詳しいのね」

「……読んだことがあるだけよ」

「全部?」

「長編4作と短編56作」

 ソフィアは吹き出した。

「それ、全部じゃない!」

 エレノアは返事をしなかった。代わりに、手帳を取り出して住所を確認した。

「……この辺りね」

 2人は細い路地へ入った。

 通りの喧騒が遠ざかる。


 そこには、古びた煉瓦造りの建物が並んでいた。そして、路地の突き当たりに、ひときわ古い建物があった。

 3階建て。黒い鉄柵。重厚な木製の扉。

 窓には厚いカーテンが掛けられ、内部の様子は分からない。


「……ここね」

 エレノアが言った。

 扉の横には、小さな真鍮製の表札が取り付けられていた。

 しかし、そこには住人の名前が書かれていなかった。代わりに、見慣れない文字が刻まれている。


『CLIB』

「シー・エル・アイ・ビー?」


 ソフィアが首を傾げた。

「何の略かしら」

「さあ。でも、少なくとも一般住宅の表札には見えないわね」


 エレノアは建物を観察した。

 古い外観。しかし、扉の鍵は現代的な電子錠に交換されている。窓枠も最近補修された形跡がある。

 さらに、建物の周囲には監視カメラらしき装置が設置されていた。

「……妙ね」

「何が?」

「この建物、古いまま放置されているわけではないわ。誰かが継続的に管理している」

「じゃあ、人がいるの?」

「おそらく」

 エレノアは扉に近づいた。そして、郵便受けに目を向けた。

 そこには1枚の小さな紙片が挟まれていた。

『Miss Eleanor Ashford』

 エレノアの表情が変わった。

「……これは」

 今朝届いた手紙と同じ筆跡だった。

 彼女は紙片を取り出した。裏には短い文章が記されていた。


『お待ちしておりました。どうぞ中へ。』

 ソフィアが不安そうに尋ねた。

「エレノア……これって、どういうこと?」

「分からないわ」

 エレノアは正直に答えた。

「でも、少なくとも私たちがここへ来ることを予想していた人物がいるようね」

「危なくない?」

「危険である可能性は否定できないわ」

 エレノアは鞄から携帯電話を取り出し、現在地と建物の外観を記録した。

「ただし、無警戒に入るつもりもない。何かあればすぐに警察へ連絡できるようにしておきましょう」

 ソフィアも頷いた。

 エレノアは扉の呼び鈴を押した。


 数秒後、内部から電子音が聞こえた。続いて、鍵の外れる音。

 扉がゆっくりと開いた。

「……招待されているみたいね」

 エレノアは呟いた。そして、慎重に建物の中へ足を踏み入れた。



――同日 午後6時35分

CLIB・ロンドン本部



 建物の内部は、外観からは想像できないほど広かった。

 高い天井。磨き上げられた木製の床。壁一面に並ぶ書棚。古い地球儀や天体模型。

 そして、中央には大きな円形の机が置かれていた。机の上には、無数の書類や写真が整然と並べられている。

「……すごい」

 ソフィアが感嘆の声を漏らした。

 エレノアも周囲を見渡した。

 書棚には、年代別に分類された事件資料が収められている。

 19世紀の新聞、20世紀初頭の警察記録、古い写真乾板、そして現代の電子端末。まるで、異なる時代の資料が1つの場所に集められているかのようだった。


「ようこそ」

 突然、奥から声がした。

 2人が振り返ると、1人の男性が立っていた。

 年齢は50歳前後だろうか。灰色のスーツを着用し、落ち着いた雰囲気を漂わせている。

 男性は穏やかに微笑んだ。


「エレノア・アシュフォード嬢。そして、ソフィア・ベネット嬢ですね」

 ソフィアが驚いた。


「どうして私たちの名前を?」

「お2人については、以前から調べさせていただいていました」

 エレノアの目が鋭くなった。

「それは、あまり礼儀正しい行為とは言えませんね」

「ごもっともです」

 男性は苦笑した。

