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第14話 背負いすぎた白衣


 夜は、もう深かった。


 病院という場所において、“深夜”という時間帯は、単に時計の針が進んだことだけを意味しない。


 それは、余白が削がれていく時間だ。


 人員は減る。

 光は冷たくなる。

 音は少なくなる。


 だが、そのぶんだけ、一つひとつの物音の意味が重くなる。


 廊下を走る靴音。

 ナースステーションで紙をめくる音。

 金属トレーがわずかに触れ合う乾いた音。

 遠くの病室から漏れてくる咳払い。

 ナースコールの短い電子音。

 空調の低い唸り。

 そして、規則正しく鳴り続けるモニターの機械音。


 それら全部が、白く整えられた空間の中で、ひどく鮮明に響いていた。


 白い廊下。

 白い壁。

 白い天井。

 白いカーテン。

 白いシーツ。


 昼間に見れば清潔で機能的なだけの色が、夜になると別の意味を持ち始める。


 白は、隠せない色だ。


 疲れも。

 焦りも。

 血の跡も。

 表情の揺れも。


 全部を、やけに残酷な精度で浮かび上がらせる。


 真夜中の停電からの仮復旧。


 だがそれは、“戻った”のではない。


 ただ、“完全には壊れなかった”だけだ。


 電子カルテは依然として不安定。

 モニターは一部のみ。

 記録は紙へ。

 確認は人へ。

 判断は、経験と視線と呼吸の読みへ。


 つまり、病院は今、“機械が補っていた人間の限界”をむき出しのまま抱えて動いている。


 そのことを、黒瀬湊は車椅子の上で、静かに理解していた。


 車椅子のタイヤ越しに伝わる床の硬さ。

 肘掛けに置いた腕の重さ。

 まだ完全には自分のものになりきっていない下半身の鈍い違和感。

 上半身だけをわずかに前へ傾けた時に、身体の奥で小さく軋む筋肉。


 回復はしている。


 だが、完全ではない。


 立てる。

 短い距離なら支えられて動ける。

 車椅子にも乗れる。


 けれど、“自由に動ける人間”にはまだほど遠い。


 それでも、ベッドに固定されていた時とは景色が違った。


 病室の中だけではない。


 カーテンの隙間の向こう。

 廊下。

 ナースステーション。

 そのさらに先の、救命側へ通じる白い通路。


 以前なら、ただ遠くにあるだけだった場所が、今は“選択の届く範囲”に見える。


 そのことが、今の湊にとっては大きかった。


(……まだ終わってない)


 小さく息を吐きながら、そう思う。


 ついさっきまでの急変対応で、ひとつの山は越えたはずだった。


 奈緒と結衣が噛み合い始めた。

 綾乃も戻った。

 病棟の流れも、完全ではないにせよ持ち直していた。

 桐谷も転倒リスクの確認に走り、西野はライトを置き、奈々は温かいスープを置き、沙織は怖さを言葉にした。


 それぞれが、それぞれの場所で夜を支えている。


 だが、空気が教えている。


 まだ終わっていない。


 むしろ、これは“途中”だ。


 視界の端に、青白い光が静かに明滅する。


『黒瀬湊』


『レベル:7』

『現在経験値:1035/3600』

『現在スキル経験値:620/1500』

『現在恋愛ポイント:1075』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.6』


『現在ステータス』

・身体強化:強化済

・視力補正:回復中

・観察眼:解放済

・精神負荷耐性:微上昇

・車椅子移動:制限付きで可能

・立位保持:短時間のみ可能


『所持スキル』

・《感情トレースLv.2》

・《言外読解Lv.2》

・《身体感覚補正Lv.2》

・《安心感付与Lv.1》

・《重心把握Lv.1》

・《疲労看破Lv.1》

・《関係負荷軽減Lv.1》

・《役割把握Lv.1》


『所持アイテム』

・《微睡みミント》×1

・《メンタルリカバリーチケット》×1

・《リハビリサポートバンド》×1

・《ナースメモカード》×1

・《ミントタブレット》×1

・《栄養補助スープ》×1

・《暇つぶしカード》×1

・《非常用簡易メモ》×1

・《夜勤対応メモ》×1

・《小型ライト》×1

・《集中維持パッチ》×1


『解放済み機能』

・イベント危険度表示

・会話相性表示

・選択肢リスク予測

・ステータス詳細表示

・軽会話ログ保存

・食事相性表示

・患者心理補正

・感情隠蔽補正表示

・連携相性表示


『現在進行中イベント』

▼エマージェンシーイベント:夜間病院ステージ 継続中

▼白石結衣 信頼深化ルート 進行中

▼佐倉奈緒 受容進行ルート 進行中

▼神宮寺綾乃 観察値上昇中

▼桐谷美月 連携ルート 進行中

▼西野あかり 軽会話サポート 継続中

▼宮本奈々 食事サポート 継続中

▼吉岡沙織 患者間共感イベント 継続中


『特殊フラグ』

▼白峰紗雪:止まれなかった手

▼白峰紗雪:過去フラグ微弱反応

▼未解析対象:白衣の男

▼停電余波:継続

▼病棟全体ストレス:高


 その直後。


 表示が、赤く揺れた。


『▼エマージェンシーイベント PART3 進行中』

『危険度:高 → 極高』


『主対象:神宮寺綾乃』


 その表示を見た瞬間、湊の目がわずかに細くなった。


(……綾乃先生か)


 奈緒でもない。

 結衣でもない。


 神宮寺綾乃。


 なら、場所は一つだ。


 救命センター。


 あの人がブルーコールで向かった先。

 病棟のさらに奥。

 命の優先順位が、最も露骨に剥き出しになる場所。


 湊はゆっくりと息を吸い込み、短く吐く。


(行くしかないか)


 綾乃に「余計なことはしないで」と言われたことを思い出す。


 その通りだと思う。


 本来なら。


 患者が車椅子で夜の院内を動くべきではない。

 しかも今はエマージェンシーの最中だ。

 邪魔になる可能性の方が高い。


 奈緒に見つかれば止められる。

 結衣に見つかれば泣きそうな顔で止められる。

 桐谷に見つかれば、「あんた何してんの」と低い声で説教される。

 綾乃に見つかれば、間違いなく怒られる。


 それでも。


(見えちゃってるんだよな)


