第37話 【滅びの国の残影】
カデシュの地に集結した軍勢が陣形を整える中、北方の地平から立ち上る砂塵が警戒の角笛を鳴らさせた。
「敵襲か!?」
動揺する同盟国の将軍たちを制し、ファラオは静かに全軍へ待機を命じた。
暗殺・密偵部隊の長であるバキが、影のようにファラオの傍らへと歩み寄る。
「……報告いたします、我が君。ヒッタイトの先鋒ではございません。旧ミタンニ王国の遺臣、その生き残りでございます。」
砂塵の中から現れたのは、ボロボロの甲冑を身に纏い、傷ついた騎馬と戦車を引き連れた一隊であった。
率いるのは、ミタンニ王家の血を引く老将カルタ。
シュッピルリウマ1世の大遠征によって国家を砕かれ、ヒッタイトへの激しい復仇の念だけを胸に潜伏していた精鋭二千である。
カルタは馬から転がり落ちるように下りると、ファラオの前に両膝をつき、額を砂にこすりつけた。
「偉大なるエジプトのファラオよ……!
我が国ミタンニは、あの悪魔のごときシュッピルリウマに踏みにじられ、国土を奪われました!
ですが、我らの刃はまだ折れておりませぬ!
どうか……どうか我らを貴殿の陣列にお加えくだされ! この命、ヒッタイトを討つための捨て石として捧げまする!」
その悲痛な叫びに、周囲の諸国将軍たちは息を呑んだ。
ミタンニといえば、かつてエジプトと肩を並べた大国である。
それが今や無残に落ちぶれ、復讐を求めてファラオに縋っている。
ヒッタイトの残忍さと圧倒的な破壊力が、改めてその場にいる全員の脳裏に焼き付けられた。
参謀メレルがファラオの耳元で囁く。
「我が君。ミタンニの残党はヒッタイトの戦術や北方の地理に精通しております。ですが、あまりに憎悪が深く、手綱を誤れば陣形を乱す諸刃の剣となりかねません。」
ファラオは静かに歩み寄り、膝をつくカルタの肩に手を置いた。
「立て、ミタンニの将よ。」
その手から伝わる確かな温もりと、揺るぎない力強さに、カルタは思わず顔を上げた。
「捨て石になる必要などない。余の陣において、無駄死になど一人として許さん。
お前たちの無念と憎悪、そしてかつての大国の誇り、すべて余が預かる。」
ファラオの瞳が、漆黒の輝きを放つ。
「ミタンニの騎馬術とヒッタイト軍に関する知識、余の軍略と融合させてみせよ。
奪われた故郷を叩き潰したシュッピルリウマに、死の恐怖を叩き込むのは……お前たちの刃だ。」
「ファラオ……おお、ファラオ……!」
カルタは滂沱の涙を流し、叩頭した。
二千のミタンニ遺臣たちからも、割れんばかりの歓声と誓いの叫びが上がった。
ファラオは即座に陣形を再編した。
ミタンニの軽快な騎兵・戦車隊を、主力である新式鋼鉄長槍陣形の両翼に配置。
ヒッタイトの重装戦車隊が突出してきた際、その側面を疾風のごとく急襲する「挟撃の翼」として組み込んだのである。
古代の大国ミタンニの執念を吸収し、エジプト軍の全貌はついに完成した。
覇王シュッピルリウマ1世率いる四万のヒッタイト軍との激突まで、残された時間はわずかであった。