「ですが、事情が事情でして」

「その事情を説明していただけるのかしら?」

「もちろん」

 男性は机の前にある椅子を勧めた。

「まずは自己紹介を。私は、この施設の管理責任者を務めている者です」

「この施設は何なの?」

 ソフィアが尋ねた。


 男性は壁に掲げられた紋章を指さした。

 そこには、時計の文字盤と迷宮を組み合わせたような図案が描かれていた。


「ここは、時空迷宮事件調査室」

 男性は静かに告げた。


「正式名称は、Chronological Labyrinth Investigation Bureau」


「……時空迷宮事件調査室?」

 エレノアが繰り返した。


「略称はCLIB。我々は、通常の政府や警察機関では扱うことのできない特殊な事件を調査しています」

「特殊な事件?」

「歴史の記録から消された事件。異なる時代や空間にまたがる事件。そして、通常の方法では解決が困難な未解決事件です」


 エレノアは腕を組んだ。

「随分と大げさな説明ね」

「そう思われるでしょう」

「ええ。少なくとも、現時点では信用できないわ」

 男性は微笑んだ。

「それで結構です。探偵に必要なのは、疑うことですから」

「私は探偵ではないわ」

「まだ、そうかもしれませんね」

 その言葉に、エレノアは眉をひそめた。

 男性は机の引き出しから、1冊の古い事件記録を取り出した。

 表紙には、次のように記されていた。


『事件番号 1986-LON-0711』

『アーサー・ウィットモア死亡事件』


 ソフィアが身を乗り出した。

「その事件……!」

「お2人が調べていた事件です」

 男性は記録を開いた。

 そこには、死亡現場の写真、関係者の供述、検視記録の写しなどが収められていた。

 エレノアは資料を見つめた。

「……これらは、どこで入手したの?」

「我々独自の調査によるものです」

「警察の正式な記録ではないの?」

「一部は警察資料です。しかし、通常の公文書館では閲覧できません」

 エレノアは写真を1枚手に取った。

 古い住宅の一室。床に倒れた男性。周囲には家具が散乱している。

 明らかに、何らかの争いがあったように見えた。

「事故死という説明には無理があるわね」

「そうでしょう」

「でも、これだけで殺人と断定することもできない」

 男性は頷いた。

「その慎重さは評価します」

 エレノアは写真を机へ戻した。

「それで、あなた方は私たちに何をさせたいの?」

 男性は少しだけ表情を引き締めた。

「この事件の真相を解明していただきたいのです」

 ソフィアが首を傾げた。

「でも、40年前の事件ですよ?」

「ええ」

「関係者の多くは、もう亡くなっているかもしれません」

「そのとおりです」

「それなのに、どうやって調べるんですか?」

 男性はしばらく沈黙した。そして、静かに答えた。

「事件が起きた時代へ行けばよいのです」

 部屋の空気が止まった。

 ソフィアは目を瞬かせた。

「……え?」

 エレノアは男性をじっと見つめた。

「今、何と?」

「1986年のロンドンへ行っていただきます」

 エレノアは数秒間黙っていた。そして、深い溜息をついた。

「……残念だわ」

「何がでしょう?」

「せっかく興味深い事件だと思ったのに、最後は時間旅行だなんて」

 彼女は椅子から立ち上がった。

「悪いけれど、私は空想科学の愛好家ではないの」

 男性は驚かなかった。むしろ、その反応を予想していたかのようだった。

「では、実物をご覧になりますか?」

 エレノアは足を止めた。

「……実物?」

「ええ」

 男性は部屋の奥にある扉へ向かった。

「こちらへ」



――同日 午後8時10分

CLIB地下施設



 エレノアとソフィアは、男性の案内で地下へ降りていた。

 古いエレベーターに乗り込み、数十秒。