 見えている。

 表示されている。

 主対象まで指定されている。


 このスキルは、便利さと一緒に責任まで押しつけてくる。


 知らなければ、何もしなくて済んだ。

 けれど知ってしまった以上、無関係ではいられない。


(ほんと、面倒な能力だよ)


 内心でそう悪態をつきながらも、湊の指先はもう車椅子のハンドリムへ触れていた。


     ◇


「黒瀬さん?」


 廊下へ出ようとしたところで、声がした。


 白石結衣だった。


 処置後の片付けを終えたばかりなのだろう。

 手には記録用紙があり、髪は少し乱れている。頬にはまだ緊張の名残があった。それでも、目だけはしっかり前を見ている。


 さっきまで震えていた手で、彼女は確かに夜を越えた。


 その事実が、結衣の輪郭を少しだけ変えていた。


「どこへ行くんですか?」


「……少しだけ」


「少しだけ、で救命側へ行こうとしてません?」


「鋭いな」


「鋭くもなります」


 結衣は眉を寄せた。


「黒瀬さん、患者さんなんですよ」

「しかも、まだ車椅子移動だって一人で遠くまで行っていい状態じゃないです」

「今は停電の影響も残ってますし、廊下だっていつもより危ないですし」

「それに……」


 一度、言葉が詰まる。


 怒っている。

 心配している。

 止めたい。

 でも、さっき湊の言葉に助けられたことも覚えている。


 その全部が結衣の表情に出ていた。


「それに、また無茶したら……私、たぶん怒ります」


「白石さんが怒るのか」


「怒ります」


 結衣は真面目に頷いた。


「泣きながら怒るかもしれません」


「それは強いな」


「茶化さないでください」


 頬が少し赤い。

 でも声は本気だ。


 湊はほんの少しだけ笑ってしまいそうになり、すぐに表情を戻した。


「ごめん」


「……謝るなら、戻ってください」


 結衣の声が小さくなる。


「黒瀬さんが見てくれてると、確かに助かります」

「私も、佐倉さんも、たぶん今日何回も助けられてます」

「でも、それで黒瀬さんが倒れたら、私……すごく嫌です」


 その言葉は、看護師としてのものだけではなかった。


 一人の女の子として。

 誰かに助けられてしまった人間として。

 その相手が無理をするのを見たくない、という声だった。


 視界に表示が浮かぶ。


『《白石結衣》』

『好感度:84%』

『状態:心配/照れ残存/制止欲求』

『補足:黒瀬の無茶に対する不安上昇』


 選択肢が出る。


『【選択肢】』


『A:大丈夫だから、と押し切る』

『B:心配してくれてありがとう、と受け止める』

『C:綾乃先生が危ないかもしれない、と説明する』

『D:結衣に同行を頼む』


(……Bだな)


 Aは論外だ。

 Cは余計に不安を煽る。

 Dは結衣の持ち場を崩す。


 ここで必要なのは、結衣の心配を無視しないこと。


「白石さん」


「はい」


「心配してくれて、ありがとう」


 結衣が一瞬、言葉を失った。


「……そういう返し、ずるいです」


「ずるいか?」


「ずるいです」

「止めようとしてるのに、そんなふうに言われると……怒りにくくなるので」


「でも、本当にありがたいと思ってる」


 湊は車椅子のひじ掛けに手を置いたまま、静かに続けた。


「俺も、無茶したいわけじゃない」

「走れるわけでもないし、処置できるわけでもない」

「だから、邪魔になりそうなら戻る」

「でも……今、見えてるものがある」


 結衣の目が揺れる。


「また……ですか」


「たぶん」


「黒瀬さんって、本当に何が見えてるんですか」


「言っても信じてもらえないやつ」


「それ、逆に怖いです」


「だよな」


 少しだけ笑う。


 結衣も、困ったように眉を下げた。


「……戻ってきてください」


 一拍。


「ちゃんと」


 その“ちゃんと”が、胸に残る。


 湊は頷いた。


「戻る」


「約束です」


「約束」


 結衣はそれでも不安そうにしていたが、最終的には道を塞がなかった。


 それは、湊を信じたからではない。


 信じたいと思ってしまったからだ。


『《白石結衣》』

『状態:心配/制止欲求 → 心配/信頼(微)』


『好感度:84% → 85%』


(……重いな、一パーセント)


