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第13話 託された夜の選択


 夜の病院には、昼の病院とはまるで違う顔がある。


 同じ建物で、同じ白い壁で、同じ廊下で、同じ病室のはずなのに、夜になると、そのすべてが少しずつ別の意味を持ち始める。


 照明は変わらない。

 床の色も、消毒液の匂いも、カーテンの白さも、電子モニターの規則的な音も、表面だけを見ればほとんど変わらない。


 それでも、そこを歩く人間の足音や、声の置き方や、視線の配り方が変わることで、空間そのものの温度は確かに変わっていく。


 昼の病院には、人の流れがある。


 面会に来る家族がいて、外来の患者がいて、食堂や売店へ向かう職員がいて、誰かの話し声がどこかで混ざり、少しだけ生活の匂いが差し込む。


 白く整理された空間の中にも、まだ“日常”の名残がある。


 だが、夜は違う。


 人が少なくなるぶん、残る人間の感情だけが濃くなる。


 眠れない不安。

 痛みへの苛立ち。

 治るかどうかもわからない未来への恐れ。

 家族の疲労。

 看護師の集中。

 医師の判断。

 表に出ない焦り。

 口にしない限界。


 そういうものだけが、白い壁の下に沈殿していく。


 時刻は二十一時を過ぎていた。


 窓の外は完全に夜だ。


 ガラスに映るのは病室の白い照明と、遠くの街灯の滲んだ光だけ。空は深い群青をとうに通り越して、ほとんど黒に近い色をしている。


 外の世界はまだ動いているのだろうが、この病院の中では、夜はもう“背景”ではなかった。


 夜勤帯という、昼より少ない人数で、多くの不安と異変と責任を抱え込む時間帯そのものが、ひとつの状況として存在していた。


 そして今、この病院はその夜勤帯のさらに先――異常事態の只中にある。


 真夜中の停電。


 その結果として起きた、電子カルテ停止、モニター機器の不全、情報共有の遅延、紙記録への回帰、人的判断への過剰な負荷。


 病院は“機械”を失った。


 正確には、完全に失ったわけではない。


 仮復旧はしている。

 一部の照明は戻っている。

 ナースステーションの最低限の端末も限定的に動いてはいる。


 だが、それでも“平時”ではない。


 何かが一つ狂えば、その狂いを補正する余裕が今の院内にはない。


 すべてを、人の目と、人の耳と、人の経験と、人の手でつないでいる。


 だからこそ、ひとつひとつの判断が重い。


 そういう空気が、廊下の白い床にも、病室の白い壁にも、夜の静けさの中に滲んでいた。


 黒瀬湊は、車椅子の上で小さく息を吐いた。


 ベッドから車椅子へ移乗できるようになったとはいえ、まだ完全に自由に動けるわけではない。


 足には鈍い重さが残っているし、立位や短い移動は訓練込みでようやく、という状態だ。


 事故の直後に比べれば回復している。


 だが、元通りにはほど遠い。


 重心はまだ少しずれているし、足裏に体重を乗せた時の感覚にも不安がある。


 自分の身体なのに、自分の思う通りにはまだ動いてくれない。


 それでも、ベッドの上に固定されていた時とは見える景色が違う。


 病室の中だけではなく、カーテンの隙間の向こうにある廊下や、そこを行き交う人たちの顔や動きまでが視界に入るようになった。


 今までは“音”でしか知らなかった病院の広さが、今は“距離”として見える。


 ナースステーションの明かり。

 曲がり角の先の影。

 病棟をつなぐ廊下の長さ。

 看護師たちの歩幅の違い。


 そういうものが、一気に現実味を持って迫ってくる。


 それが今の湊には、良くも悪くも大きかった。


(……静かすぎる)