 扉が開いた先には、長い石造りの通路が続いていた。壁には等間隔に照明が取り付けられている。

 通路の奥からは、低い機械音が聞こえていた。


「ここは……?」

 ソフィアが尋ねた。

「CLIBの移動施設です」

 男性は答えた。

「移動施設?」

「ご覧になれば分かります」

 やがて、3人は大きな鉄製の扉の前へ到着した。

 男性がカードキーをかざす。

 重い扉がゆっくりと開いた。

 その瞬間、ソフィアは思わず息を呑んだ。


「……嘘」

 そこには、巨大な地下駅が広がっていた。

 高いアーチ状の天井。石造りのホーム。古風な駅時計。

 そして、ホームの向こうには、1編成の列車が停車していた。

 黒と深紅に塗装された車体。金色の装飾。磨き上げられた窓枠。

 まるで20世紀初頭の豪華列車を思わせる姿だった。

 しかし、車体の下部には現代の鉄道車両とも異なる機械装置が取り付けられている。

 エレノアは無言で列車を観察した。


「……これは」

 車体の側面には、金色の文字が記されていた。

『CHRONOS EXPRESS』

「クロノス急行……」

 ソフィアが読み上げた。

 男性は頷いた。

「我々が使用する時空間移動列車です」

「時空間移動列車?」

「過去、未来、そして異なる歴史を歩んだ並行世界へ移動するための列車です」

 エレノアは男性を見た。

「証明できるの?」

「もちろん」


 男性はホームに設置された大型の時計を指さした。

 その時計には、通常の時刻表示のほかに、年月日を示す数字が並んでいた。

 現在の表示は、2026年11月4日。 


「この列車は、特殊な時空間経路を通過することで、異なる時代へ到達できます」

「理論的な説明は?」

「詳細を理解するには、相当な時間が必要でしょう」

「構わないわ」

 エレノアは即答した。

「私は時間ならあるもの」

 男性は少し笑った。

「その好奇心は歓迎します。ただし、まずは実際に体験していただいた方が早いでしょう」

 エレノアは不満そうだった。

 しかし、目の前に存在する巨大な施設を、単なる悪戯として片づけることもできなかった。

 少なくとも、これほど大規模な設備を用意するには莫大な資金と人員が必要になる。そして、その目的が16歳の少女2人を騙すことだけだとは考えにくい。


「……分かったわ」

 彼女は静かに言った。

「ひとまず、あなたの説明を仮説として受け入れましょう」

 ソフィアが驚いた。

「エレノア、本当に乗るの?」

「ええ」

「怖くない?」

「怖いわよ」

 エレノアは平然と答えた。

「でも、未知のものを恐れるだけでは、何も分からないでしょう?」

 ソフィアは少し考えた。そして、小さく頷いた。

「……そうね」


 男性は2人を列車の前へ案内した。

「乗車前に、重要な規則を説明します」

 彼は書類を取り出した。


「まず、現地での滞在期間は原則7日間です」

「7日間?」

「ええ。時空間移動には一定の制約があり、長期間の滞在は認められていません」

 男性は続けた。


「次に、歴史へ重大な影響を与える行為は禁止されています」

「例えば?」

 エレノアが尋ねた。

「戦争の結果を変えること。歴史上の重要人物の生死を変えること。大規模な災害を意図的に発生させることなどです」


「なるほど」

「そして、最も重要な規則があります」

 男性は2人を見つめた。

「未来の情報を利用して、過去の事件の犯人を特定してはなりません」


 エレノアの表情が変わった。

「……それは、どういう意味?」

「例えば、1986年の事件について、2026年の記録に犯人の名前が残っていたとします」

「ええ」

「しかし、その名前を知っただけで事件を解決したことにはなりません」


 男性は静かに続けた。

「我々が求めているのは、事件が起きた時代に存在する証拠によって、真相を証明することです」