 湊は心の中で呟きながら、ゆっくりと車椅子を進めた。


     ◇


 少し先の角で、今度は桐谷美月に見つかった。


「……はい、停止」


 低い声だった。


 湊は車椅子を止めた。


「桐谷さん」


「どこ行くの」


「少しだけ救命側に」


「患者が?」


「患者が」


「理由は?」


「……見に」


「観光?」


「違います」


 桐谷は腕を組んだ。


 いつもの軽さはある。

 だが、目が笑っていない。


『《桐谷美月》』

『好感度:50%』

『状態:疲労/警戒/説教準備』

『補足:黒瀬の身体負荷を懸念』


「黒瀬」

「私は理学療法士だから、あんたの身体の動きは見る」

「今のあんたは、だいぶ動けるようになった」

「でも、動けるようになったことと、無茶していいことは別」


「わかってます」


「わかってる人の動きじゃないんだよね」


 即答だった。


 湊は黙る。


「見たいものがあるのはわかる」

「言葉で助けられる場面があるのも、さっき見た」

「だから頭ごなしに止める気はない」


 桐谷は一拍置く。


「でも、倒れたら全部台無し」

「あんたの身体は、あんたが思ってるよりまだ正直じゃない」

「気持ちだけ前に出ると、身体が置いていかれる」


 その言葉は、痛いほど正しかった。


 湊は自分の膝に視線を落とす。


 まだ重い。

 まだ鈍い。

 まだ遠い。


 自分の身体なのに、以前のようには信用できない。


「……じゃあ、どうすればいいですか」


 桐谷は小さく息を吐いた。


「行くな、って言うのが正解」

「でも、たぶんあんたは行く」


「……はい」


「なら条件」


 桐谷は車椅子の後ろへ回った。


「私が途中まで押す」

「自走は最小限」

「体調が落ちたら即戻る」

「神宮寺先生に怒られたら、私は知らない」


「最後だけ急に冷たくないですか」


「そこは自業自得」


 桐谷は軽く笑った。


 けれどその笑みは、夜の重さを少しだけ逃がしてくれる。


「あと」


「はい」


「戻ってきたら、ちゃんと寝る」

「これはリハビリ担当からの命令」


「……善処します」


「その言い方、神宮寺先生に信用されてないやつでしょ」


「よくわかりますね」


「今日何回も聞いた」


 湊は少しだけ笑った。


 桐谷も車椅子を押しながら、声を落とす。


「黒瀬」

「さっきのあんた、かなり良かったよ」

「奈緒さんと白石を噛み合わせたの、あれは普通じゃできない」

「でも、だからって自分を万能だと思うな」


「思ってないです」


「ならいい」

 一拍。

「役に立つ人間ほど、役に立とうとして壊れるから」


 その言葉は、綾乃のことを言っているようでもあり、湊自身へ向けられているようでもあった。


 湊は少しだけ黙り、そして頷いた。


「覚えておきます」


「うん」

「忘れたら説教ね」


『《桐谷美月》』

『好感度:50% → 52%』

『状態:警戒/支援許可』

『補足:黒瀬の判断力を評価。ただし身体面の監視対象』


     ◇


 救命センターへ近づくにつれて、空気は確実に変わっていった。


 病棟側の廊下にも緊張はあった。

 だが、それは“何かが起こるかもしれない”という緊張だった。


 救命センターの近くは違う。


 そこではもう、何かが起きている。


 人が走る。

 短い指示が飛ぶ。

 ドアが開閉する。

 誰かの呼吸が少し速い。

 器具の接触音が細かく重なる。

 紙の音すら急いているように聞こえる。


 ただ忙しいのではない。


 忙しさの中身が全部“生きるか死ぬか”に直結している。


 同じ白い壁でも、ここは別の世界だった。


 人の気配が濃い。

 責任の密度が濃い。

 判断の重みが濃い。


 桐谷は救命センターの少し手前で車椅子を止めた。


「私はここまで」

「この先は、本来あんたのいる場所じゃない」


「はい」


「本当に危ないと思ったら戻って」

「見えるものより、自分の呼吸優先」


「わかりました」


「返事はいいんだよね、ほんと」


 桐谷は苦笑し、軽く湊の肩を叩いた。


「行ってきな」

「ただし、無事に戻ること」


「はい」


 湊は小さく頷き、自分で車椅子を動かした。


 そして、その中心に――神宮寺綾乃がいた。


 救命センターの処置室。


 開いたドアの隙間から見えるその姿を、湊は思わず息を止めて見た。


 白衣の袖口に、わずかに血の色が滲んでいる。

 額に汗はない。

 呼吸は乱れていない。

 長い黒髪もきっちりまとめられ、視界の邪魔にならないように抑えられている。


 ただ目だけが鋭く、深い。


 その視線の中にあるのは、迷いではない。

 切り分けられた優先順位と、そこへ向かう強い集中だけだ。


「血圧」


「維持」


「尿量」


「少ないです」


「追加、確認」


「はい」


 言葉は短い。


 余計な飾りは一つもない。


 だが、その短さの中に必要な情報と意思がすべて収まっている。


 外科医としての綾乃は、病棟で見る綾乃とは少し違っていた。


 病棟では、まだ“人に向ける余白”がある。

 患者を安心させないといけない。

 若手に指示を通さないといけない。

 必要最低限の言葉で、場そのものを整える役割がある。


 ここでは、もっと剥き出しだ。


 命を前にした機能としての鋭さ。

 判断。

 処置。

 連携。

 そしてそのすべてを一つも落とさずに通すための、異様なまでの集中。


(……すごいな)


 湊は率直にそう思う。


 綺麗とか、かっこいいとか、そういう言葉では足りない。


 怖い。


 それに近い。


 人がここまで“責任を背負う形”になれるのかと、そういう怖さだ。


 綾乃の前にいるのは、重傷患者だった。


 腹部損傷。

 出血。

 循環動態の不安定さ。

 停電の混乱による初動遅延の影響もある。


 普通なら、それだけで空気が崩れてもおかしくない。


 だが、綾乃の周囲だけは、妙に静かだった。


 もちろん音はある。


 だが、焦りの音ではない。


 切迫した場面なのに、焦りを前面に出さない。

 場が壊れないように、壊れたら終わると知っている人間たちの動き方だ。


 ただ、一度だけ。


 器具を受け取る綾乃の指先が、ほんのわずかに遅れた。


 誰も気づかない程度の遅れ。


 だが、湊には見えた。


(……疲れてる)


 綾乃は疲れている。


 それでも疲れていることを、本人が一番認めていない。


『《神宮寺綾乃》』

『年齢:28』

『職業:外科医』


『レベル:29』

『レア度:★★★★★』

『好感度:12%』


『状態:集中/判断加速/疲労隠蔽/責任集中』

『補足:限界接近/自覚抑制』


(……危ないな)


 綾乃は強い。


 でも、強い人間ほど壊れないわけではない。


 壊れるまで壊れていないように見えるだけだ。


「止血、完了」


 綾乃の短い一言。


 それだけで、周囲の空気がほんのわずかに変わる。


 誰かが目に見えて喜ぶわけではない。

 安堵のため息が漏れるわけでもない。


 けれど、確かに一段深いところで、“通した”という感覚が共有される。


「次、確認」


「はい」


 助手が答える。

 看護師が器具を渡す。

 誰一人として動きが浮いていない。


 綾乃の目が一瞬だけ細くなる。


(……抜けた)


 心の中での確認。


 表には一切出さない、ほんの小さな安堵。


 まだ終わりではない。

 でも、ここは越えた。


 綾乃は、そう判断していた。


     ◇


 患者がICUへ移送されたのは、その少し後だった。


 ストレッチャーが動く。

 脇につく看護師たちが小さく役割を確認し合う。

 ドアが開き、閉じる。


 それが終わって、ようやく綾乃は一歩だけ後ろへ下がった。


 ほんの一歩。


 それだけ。


 だが、その一歩には確かに“ここまで”という意味が含まれていた。


「……引き継ぎ」


「了解です」


 短いやり取り。


 それ以上の言葉は必要ない。


 ここでは結果が会話の代わりになる。


 綾乃は呼吸を一つだけ整え、すぐに次の確認へ入った。


 その横顔を見ながら、湊は改めて思う。


(この人、自分を休ませる気ないな)


 疲れていないはずがない。


 停電後の混乱。

 ブルーコール。

 緊急処置。

 病棟への指揮。

 救命への応援。


 それだけでも普通の人間なら神経を使い切る。


 でも綾乃は、そこに“まだ次がある前提”で立っている。


 まるで、自分自身を含めてすべてを仕事の中へ押し込めるみたいに。


(……背負いすぎだろ)