 耳に届く音はある。


 遠くで誰かが走る靴音。

 ワゴンが曲がるときの車輪の擦れる音。

 看護師同士の短い確認。

 どこかの病室から漏れる咳払い。

 ナースコールの電子音。

 記録用紙をめくる音。

 ペン先が紙を走る乾いた音。


 何も止まっていない。


 それなのに。


 この病棟全体が、何か大きなものを待っているように感じられた。


 いや、待っているのではない。


 すでに起きている異常に対して、さらに次が来るかもしれないという予感を、全員がうすうす共有しているのだ。


 今は持ちこたえている。

 今はまだ回っている。


 だがそれは“安全”とは違う。


 均衡がたまたま崩れていないだけの、危うい持続だ。


 湊の視界の端では、青白い光が静かに明滅している。


『黒瀬湊』


『レベル:7』

『現在経験値:515/3600』

『現在スキル経験値:290/1500』

『現在恋愛ポイント:895』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.6』


『現在ステータス』

・身体強化:中

・視力補正:安定

・観察眼:解放済

・身体回復効率:補正中

・選択肢精度:停電余波により一部低下


『所持スキル』

・《感情トレースLv.2》

・《言外読解Lv.2》

・《身体感覚補正Lv.2》

・《安心感付与Lv.1》

・《重心把握Lv.1》

・《疲労看破Lv.1》

・《関係負荷軽減Lv.1》


『所持アイテム』

・《微睡みミント》×1

・《メンタルリカバリーチケット》×1

・《リハビリサポートバンド》×1

・《ナースメモカード》×1

・《ミントタブレット》×1

・《栄養補助スープ》×1

・《暇つぶしカード》×1

・《非常用簡易メモ》×1


『解放済み機能』

・イベント危険度表示

・会話相性表示

・選択肢リスク予測

・ステータス詳細表示

・軽会話ログ保存

・食事相性表示

・患者心理補正

・感情隠蔽補正表示


『現在進行中イベント』

・《エマージェンシーイベント:停電が奪うもの》

・《佐倉奈緒 イベント進行中》

・《白石結衣 イベント進行中》

・《神宮寺綾乃 観察継続》

・《桐谷美月 連携ルート進行中》


『特殊フラグ』

・《白峰紗雪:未接触》

・《止まれなかった手》

・《届かなかった選択》

・《夜間急変》


『▼エマージェンシーイベント PART2 待機状態』


『危険度:高』


『進行条件:未固定』


『備考:複数対象の連携が重要になります』


(……複数対象、ね)


 その文面だけで、今回の中心が誰になるかはわかる。


 佐倉奈緒。

 白石結衣。

 そして神宮寺綾乃。


 この三人だ。


 結衣は夜勤帯に入ってからずっと、表情を引き締めていた。


 以前のようなわかりやすい空回りは減っている。


 動きの順番も、声の出し方も、患者への距離感も、少しずつ洗練されてきている。


 だが、それは“慣れた”のではない。


 “必死に覚えている”のだ。


 緊張の奥に努力があり、その努力の奥に失敗したくないという切実さがある。


 奈緒は、逆に整いすぎている。


 疲れていることも、限界が近いことも、湊にはもう隠せていない。


 だが他人から見れば、彼女はあくまで「仕事のできる看護師」だ。


 動きに無駄がなく、指示も短く、患者への対応も的確で、感情を表に出さない。


 だからこそ危うい。


 崩れる時ほど、人は綺麗に立っている。


 綾乃は言うまでもない。


 この病棟における“軸”だ。


 彼女がいるだけで場が締まり、判断に迷いが消え、誰もが自分の役割へ戻れる。


 その存在感が、今の病棟全体をかろうじて支えている。


 その時だった。


 院内放送が入った。


 短いノイズのあと、抑えられた女性の声が、しかし否応なく病棟の空気を裂く。


『――救命センターよりブルーコール。救命センターよりブルーコール。医師一名、看護師一名、直ちに救命センターへ応援をお願いします』


 その瞬間、空気が変わった。


 病棟にいた誰もが、動きをほんの一瞬だけ止める。


 そして次の瞬間には、みなそれぞれの意味で動き出す。


 ブルーコール。


 病院内コードブルーに近い意味を持つ、緊急招集。


 救命へ医師と看護師が取られる。


 つまり、それだけ他病棟や救命側の状況が切迫しているということだ。


「神宮寺先生」


 誰かが呼ぶより早く、綾乃はもうナースステーションの外へ出ていた。


 白衣の裾が一度だけ揺れる。

 長い黒髪が肩の後ろで静かに流れる。

 その動きに一切の迷いがない。


「行きます」


 短い声。


 それだけで十分だった。


 綾乃は奈緒を見る。


「佐倉」


「……はい」


「病棟を見て」


 短く、まっすぐに。


 命令であり、委託であり、責任の移譲でもある一言だった。


 奈緒の喉がわずかに動く。


「了解です」


 声は通っていた。


 だが、その奥にある重さを湊は見逃さない。


『《佐倉奈緒》』

『年齢:26』

『職業:看護師』


『レベル:21』

『レア度:★★★★☆』


『好感度:32%』


『状態:疲労蓄積/自己抑制/責任集中』

『補足:緊張上昇/限界値接近』


(……一気に乗ったな)