 エレノアはしばらく黙っていた。そして、微笑んだ。

「……素晴らしいわ」

 ソフィアが驚いた。

「え?」

「つまり、答えを知ることではなく、答えへ至る過程が重要ということね」

「そのとおりです」

 男性は頷いた。

「証拠と論理によって、誰も否定できない結論へ到達する。それが、我々の調査原則です」

 エレノアは満足そうに腕を組んだ。

「気に入ったわ」

 彼女は列車を見上げた。

「少なくとも、退屈することはなさそうね」



――同日 午後8時45分

クロノス急行・1号客車



 列車の内部は、外観に劣らず豪華だった。

 磨き上げられた木製の壁。深紅の絨毯。真鍮製の照明。

 大きな窓の脇には、向かい合わせの座席が設けられている。

 エレノアとソフィアは、指定された個室に案内された。

 机の上には、事件資料が用意されていた。


『アーサー・ウィットモア死亡事件』

『発生日時:1986年11月7日』

『発生場所:英国ロンドン』

『事件分類:未確定』 


 エレノアは資料を開いた。

 最初のページには、事件の概要が記されていた。


 アーサー・ウィットモア。48歳。歴史研究者。

 1986年11月7日、自宅で死亡。

 死亡推定時刻は午後6時から8時。

 しかし、同日午後10時以降に本人を目撃したという証言が複数存在する。

 さらに、当時の新聞記事には事故死と殺人事件の2種類の記録が残されていた。


「……やっぱり変ね」

 ソフィアが言った。

「何が?」

「死んだ後に本人が目撃されているなんて」

「目撃証言が正しいとは限らないわ」

 エレノアは資料をめくった。

「人間の記憶は不正確よ。暗い場所なら、顔を見間違えることもある」

「でも、本人と話した人もいるんでしょう?」

「それも、まだ証言にすぎないわ」


 エレノアは写真を1枚取り出した。

 そこには、事件現場となった住宅の外観が写っていた。

 古い煉瓦造りの建物。黒い鉄柵。そして、重厚な木製の扉。


 エレノアの手が止まった。

「……待って」

「どうしたの?」

「この建物……」

 彼女は写真を見つめた。 


 見覚えがあった。

 つい数時間前、自分たちが訪れた建物。CLIBの本部。

 その外観と、写真の建物がよく似ていたのである。


「ソフィア」

「何?」

「この写真を見て」

 ソフィアは写真を覗き込んだ。そして、目を見開いた。

「……さっきの建物?」

「ええ」

 エレノアは写真の裏を確認した。


 そこには、1986年11月7日という日付が記されていた。

 彼女は静かに呟いた。


「どうやら、私たちは思っていた以上に奇妙な事件へ巻き込まれたようね」

 その時、個室の扉がノックされた。


「失礼します」

 先ほどの男性が姿を現した。

「まもなく出発時刻です」

 エレノアは写真を掲げた。

「1つ質問があるわ」

「何でしょう?」

「この建物、あなた方の本部と同じ場所ではなくて?」

 男性は写真を見た。そして、少しだけ表情を曇らせた。

「……お気づきになりましたか」

「当然でしょう。窓の配置も、鉄柵の形も一致しているもの」

「ええ。確かに同じ建物です」

「では、1986年には何があったの?」


 男性は答えなかった。代わりに、静かに言った。

「それも、今回の調査で明らかにしていただきたいことの1つです」

 エレノアは目を細めた。

「……随分と秘密の多い組織ね」

「申し訳ありません」

「謝罪は不要よ。ただし、情報を隠されるのは好きではないわ」

 男性は小さく頷いた。

「覚えておきましょう」

 そう言うと、彼は個室を後にした。

 扉が閉まる。

 ソフィアは不安そうにエレノアを見た。

「ねえ、本当に大丈夫なのかな?」

「分からないわ」

「またそれ?」

「分からないことを分かったふりする方が危険よ」

 エレノアは資料を閉じた。