 その印象が、妙に胸に残った。


     ◇


 少しだけ時間が空いた。


 その短い隙間に、西野あかりが救命センター近くの廊下まで来ていた。


 売店の制服に薄いカーディガン。


 手には、小さな紙袋。


 この状況でここまで来るのは勇気がいるはずなのに、彼女は場の邪魔にならないぎりぎりの距離で足を止めていた。


「黒瀬さん」


「西野さん?」


「ほんとに、どこにでもいますね」


「それはこっちの台詞です」


「私は補給係なので」


 西野は小さく紙袋を掲げた。


「ミントと、個包装の飴と、ライトの予備」

「医療の邪魔はできないけど、口の中が乾く人って多いから」

「あと、待ってる人ほど、何かを握ってるだけで落ち着くことあるんです」


 軽い声。

 でも、浅くない。


 西野は救命センターの中を見ようとはしない。

 見てはいけないものを、ちゃんと知っている距離の取り方だった。


「西野さんって、本当に空気読むの上手いですよね」


「褒めた?」


「たぶん」


「じゃあ受け取っとく」


 にっと笑う。


 その笑顔は、いつもの売店のものより少しだけ薄かった。


「でもね、黒瀬さん」

「軽く見える人って、だいたい重い場所に長くいるために軽くしてるんだよ」


 湊は少しだけ目を見開く。


「それ、自分のことですか」


「さあ?」


 西野は肩をすくめる。


「黒瀬さんも、ちょっと似てる」

「本当はしんどいのに、面白いって顔してる」


「……顔に出てます?」


「出てる」

「結構」


 西野は紙袋を膝の上に置いた。


「これ、置いていきます」

「使うかどうかは、黒瀬さんが決めて」


「代金は」


「次」


「またですか」


「またです」


 西野は軽く笑い、すぐに引いた。


「次があるって、今は大事でしょ」


 その言葉だけ残して。


『《西野あかり》』

『好感度:35% → 37%』

『状態:不安/気遣い → 軽会話サポート継続』

『補足:黒瀬の精神負荷を軽くする言葉を配置』


(……軽いな)

(でも、残る)


 湊は紙袋を見つめながら、小さく息を吐いた。


     ◇


 休憩室の方から、温かい匂いが流れてきたのは、その少し後だった。


 宮本奈々が、保温ポットを抱えていた。


 食堂スタッフのエプロン姿。

 髪は少し乱れている。

 だが、目はまっすぐだった。


「あ、黒瀬さん」

「やっぱりここにいましたね」


「俺、そんなにわかりやすいですか」


「はい」


 即答だった。


「だって、気になる方に行きそうな顔してます」


「みんなに言われるな、それ」


「みんな心配してるってことです」


 奈々は保温ポットを近くの台へ置いた。


「薄めのスープです」

「夜勤さん用に置いておきます」

「食べる暇がなくても、一口だけでも飲めるようにしてあります」

「胃に重くないようにしてあるので」


 彼女の声は明るい。


 けれど、いつものように元気を押しつける明るさではない。


 現場の空気を見て、声量を抑えて、それでも温度だけは届けようとしている。


「奈々さんは、こういう時も食べ物なんですね」


「はい」


 奈々は迷わず頷いた。


「こういう時こそ、です」


 一拍。


「人って、極限だと食べるの忘れちゃうんです」

「お腹空いてることにも気づかないし、喉が乾いてることにも気づかない」

「でも、身体はちゃんと削れてる」

「だから、飲める時に一口でも入れてほしいんです」


 その言葉は、奈々らしかった。


 治療はできない。

 指示も出せない。

 病状判断もできない。


 でも、食で支えることはできる。


 奈々はそれを、自分の役割としてちゃんと持っている。


「黒瀬さんも」


「はい」


「飲める時に、飲んでください」

「頭使うのも、意外と体力使うんですから」


「……わかりました」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんはダメです」


 奈々が少し頬を膨らませる。


 その表情に、こんな状況なのに少しだけ胸が緩む。


「ちゃんと飲みます」


「よし」


 奈々は満足そうに頷いた。


『《宮本奈々》』

『好感度:34% → 36%』

『状態:心配/世話焼き → 食事サポート継続』

『補足:黒瀬の疲労を察知』


     ◇


 その頃、病棟側では吉岡沙織が眠れずにいた。


 カーテン越しに聞こえる足音。

 遠くの声。

 時折、妙に速くなる廊下の空気。


 それが、彼女の胸を少しずつ締めつけていた。


「……黒瀬さん、またいない」


 ぽつりと呟く。


 別に、頼っているつもりはない。


 けれど、昼間に話した相手が近くにいるだけで、病院の夜は少しだけ耐えやすかった。


 怖いと言えば、怖いと言ってくれる。

 大丈夫と雑に流さず、怖さを否定しない。


 それがどれだけ助かるか、沙織は今日知ってしまった。


「……ずるいな」


 小さく呟き、毛布を少しだけ握る。


 その声を聞いた結衣が、カーテンの外からそっと声をかける。


「吉岡さん、大丈夫ですか?」


「……あ、はい」

「すみません」


「謝らなくて大丈夫です」

「怖いですよね」


 結衣の声は少し疲れていた。


 けれど、優しかった。


 以前よりも、少しだけ強くなった声だった。


「黒瀬さんなら、たぶん戻ってきます」

「約束したので」


「約束?」


「はい」

「戻るって」


 沙織は、ほんの少しだけ息を吐いた。


「じゃあ、待ちます」


「はい」

「私も待ってます」


 その短いやり取りだけで、病室の空気が少しだけ変わる。


 患者と看護師。

 でも今夜だけは、同じ誰かの帰りを待つ人間同士でもあった。


     ◇


 数時間後。


 ICUの空気は、さらに重くなっていた。


 時計の針は、日付をまたぐ寸前を指している。


 深夜。


 人の集中力も、体力も、少しずつ削れていく時間帯。


 明るさは変わらないはずなのに、白い光が少し冷たく見える。

 空調の音が、夜の静けさの中で低く長く伸びている。

 ICU特有の機械音も、この時間になるとどこか“安定”ではなく“監視”の音に聞こえてくる。


 その時だった。


「……あれ?」


 小さな声。


 だが、緊張が混じっていた。


「SpO2……」


 一拍。


「下がってる?」


 その一言で、場の空気が一瞬にして変わる。


「確認」


 誰かが言う。


「再測定」


「……低下継続」


 短い報告。


 しかし、その短さがむしろ重い。


 綾乃が振り向く。


「術後患者、状態悪化」


 一言で十分だった。


 ICUでは、それ以上の説明は要らない。


 綾乃はすぐに動いた。


 ICUベッドへ。

 視線を落とす。

 呼吸。

 循環。

 反応。

 顔色。

 わずかな胸郭の動き。

 酸素投与下での反応。


 すべてを一瞬で拾い上げる。


(……違う)