 綾乃の視線が次に結衣へ向く。


「白石さん」


「は、はいっ」


「一人で抱えないで」


 短い。


 けれど、その短さが逆に重い。


「迷ったら聞いて」

「勝手に決めない」


「はい……!」


 結衣の返事は少しだけ高かった。


 緊張している証拠だ。


『《白石結衣》』

『年齢:20』

『職業:見習い看護師』


『レベル:16』

『レア度:★★★☆☆』


『好感度:72%』


『状態:緊張/やる気/不安』

『補足:先輩支援欲求/失敗回避意識』


 最後に、綾乃の視線が湊へ向く。


 ほんの数秒。


 短いのに、逃げ場がない。


「黒瀬さん」


「……はい」


「無理はしないで」


「はい」


「余計なこともしないで」


 クールで、短く、容赦がない。


 だが湊は、その一言の奥にあるものも読み取れる。


 つまり、彼女はもう“余計なことをするかもしれない患者”として自分を認識しているのだ。


(……信用なのか警戒なのか、微妙なラインだな)


 綾乃はそれ以上何も言わない。


 すぐにもう一人の看護師を伴い、救命センターへ向かっていった。


 足音が遠ざかる。


 白衣の背中が角を曲がって消える。


 その瞬間、病棟の空気がほんのわずかに軽くなる――というより、“支柱が一本抜けたあとの不安定さ”が前に出る。


 残されたのは、奈緒と結衣だ。


 そして、患者たち。


 湊はその構図を見ながら、小さく息を吐いた。


(……ここからか)


 静かな数分が流れた。


 ほんの数分。


 だが、その短い時間が妙に長く感じられる。


 奈緒はナースステーションの中央に立ち、紙カルテと簡易記録を並べて確認していた。


 動きは無駄なく、表情も落ち着いている。


 必要な指示は必要なだけ、短く出す。


 声量も一定だ。


 元来の仕事能力が高いのだろう。


 綾乃が離脱した直後でも、表面だけを見れば彼女は一切崩れていなかった。


「二二三号、再確認お願いします」

「点滴残量、書き込み済みですか」

「白石さん、それ終わったら二一九も見てください」


「はいっ」


 結衣は返事をし、慌ただしく、だが以前よりはずっとまとまりのある動きで病室間を行き来している。


 まだ少し速い。


 少し肩に力が入っている。


 でも、空回りしてすべてを落とすような危うさはだいぶ減った。


 それでも。


 湊の目には見えてしまう。


 奈緒の呼吸が、平常より少し浅いこと。

 結衣の確認の手つきが、やや急ぎすぎていること。

 ナースステーション全体の空気に、余裕ではなく“持ちこたえているだけ”の緊張があること。


 その時、視界に中級イベントの表示が静かに現れた。


『《中級イベント発生》』


『対象:佐倉奈緒/白石結衣』


『イベント名:崩れない連携』


『内容:先輩と後輩の信頼を成立させてください』


『成功条件:判断分裂を防ぎ、同一対応へ収束させる』


『失敗条件:独断/役割競合/信頼後退』


『推定成功率:18%』


(……十八かよ)


 思わず、心の中で乾いた笑いが漏れる。


 低い。


 かなり低い。


 それだけ、今の盤面が危ういということだ。


 奈緒は一人で抱え込みやすい。

 結衣は前に出ようとする。

 しかも綾乃はいない。

 ブルーコールで人手が少ない。

 電子カルテも完全には使えない。


 条件が悪すぎる。


(でも、だからこそ今なんだよな)


 湊は両手を膝の上でゆるく組み、二人の動きを追う。


 ゲームで言えば、これは明らかに“会話で戦うボス戦”だ。


 派手なアクションも、特別な知識もいらない。


 必要なのは、役割の噛み合わせ。


 誰に何を言えば、場が崩れずに済むかの読み。


 その時だった。


「……白石さん、それ置いて」


 奈緒の声が飛ぶ。


 短い。


 けれど、少しだけ硬い。


「えっ、でもこっち先に」


「先じゃない」

「そっちはあとでいいから、今は二一七」


 一瞬。


 結衣の動きが止まる。


「……はい」


 返事はした。


 だが、その顔には小さな迷いが残る。


(ズレ始めたな)