「でも、1つだけ確かなことがある」

「何?」

「この事件には、まだ私たちが知らない事実が隠されている」

 ソフィアは静かに頷いた。


 その時、車内に柔らかな鐘の音が響いた。


『ご乗車の皆様にご案内いたします。クロノス急行、1986年11月6日ロンドン行きは、まもなく発車いたします』


 ソフィアが窓の外を見た。

 地下駅のホームには、先ほどの男性が立っていた。彼は2人に向かって軽く会釈した。


 やがて、列車が静かに動き始めた。

 車輪の音はほとんど聞こえない。代わりに、車体の下から低い振動が伝わってきた。

 窓の外のホームがゆっくりと後方へ流れていく。

 そして、列車が暗いトンネルへ入った瞬間だった。


「……えっ?」

 ソフィアが声を上げた。

 窓の外の景色が歪み始めたのである。

 暗闇の中に、無数の光の筋が現れる。それらは渦を巻くように流れ、やがて星空のような光景へ変わっていった。


 エレノアは思わず窓へ身を乗り出した。

「……これは」

 彼女の知識では説明できない現象だった。

 光の屈折か。特殊な映像装置か。それとも、まったく未知の物理現象なのか。

 どの仮説も、今の段階では検証できない。

 しかし、1つだけ確かなことがあった。

 彼女は今、これまで経験したことのない現象を目撃している。


「エレノア……」

 ソフィアが小さく呼びかけた。

「私たち、本当に過去へ行くのかな?」

 エレノアは少し考えた。そして、微笑んだ。

「到着してから確かめましょう」

「本当に冷静ね」

「そうかしら?」

「うん。普通なら、もっと驚くと思う」

 エレノアは窓の外を見つめた。

「驚いているわよ。とても」

 その声には、普段の彼女からは想像できないほどの興奮が混じっていた。

 ソフィアは少し笑った。


「ねえ、エレノア」

「何?」

「これから、私たちどうなるんだろう?」

「さあ」

 エレノアは肩をすくめた。

「でも、少なくとも退屈はしないでしょうね」

 そして、向かい側に座る少女を見つめた。

「ところで、ソフィア。1つ質問してもいい?」

「何?」

「死んだ人間が歩いていたという証言を、あなたならどう説明する?」

 ソフィアは少し考えた。

「……まず、本当に死んでいたのかを確かめるべきじゃない?」

 エレノアは満足そうに笑った。

「悪くない答えね」

「それって褒めてる?」

「もちろん」

 ソフィアは苦笑した。

「なんだか、ホームズとワトソンみたいね」

 エレノアは眉を上げた。

「それなら、あなたがワトソン役ということ?」

「えっ? 私が?」

「少なくとも、私がワトソン役になるとは思えないもの」

「……エレノアって、結構自信家なのね」

「事実を述べただけよ」

 ソフィアは呆れたように笑った。エレノアも小さく微笑んだ。


 その時、車内放送が響いた。


『時空間経路への進入を確認しました。目的地、1986年11月6日。到着まで、しばらくお待ちください』


 列車は光の渦の中を進んでいく。

 40年前のロンドン。死者から届いた手紙。矛盾する事件記録。そして、まだ生まれていないという犯人。

 すべての謎が、2人の少女を待っていた。

 エレノアは窓の外を見つめながら、静かに呟いた。


「……さあ、ゲームの始まりね」

 その青い瞳には、もはや退屈の色はなかった。

 こうして、2人の少女による時空を越えた事件調査が始まった。


 しかし、彼女たちはまだ知らない。

 今回の事件が、単なる40年前の未解決事件ではないことを。そして、この事件の背後に、時空迷宮事件調査室そのものに関わる重大な秘密が隠されていることを。


 列車は、過去へと走り続ける。

 その先に待ち受ける真実を、まだ誰も知らない。


――第1話 完

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。