 違和感があった。


 大きくはない。


 だが、確実に。


(術後悪化にしては……)


 その違和感はまだ輪郭になりきらない。


 だが綾乃は、こういう“まだ言語にならない違和感”を軽視しない。


「再評価」


 短く言う。


「はい」


 周囲が動く。


 確認。

 再測定。

 応急処置。

 情報の拾い直し。


 数分。


 長い。


 体感よりずっと長い数分。


 そして――


「……維持」


 誰かが言った。


 完全に戻ったわけではない。

 だが、落ちきらなかった。


 繋いだ。

 なんとか、繋いだ。


 そのはずだった。


 だが。


 場の空気は、微妙に落ち着かない。


 完全な安堵が戻ってこない。


 何かが引っかかっている。


 それが、空気として残っていた。


「……術中での」

 誰かが言葉を濁す。

「出血管理は、問題なかったんですよね」


 直接的ではない。


 だが、意味は明確だ。


 綾乃が答える。


「問題ない」


 短く。

 硬く。


「確認済み」


 それだけ。


 それで十分なはずだった。


 だが、完全には消えない。


 視線。

 沈黙。

 言葉にされない疑念。


 術者は、結果が揺れた時点で問われる。


 それが、この世界のルールだ。


 正しかったかどうか。

 手順が適切だったかどうか。

 それらより先に、結果はどうだったのか。


 その冷たさを、綾乃は誰より知っている。


(……そうなる)


 心の中で、静かに認める。


(なら、私の責任)


 自然にそう思う。


 思ってしまう。


 それを打ち消す理由も、今の時点ではない。


 だから綾乃は、そのまま一人で記録を見直し始めた。


     ◇


 紙が並ぶ。


 術中記録。

 申し送りメモ。

 観察記録。

 仮入力されたデータ。

 停電混乱下で紙へ戻したせいで生じた断片。

 断片。

 断片。


 それらを、綾乃は一つずつ繋ぎ直していく。


 時系列。

 判断。

 処置。

 変化。

 結果。


 記録の文字は見える。

 数字も見える。


 だが今の綾乃の目には、それ以上のものが映っていた。


(どこで)


 思考が止まらない。


(どこでズレた)


 呼吸が、少し浅い。


(何を見落とした)


 紙を押さえる指先に、わずかに力が入る。


(私が)


(私が、どこかで――)


 視界の端に、湊のスキル表示が浮かぶ。


『《神宮寺綾乃》』


『年齢:28』

『職業:外科医』


『レベル:29』

『レア度:★★★★★』


『好感度:12%』


『状態:平静維持/自責/責任集中/孤立』

『補足:睡眠不足/限界接近』

『感情隠蔽補正:極高』

『本音到達率:低』


(……やばいな)


 湊は心の中でそう思う。


 綾乃は崩れていない。

 泣いてもいない。

 怒ってもいない。

 誰かに当たってもいない。


 それが逆にまずい。


 全部、自分の中へ閉じ込めている。


 術者である自分が原因だと、まだ確定もしていない段階で、もう“責任の形”だけは完成させてしまっている。


 そしてこういう人は、一度そこへ落ちると抜け出しにくい。


(……先生)


 湊は小さく息を吸い、ゆっくり吐く。


 ここで引くべきか。

 患者として大人しくしているべきか。

 邪魔になるかもしれない。


 それは全部、正しい。


 でも。


(このままだと、この人、自分一人で潰す)


 そう思ってしまった以上、もう見ないふりはできない。


 視界に選択肢が浮かぶ。


『【選択肢】』


『A:綾乃を慰める』

『B:記録の違和感を指摘する』

『C:何も言わずに戻る』

『D:綾乃の責任ではないと断言する』


(……Bだ)


 慰めじゃ届かない。


 断言でも足りない。


 今の先生に必要なのは、感情じゃなくて根拠だ。


 この人は、優しい言葉では止まらない。

 事実でしか、自分を許せない。


 だから、事実を探す。


 湊は車椅子のハンドリムに手をかける。


 ゆっくり押す。

 少しだけ進む。


 ICU手前の記録スペース。

 綾乃が一人で紙を睨んでいる場所まで。


「先生」


 声をかける。


 綾乃が顔を上げる。


「……黒瀬さん」


 その瞬間だけ、彼女の表情に小さな驚きが走る。


 ほんの一瞬だけ。


 すぐに、いつものクールな顔へ戻る。


「ここは患者さんが来る場所ではありません」


 短い。

 硬い。

 正しい。


「戻ってください」


 冷たい。


 でも、その冷たさの奥にあるのが本気の拒絶ではなく、“余裕がないから切っている”だけだと、今の湊にはわかる。


「……順番、狂ってますよね」


 一言。


 綾乃の手が止まる。


 完全に止まった。


「この記録」


 湊は続ける。


 視線は紙の束へ。


「時系列、おかしいです」


 沈黙。


 数秒。


 綾乃の目が、ゆっくりと細くなる。


「……何を言っているんですか」


 声は短い。

 だが、怒ってはいない。

 切り捨ててもいない。


 つまり、聞いている。


「術中じゃない」


 湊は即答する。


「ズレてるの、そのあとです」


 一拍。


「引き継ぎのとこ」


 空気が変わる。


 綾乃の視線が、完全に湊へ向く。


 患者としてではない。

 邪魔者としてでもない。


 “何かを読んでいる相手”として。


「……根拠は」


 短い問い。


 受け入れている。


 少なくとも、“言って終わり”にはしない気配がある。


 湊は紙の一箇所を指す。


「ここ」


「この記録と、この申し送り、時間合ってないです」


 さらに、別の紙へ視線を移す。


「あと、この時点で情報抜けてる」

「術後管理の方で、変化が綺麗につながってない」


 綾乃の思考が、一気に回る。


 視線が走る。

 紙がめくられる。

 時刻。

 メモ。

 仮記録。

 紙へ戻したことで断片化した情報。


(……本当だ)