 奈緒は全体優先で見ている。


 結衣は目の前優先で動いている。


 どちらも間違いではない。


 間違いではないからこそ、危ない。


 同じ目的に向かっているはずなのに、優先順位の切り方が違うだけで、連携は簡単にズレる。


 しかも奈緒はそのズレを、たぶん“自分が支えきれていないから”と捉える。


 結衣は逆に、“自分の動きが遅いから先輩に切り替えさせてしまったのかも”と考える。


 つまり、噛み合わないだけでなく、互いが互いのズレを自分の失点に変換する。


 最悪の相性だ。


 その直後だった。


 病棟の一角から、慌てた声が上がった。


「佐倉さん!」


 別の看護師だ。


「二一七、呼吸苦訴え強いです!」


 奈緒の顔から一瞬だけ色が消える。


 結衣も息を呑む。


 湊はすぐにそちらへ視線を向けた。


 病室二一七。


 さっき奈緒が優先を変えさせた患者だ。


 つまり、奈緒は“全体の流れからそこを優先すべき”と読んでいた。


 その読み自体は合っていたことになる。


 だが問題はその先だ。


 患者の状態が思った以上に早く悪化している。


 しかも綾乃はいない。


「白石さん、酸素準備」

「私は先に診る」


 奈緒が動く。


 早い。


 でも、ほんの少しだけ速すぎる。


 焦りを押し込めた速度だ。


 結衣も「はい!」と返して走る。


 湊は車椅子を少しだけ動かし、病室の見える角度へ寄った。


 二一七号室の中は、一気に空気が変わっていた。


 高齢の男性患者が、ベッド上で呼吸を荒くしている。


 肩が上下し、吸っても吸っても足りないように胸が動く。


 顔色はさっきより悪い。


 苦しさを訴えようとしているのに、言葉にならない。


 額には細かな汗が浮かび、指先には不穏な色が差し始めている。


 停電前なら、モニターが先に異変を知らせていたかもしれない。


 電子カルテが最新の微妙な変化を拾えていたかもしれない。


 今は違う。


 人の目だけだ。


「呼吸回数、多い……」

 結衣が小さく言う。


「酸素」

 奈緒が短く返す。


 だが、その時だった。


 患者が突然、ベッド柵に手をかけて上体を起こそうとした。


「っ、危ない」


 結衣が反射的に前へ出る。


「白石さん、待って!」


 奈緒の声と、結衣の動きが一瞬だけぶつかる。


 結衣は患者を支えようとする。


 奈緒はまず観察と指示を優先したい。


 この“半拍のズレ”がまずい。


 患者の呼吸は荒いまま。


 しかも軽いせん妄のように落ち着きがない。


 ベッド上で少しでも姿勢が崩れれば、呼吸はさらに悪くなる。


『《イベント警告》』


『役割競合が発生しています』


『危険度:上昇』


(来た)


 湊の思考が一気に冴える。


 このままではまずい。


 奈緒は確認と全体判断に意識が向く。


 結衣は目の前を助けようとして先に手が出る。


 どちらも正しい。


 どちらも必要だ。


 だからこそ、どちらかがどちらかに寄るだけではダメだ。


 必要なのは“役割の整理”だ。


『【選択肢】』


『A:奈緒に「白石さんに動かせてください」と言う』


『B:結衣に「佐倉さんの指示を待って」と言う』


(……違う)


 湊は息を止めた。


(それじゃ片方を止めるだけだ)


 Aなら奈緒の負担は減る。


 でも奈緒は“見ているだけ”だとさらに自己否定しやすい。


 Bなら秩序は戻る。


 でも結衣の“前に出る力”を潰してしまう。


 どっちも部分正解で、全体では足りない。


(今必要なのは、止めることじゃない)


 役割を与えることだ。


 しかも、二人が“自分でそこに立てるように”言わなければ意味がない。


 奈緒は責任を抱えたがる。


 結衣は正解を探して止まりやすい。


 なら、奈緒には“読む役割”を固定し、結衣には“支える役割”を渡す。


 湊は、一瞬だけシステム表示を睨んだあと、補正行動を選んだ。


『補正行動を入力しますか?』


『YES』


(やる)