 ほんのわずかなズレ。


 だが、そのズレが全体の因果を歪めている。


(術中じゃない)


(術後の流れ)


(情報共有……)


(私が原因じゃなくて)


 その瞬間、綾乃の中で固まりかけていた“責任の形”が、初めてわずかに揺らぐ。


(……私は)


(全部、自分のせいにしていた)


 呼吸が、ようやく一つ深く入る。


 だが同時に、別の感情も生まれる。


(……この人、何を見てるの)


 患者だ。

 しかも事故後、まだ完全回復には程遠い高校生。


 なのに、こんな断片からここまで読むのか。


 綾乃は、湊を見つめた。


 数秒。


 逃げ場のない沈黙。


「……確認する」


 短く言う。


 立ち上がる。


 今度の動きには、さっきまでの自責からくる重さが少しだけ消えていた。


 湊はその背中を見ながら、内心で小さく息を吐く。


(……通った)


 だが、まだ終わりじゃない。


     ◇


 数分後。


 事実は、繋がった。


 原因は術中ではなかった。


 術後。


 停電混乱下の情報共有のズレ。

 紙記録への移行時に発生した小さな齟齬。

 その小さなズレが、急変リスクを増幅させていた。


 綾乃の判断は――間違っていなかった。


 少なくとも、“術者の医療ミス”という形ではない。


 その結論が静かに確定した時、綾乃はその場でようやく肩の奥に入っていた力を少しだけ抜いた。


 それでも完全には緩まない。


 緩ませることに慣れていないからだ。


 ICU近くの小さな記録室。


 そこにいるのは、綾乃と湊だけだった。


 外の足音は遠い。

 夜の病院はまだ動いている。


 だが、この一角だけはほんの短いあいだ静けさに沈んでいた。


 綾乃は、ゆっくりと息を吐く。


「……助かりました」


 短い。


 いつも通り短い。


 だが、その短さの中に、削りきれない本音が確かに混じっている。


「本来、患者さんに言う言葉ではありませんが」


 一拍。


「……あなたがいてよかった」


 湊の胸の奥が、少しだけ強く跳ねる。


 それは綺麗な告白でもない。

 甘い雰囲気でもない。


 でも、その一言には綾乃の“本当に余裕がない時の本音”が入っていた。


「それ、結構嬉しいやつですね」


 湊は、少しだけ笑いながら返す。


 綾乃は何も言わない。


 だが、その沈黙は拒絶ではなかった。


 むしろ、これ以上何かを言うと、自分の方が崩れそうだと知っている人間の沈黙だ。


 ほんのわずかに、目元が柔らぐ。


 それだけ。


 でも、その“それだけ”が今は大きい。


『《神宮寺綾乃》』


『レベル:29』

『レア度:★★★★★』


『好感度:12% → 19%』


『状態:孤立 → 信頼(微)』

『補足:警戒 低下/個別認識 上昇』


(……一気に動いたな)


 湊は内心で少し驚く。


 綾乃相手にこの伸び幅は大きい。


 それだけ今の一件が、彼女にとって深いところへ届いたということだ。


 綾乃は、紙をまとめながら小さく言う。


「……あなた、何なんですか」


 短い問い。


 だがその声には、わずかな戸惑いが混じっていた。


「何がですか」


「見ている場所が、おかしい」


 即答だった。


 それが少しだけ可笑しくて、湊は肩を揺らしそうになる。


「褒めてます?」


「違います」


 短い。

 だが、ほんの少しだけ間が柔らかい。


「普通の患者さんは、あの断片からそこまで読みません」


「まあ……普通じゃないのは自覚あります」


「自覚があるなら、少しは大人しくしてください」


「善処します」


「信用しません」


 綾乃はそう言い切る。


 なのに、口元がほんの少しだけ緩んでいるように見えた。


 それを見た瞬間、湊の心臓がまた少しだけ忙しくなる。


(……ずるいんだよな、この人)


 クールで短い。

 距離を詰めさせない。

 でも完全には切らない。


 それが逆に、言葉の一つ一つの重さを増やしている。


「先生」


 湊が少しだけ真面目な声で呼ぶ。


「……何ですか」


「さっき、自分のせいだって思ってましたよね」


 綾乃の手が、一瞬だけ止まる。


 否定するかと思った。


 だが綾乃はすぐには何も言わない。


 その沈黙が、答えだった。


「……術者ですから」


 ようやく落ちた言葉は、ひどく静かだった。


「何かあれば、最初に疑われるのは当然です」

「疑われること自体を嫌がってはいけない」


「嫌じゃないんですか」


「嫌かどうかは関係ありません」


 短い。


 切るような言い方。


 でも、そこに“感情がない”わけではない。


「私は結果に責任を持つ立場です」

「だから、まず自分を疑うのは普通です」


 正しい。


 綺麗に正しい言葉だ。


 けれどその正しさの中に、綾乃が自分自身へ向けている過剰な厳しさも透けて見える。


 その時、湊の視界にもう一つ選択肢が浮かんだ。


『【選択肢】』


『A:先生は悪くないです、と慰める』

『B:それは責任感じゃなくて孤立です、と踏み込む』

『C:今は休んでください、と勧める』

『D:何も言わずに隣にいる』


(……Bは強すぎる)


 でも、今の綾乃には弱い言葉では届かない。


 Aは甘い。

 Cは弾かれる。

 Dは悪くないが、足りない。


(B寄り。ただし、刺しすぎない)


 湊は小さく息を吸った。


「……それ、先生が潰れるやつじゃないですか」


 湊は小さく言う。


 綾乃の目が、少しだけ揺れる。


「潰れません」


「そう言う人、だいたい潰れる直前ですよ」


「黒瀬さん」


 短く名前を呼ばれる。


 少しだけ低い声。

 たしなめる響き。


 だが、湊は引かない。


「先生って、たぶん」

 一拍。

「自分が耐えれば回るって思ってるでしょ」


 綾乃は答えない。


 でも、その沈黙がまた答えだった。


「……別に、先生が悪いって言いたいわけじゃないです」

「むしろすごいと思ってるし、今日だって先生がいたから持ってた場面、たくさんあったと思う」

「でも」


 視線をまっすぐ向ける。


「先生一人で全部背負うと、たぶんそのうち誰も先生を支えられなくなります」


 綾乃の呼吸が、ほんの少しだけ止まる。


 それは、今まで何度も言われた慰めとは違う場所へ届いたからだった。


 “頑張りすぎないでください”