 口を開く。


「佐倉さん!」


 病室の空気の中で、患者の立場から飛ぶ声は異物だ。


 それでも、今はそれでいい。


 奈緒が一瞬だけ振り向く。


 結衣もはっとする。


「白石さん、支えられます!」

 湊は一気に言う。

「だから佐倉さんは、読んでください!」


 一拍。


 奈緒の目が見開かれる。


「今、必要なのは」

 湊は続ける。

「どっちかが全部やることじゃなくて、役割分けることですよね」


 その瞬間。


 奈緒の中で、何かが噛み合う。


(……そうか)


 全部自分で見ようとしていた。


 全部自分が判断しなければと思っていた。


 でも今、白石結衣は動ける。


 目の前の患者を支えられる。


 なら自分は読む。

 見る。

 優先を決める。


 そこに徹すればいい。


 奈緒の中で、責任の形が少し変わる。


「白石さん、上体だけ支えて」

 奈緒の声が変わる。

「無理に寝かせない」

「呼吸の楽な角度、保って」


「は、はい!」


 結衣の手が今度は迷わない。


 患者の背中と肩を支え、枕の位置を素早く整え、呼吸が少しでも入りやすい角度を探る。


 力加減に気をつけながら、でも遠慮しすぎず、患者の胸が少しでも楽になる位置を探す。


 患者の身体は思ったより熱い。


 呼吸は思ったより速い。


 その事実が、結衣の恐怖を逆に“やるしかない”へと押し上げる。


「佐倉さん、呼吸音どうですか」

 結衣が問う。


 さっきまでなら、自分で全部見ようとしていたかもしれない。


 でも今の結衣は違う。


 “先輩に見る役割を返している”。


 奈緒はそれを受ける。


「右が浅い」

「痰絡みもある」

「酸素そのまま」

「追加で吸引準備」


 声が通る。


 短く、鋭く、迷いが消えていく。


『《イベント進行率:18% → 46%》』


(よし)


 湊は心の中で小さく息を吐く。


 まだ半分だ。


 だが盤面は明らかに変わった。


 その時、患者の指先の色がさらに悪く見えた。


 呼吸は浅く速い。


 痰が絡んでいる。


 このままなら、また悪化する。


 奈緒はすぐに次を読む。


「白石さん、吸引いける?」


 一瞬だけ、結衣の目が揺れる。


 吸引。


 見習いにとっては心理的な壁の高い処置のひとつだ。


 できないわけではない。


 だが、こういう緊急時に自信を持って前へ出るには、まだ少し怖い。


 その揺れを、奈緒も見た。


 そして、ほんの一拍だけ迷う。


(私がやるべきか)


 その時だった。


「白石さん」


 湊が呼ぶ。


 結衣が振り向く。


「この前、最初に起きた時」

 一拍。

「声かけてくれたの、白石さんでしたよね」


「……え」


「怖かったけど、ちゃんと動けた」


 短く、でもはっきりと。


「今も同じじゃないですか」


 結衣の胸の奥で、何かが繋がる。


 怖い。


 でも、怖いまま動けたことが自分にはある。


 あの時もそうだった。


 今回もそうだ。


 最初から完璧じゃなくてもいい。


 手が震えてもいい。


 声が少し裏返ってもいい。


 大事なのは、止まらないことだ。


「……はい」


 声はまだ小さい。


 でも逃げていない。


「やります」


 奈緒がその返事を受けて、すぐに頷く。


「じゃあ私が横で見る」

「一人で背負わないで」


 その言葉に、結衣の表情がわずかに変わる。


 先輩に“任された”だけではない。


 “支える”と言われた。


 それは、結衣にとってかなり大きい。


「はい……!」


 吸引準備。

 手袋。

 患者の体位。

 呼吸状態の確認。


 奈緒が読む。


 結衣が手を動かす。


 動きが噛み合い始める。


 その時――。


 急に患者の呼吸が大きく乱れた。


 痰が詰まりかける。


 身体が強張る。


 結衣の手がわずかに止まる。


 そして、奈緒の中にまたあの感覚が走る。


(――まずい)


 今度こそ遅れたらダメだ。


 さっきみたいに、判断を一瞬でも誤れば悪化する。


 その焦りが、奈緒の身体を固くする。


『《佐倉奈緒》』


『状態更新:責任集中 → 過負荷寸前』


(……来た)


 湊の喉が鳴る。


 ここが分岐だ。


 奈緒がまた自分を責める流れに落ちれば、連携は再崩壊する。


 でもここを越えられれば、このイベントは成立する。


『【選択肢】』


『A:奈緒に「落ち着いて」と伝える』


『B:奈緒に「見えてます」と伝える』


(Aは弱い)


 落ち着いて、なんて言葉は、落ち着けない人間にとってほとんど無意味だ。


 むしろ「落ち着けていない自分」を意識させるだけになる。


 必要なのは、もっと具体だ。


(奈緒さんは、今“自分がちゃんと見えてるか”を疑ってる)


 だから。


「佐倉さん!」


 湊の声が飛ぶ。


「見えてます!」


 一瞬。


 奈緒の動きが止まる。


「今、ちゃんと見えてる」


 湊は続ける。


「だから白石さんに指示できてるんですよね」


 その言葉が、奈緒の中へ真っ直ぐ落ちた。


 自分は遅れていないのか。

 読めているのか。

 また間違えるのではないか。


 その不安の中心にあったのは、“自分の判断を信じられない”ことだった。


 そこへ、“見えている”と断言される。


 しかも、患者から。


 状況の当事者から。


 奈緒の呼吸が、一度だけ深くなる。


(……見えてる)


 そうだ。


 見えている。


 怖いだけだ。


 でも見えていないわけじゃない。


「白石さん、そのまま」

 奈緒の声が戻る。

「今の角度でいい」

「吸って、そこ」


「はい!」


 結衣が動く。


 今度は迷わない。


 奈緒も止まらない。


 数秒。


 だが、その数秒が長い。


 呼吸音。

 患者の肩の動き。

 結衣の呼吸。

 奈緒の視線。

 病室の張り詰めた空気。


 その全部が一点に集まって――。


「……入った」


 奈緒が言う。


「呼吸、戻る」


 結衣の肩から力が抜ける。


 患者の顔色も、ほんのわずかだが持ち直し始める。


 吸気の音が変わる。


 肩の上下が少し落ち着く。


 苦しそうな目の焦点が、ほんの少し戻る。


『《イベント進行率:46% → 82%》』


(まだ終わってない)


 湊は思う。


 ここで気を抜けばダメだ。


 処置が通っても、奈緒と結衣の間に残るものが悪ければ、イベント成功にはならない。


 そして案の定、患者が落ち着き始めた瞬間、奈緒の中に別の波が来た。


(……さっき、止まりかけた)


(私がもっと早ければ)


 自己否定だ。


 これが奈緒の癖だ。


 成功しても、自分の失点だけを残す。


 その表情の変化を、結衣も見た。


 結衣の胸の奥にも、別の思いがある。


(私……さっき、一瞬迷った)

(佐倉さんがいなかったら、たぶん止まってた)

(なのに、私ばっかり前に出たみたいになってないかな)


 つまり、二人とも自分を責める方向へ向かっている。


 これがまずい。


 処置は成功した。


 でも信頼イベントとしては、ここで失敗しうる。


(……ここで終わらせるな)


 湊は息を吸う。


 選択肢が出る。


『A:奈緒を褒める』


『B:結衣を褒める』


(違う)


 また同じだ。


 片方だけを立てれば、もう片方の罪悪感が強まる。


 今必要なのは、成功の“共有”だ。


 湊は補正行動を選ぶ。


「二人とも」


 その声で、奈緒と結衣が同時に振り向く。


「今の、片方だけじゃ無理でしたよね」


 短く、はっきり。


 結衣の目が少し見開かれる。


 奈緒も、動きを止める。


「白石さんが前に出たから、佐倉さんが読めた」

「佐倉さんが読んだから、白石さんが迷わなかった」


 一拍。


「だから、今のは二人でやったんだと思います」


 沈黙が落ちる。


 その沈黙の中で、まず結衣の目が揺れた。


(……二人で)


 自分が足を引っ張ったのではなく。


 自分だけが頑張ったのでもなく。


 二人でやった。


 その見方は、今の結衣に必要なものだった。


 奈緒もまた、同じ言葉を別の意味で受け取る。


(……私一人で支えたわけじゃない)