 “無理しないでください”

 “先生も休んでください”


 そういう言葉なら、たぶん何度も浴びてきた。


 でも、そのほとんどは表面を撫でるだけだ。


 今の湊の言葉は違う。


 “あなたが一人で全部背負うと、周囲が支えられなくなる”。


 それは、綾乃にとって単なる優しさではなく、構造の話だった。


 自分一人が耐えれば済むという考え方が、逆に全体を壊すかもしれない。


 その視点は、綾乃にとって無視できない。


「……そんなことまで考える患者さん、初めてです」


 ようやく綾乃が言った。


「それ、褒め言葉ですか」


「今はそういうことにしておきます」


 短い。


 でも、少しだけ柔らかい。


 その返しに、湊は小さく笑う。


 綾乃も、ごくわずかに息を吐く。


 その呼吸は、さっきまでより確かに軽かった。


 その時だった。


 記録室の外。


 白い廊下の奥。


 その光の届く場所と影の境目に、誰かが立っていた。


 直接こちらを見ているわけではない。


 だが、気配だけは確かにある。


 長身の男。

 白衣。

 整った立ち方。

 余裕のある静けさ。


 男は、ほんのわずかに口元を歪めた。


「……なるほど」


 低い声。


 独り言のような、しかし確実に意志を含んだ声。


「そういう動き方をするのか」


 一拍。


「面白い」


 その声音には、驚きも焦りもない。


 ただ、計算をひとつ修正する時のような冷静さと、少しの愉悦だけがあった。


 湊の視界に、ノイズのような表示が走る。


『《未解析対象》』


『名称:不明』

『職業:医師』


『レベル:表示不能』

『レア度:判定不能』


『状態:観察/興味/干渉準備』


『警告』

『この対象は、通常イベント対象ではありません』


『関連ワード』

・白峰紗雪

・止まれなかった手

・観測者

・選択肢外干渉


(……誰だ)


 湊の背筋に、冷たいものが走る。


 次の瞬間には、その気配は闇へ溶けていく。


 足音もなく。

 白衣の裾の揺れだけをほんの一瞬残して。


 誰にも気づかれないまま。


 ただ一つだけ――


 “見られていた”という事実だけを、静かに残して。


「黒瀬さん?」


 綾乃の声で、湊は意識を戻した。


「……いえ」


「顔色が悪い」


「ちょっと、嫌なものを見ただけです」


「何を」


「まだ、わかりません」


 綾乃の目が少し細くなる。


 だが、今は追及しなかった。


 彼女もまた、何かが残ったことだけは感じ取っているようだった。


     ◇


 夜は、まだ終わらない。


 救命センターも。

 病棟も。

 そしてこの病院そのものも、まだ異常の中を動き続けている。


 だが、それでも。


 今この瞬間、確かに変わったものがある。


 綾乃は、記録をまとめながらも、さっきまでとは違う呼吸で立っていた。


 責任は消えていない。

 緊張も終わっていない。

 それでも、孤立だけは少しだけ薄れた。


 湊はその横顔を見ながら、静かに思う。


(……先生、やっぱり綺麗だな)


 それは見た目の話だけじゃない。


 削られても立っているところ。

 怖さを見せずに前に出るところ。

 弱さを隠してでも場を保とうとするところ。

 でも、ほんのわずかに差し出された手はちゃんと受け取るところ。


 そういう全部込みで、綺麗だと思った。


 危ういくらいに。


「黒瀬さん」


 綾乃が短く呼ぶ。


「はい」


「戻りますよ」


「命令ですか」


「そうです」


「従わないと?」


「今度こそ本気で怒ります」


 即答だった。


 なのに、その響きは少しだけ柔らかい。


 湊は笑って頷く。


「じゃあ従います」


「最初からそうしてください」


 綾乃は短くそう言い、記録をまとめて立ち上がる。


 その背中を見ながら、湊はもう一度だけ思う。


(……この人、ほんと反則だな)


 厳しい。

 近寄りがたい。

 好感度はまだ低い。


 それでも、たった一言の温度がやけに深く刺さる。


 たぶん、これが神宮寺綾乃という人間なのだ。


 夜の病院。

 白い廊下。

 止まらない命の流れ。


 その中で、自分はまた一つ、この人のことを知ってしまった。


 ゲームみたいに数字で見えても、それだけでは絶対に届かない人。


 だからこそ、少し届いただけで胸の奥が熱くなる人。


     ◇


 病棟へ戻る途中。


 桐谷が廊下の角で待っていた。


「おかえり」


「ただいま、でいいんですかね」


「無事に戻ったなら、それでいいよ」


 桐谷は湊の顔を見て、すぐに眉を寄せた。


「疲れてる」


「まあ、少し」


「少しじゃない」

「今すぐ寝るレベル」


「手厳しいですね」


「身体を見る仕事なので」


 その横から、結衣が駆け寄ってくる。


「黒瀬さん!」


 声が少し大きい。


 すぐに自分で気づいて、慌てて口元を押さえる。


「す、すみません」

「でも……戻ってきた」


「約束したから」


 結衣の目が、ほんの少し潤む。


「本当に心配したんですから」


「ごめん」


「謝るなら、次からは行く前にちゃんと理由を言ってください」


「それは難しいかも」


「黒瀬さん」


「善処します」


「それ、信用されないやつです」


 結衣は少しだけ頬を膨らませた。


 その表情に、桐谷が横で笑う。


「ほら、怒られてる」


「桐谷さんも止めなかったじゃないですか」


「私は途中まで監視したからセーフ」


「ずるい」


「大人はずるいんだよ」


 そんな会話が、ほんの少しだけ病棟の空気を緩める。


 重い夜の中に落ちた、小さなラブコメのような時間。


 けれど、それは逃避ではない。


 こういう軽さがなければ、人は重さだけでは立っていられない。


 ナースステーションの端では、奈緒がこちらを見ていた。


 疲れている。

 明らかに疲れている。


 だが、その表情はさっきより少しだけ落ち着いていた。


「……無事でよかったです」


 短く、奈緒が言う。


「佐倉さんも、まだ休んでないですよね」


「今それを患者さんに言われると、少し困ります」


「困ってください」


 湊がそう返すと、奈緒は一瞬だけ目を丸くした。


 そして、小さく笑った。


「……本当に、困る患者さんですね」


 その声は、少し柔らかかった。


『《佐倉奈緒》』

『好感度:41% → 42%』

『状態:疲労蓄積/受容進行/黒瀬への信頼微増』


 休憩室の方では、奈々のスープがまだ温かさを残していた。


 西野の置いた紙袋からは、かすかにミントの匂いがする。


 沙織はカーテンの奥から少しだけ顔を出し、湊が戻ってきたのを見て、小さく息を吐いた。


「……戻ってきた」


「ただいま」


「ほんとに言うんですね、それ」


「今、言う流れかと思って」


 沙織は毛布を口元まで上げて、少しだけ笑った。


「……なんか、安心しました」


『《吉岡沙織》』

『好感度:32% → 34%』

『状態:不安/孤独感 → 安心(微)』


 湊はその小さな変化を見ながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 誰か一人を救ったわけではない。


 何か大きな奇跡を起こしたわけでもない。


 けれど、小さな安心があちこちで灯っている。


 西野のミント。

 奈々のスープ。

 結衣の涙目の怒り。

 桐谷の説教。

 奈緒の短い安堵。

 沙織の小さな「安心した」。


 そういうもの全部が、病院の夜を少しだけ人間の場所に戻していた。


     ◇


 ベッドへ戻された湊は、ようやく背を預けた。


 身体が重い。


 思ったよりずっと疲れている。


 車椅子で少し動いただけ。

 言葉をいくつか選んだだけ。

 記録の違和感を指摘しただけ。


 それだけのはずなのに、身体の奥が鉛のように重かった。


(……桐谷さんの言う通りだな)


 気持ちだけ前に出ると、身体が置いていかれる。


 今なら、その意味がよくわかる。


 視界の端で、青白い表示が静かに広がった。


『《エマージェンシーイベント PART3:背負いすぎた白衣》進行』


『結果』

・救命センターでの緊急対応を観測

・神宮寺綾乃の自責沈下を阻止

・術後急変の原因切り分けに成功

・記録齟齬を発見

・神宮寺綾乃の孤立状態を軽減

・未解析対象の観測を確認

・病棟側サポート連携を維持


『信頼変動』

▼神宮寺綾乃:信頼形成 初期へ移行

▼白石結衣:心配/信頼強化

▼桐谷美月:身体監視ルート進行

▼佐倉奈緒:受容進行

▼西野あかり:軽会話サポート継続

▼宮本奈々:食事サポート継続

▼吉岡沙織:患者間共感イベント進行


『報酬』

▼経験値+760

▼スキル経験値+520

▼恋愛ポイント+260

▼スキル経験値:《言外読解》+100

▼スキル経験値:《役割把握》+120

▼スキル経験値:《疲労看破》+80


『アイテム獲得』

▼《記録照合メモ》×1

▼《ミント補給袋》×1

▼《夜勤スープカップ》×1


『現在経験値:1035/3600 → 1795/3600』

『現在スキル経験値:620/1500 → 1140/1500』

『現在恋愛ポイント:1075 → 1335』


『レベルアップには至りません』

『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.6 維持』


『スキル成長』

《言外読解Lv.2》経験値上昇

《役割把握Lv.1》経験値上昇

《疲労看破Lv.1》経験値上昇


『追加機能成長』

《選択肢リスク予測》の精度が上昇しました

《連携相性表示》の対象範囲が拡張されました

《イベント危険度表示》が未解析対象に反応しました


『新規フラグ』

《神宮寺綾乃:信頼形成 初期》

《未解析対象:白衣の男》

《白峰紗雪:止まれなかった手》

《白峰紗雪:過去干渉の可能性》


 表示を見て、湊は細く息を吐いた。


(レベルアップは、なしか)


 あれだけ濃い時間を越えたのに、数字だけで見ればまだ半分にも届いていない。


 それが妙に納得できた。


 今夜得たものは、レベルだけで測れるものではない。


 綾乃の「あなたがいてよかった」。

 結衣の「戻ってきてください」。

 桐谷の「身体が置いていかれる」。

 奈緒の「無事でよかったです」。

 西野の「次があるって、今は大事」。

 奈々の「生きる方優先」。

 沙織の「安心しました」。


 全部、数値に変換されている。


 でも、数値だけでは足りない。


 だからこそ、この能力は厄介だ。


 見えるから楽になるわけではない。


 見えるから、重くなる。


 視界の端に、さらに小さなノイズが走った。


『《未解析対象》』

『観測継続中』


『関連ワード:白峰紗雪』

『関連ワード:選択肢外干渉』

『関連ワード:止まれなかった手』


(……白峰紗雪)


 その名前を見るたび、胸の奥に小さな棘が刺さる。


 まだ会ってもいない。

 顔も知らない。

 声も知らない。


 なのに、どこかで一度だけ、何かを選び損ねたような感覚がある。


 誰かの手を、取れなかったような。


 誰かの夜に、間に合わなかったような。


 湊は自分の手を見た。


 まだ完全には力が戻っていない手。


 車椅子のハンドリムを押した手。

 記録のズレを指した手。

 綾乃を孤立から引き戻すために、言葉を選んだ手。


(止まれなかった手、か)


 それは奈緒のことなのか。


 白峰紗雪のことなのか。


 綾乃のことなのか。


 それとも、自分自身のことなのか。


 まだ、わからない。


 だが、ひとつだけはっきりしている。


 今夜、この病院には誰かがいる。


 湊たちの選択を、どこかで見ている誰かが。


 そしてその誰かは、ただの通行人ではない。


 白い夜は、まだ終わらない。


 病棟も。

 救命センターも。

 ICUも。

 この病院そのものも。


 まだ、異常の中を動き続けている。


 湊は、重くなった瞼を閉じかけた。


 その直前、視界の端で青白い表示が静かに明滅する。


『次の選択に備えてください』


 その文字を見つめながら、湊は細く息を吐いた。


 面倒で。

 重くて。

 正解だけじゃ届かなくて。

 でも、だからこそ、目を逸らせない。


 この病院ステージは、思っていたよりずっと難しい。


 そして、たぶん――だからこそ、面白い。


 白い夜は、まだ終わらない。


 次の選択は、もうすぐそこまで来ていた。

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