 白石結衣が前に出た。


 自分はそこへ指示を重ねた。


 だから成立した。


 自分だけが遅れたわけでも、自分だけが救ったわけでもない。


 それは、奈緒の自己否定を少しだけ緩める。


「……っ」


 結衣が、先に息を吐いた。


「……佐倉さんが、いたからです」


 小さな声。


 でも、確かな声だった。


「私、一人だったら……たぶん、途中で止まってました」

「何やるかはわかってても、怖くて、たぶん……」


 そこで一度言葉を止める。


 それから、もう一度だけ奈緒を見る。


「だから、さっき……横にいてくれて、すごく助かりました」


 その言葉を、奈緒は正面から受ける。


 逃げられない。


 でも、逃げなくていい。


「……私も」

 奈緒は少しだけ喉を鳴らした。

「白石さんがいたから、動けた」

 一拍。

「一人だったら、たぶん、さっきのタイミングで……もっと遅れてた」


 結衣の目が見開く。


 奈緒が、そんなふうに自分を必要だと言うのは初めてだった。


 その事実が、結衣の胸を強く打つ。


『《白石結衣》』

『好感度:72% → 81%』

『状態:信頼/安堵/先輩への尊敬(強)』


『《佐倉奈緒》』

『好感度:32% → 41%』

『状態:自己抑制 緩和/信頼形成』


『《中級イベント:崩れない連携》 CLEAR』


 青白い表示が静かに広がる。


『▼経験値+420』

『▼スキル経験値+260』

『▼恋愛ポイント+180』


『▼新機能解放』

《連携相性表示》が使用可能になりました


『▼新スキル獲得』

《役割把握Lv.1》を獲得しました


『▼アイテム獲得』

《集中維持パッチ》×1


『現在経験値:515/3600 → 935/3600』

『現在スキル経験値:290/1500 → 550/1500』

『現在恋愛ポイント:895 → 1075』


『レベルアップには至りません』

『黒瀬湊:Lv.7 維持』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.6 維持』


(……来た)


 湊は内心で細く息を吐く。


 成功だ。


 しかも、かなりきれいな形で。


 処置が通っただけじゃない。


 奈緒と結衣の間に、“先輩後輩”を超えた信頼の芯が一本通った。


 その時だった。


 病室の外から、短い足音が戻ってくる。


 白衣の裾が見える。


 神宮寺綾乃だ。


 救命センターから戻ってきたらしい。


 彼女は病室へ入るなり、まず患者を見る。


 次に処置痕。

 酸素。

 結衣の位置。

 奈緒の立ち方。

 そして最後に湊。


 ほんの数秒で、状況を読み切る。


「……落ち着いたのね」


 短い。


 クールだ。


 だが、その一言の奥に、確認だけではないものがある。


「はい」

 奈緒が答える。

「呼吸状態悪化あり。吸引対応後、現在は持ち直しています」


「記録は」


「紙で仮入力済みです」

「あとで正式転記します」


「白石さん」


「は、はいっ」


「手順」


 結衣は一瞬だけ緊張する。


 だが、すぐに順序立てて説明を始めた。


 何を見て。

 何を準備し。

 どこで奈緒の指示を受けて。

 どう動いたか。


 以前なら途中で言葉が絡まっていただろう。


 でも今の結衣は違う。


 緊張はしている。


 それでも、ちゃんと自分の動きを言葉にできている。


 綾乃は最後まで聞き、短く頷いた。


「……いい」


 それだけ。


 だが結衣の背筋が、ぴんと伸びる。


 次に綾乃は奈緒を見る。


「佐倉」


「はい」


「よく止めた」


 短い。


 それだけ。


 だが奈緒の目が、一瞬だけ揺れた。


 “止めた”。


 その言葉の意味を、奈緒は理解する。


 患者の悪化を。


 流れを。


 そして、自分自身の崩れを。


 全部込みで、綾乃は今そう言ったのだ。


「……はい」


 奈緒は小さく頷く。


 その声は、少しだけ軽くなっていた。


 綾乃の視線が最後に湊へ向く。


「黒瀬さん」


「はい」


「余計なこと、した?」


 相変わらずの短さだ。


 でも、前より少しだけ温度が違う。


 湊は口元だけで小さく笑った。


「ちょっとだけ」


 綾乃はほんの一瞬だけ目を細める。


「そう」


 それだけ言って、カルテ確認へ戻る。


 だが、去り際に小さく付け足した。


「……今回は、いい」


 それを聞いた瞬間、湊の胸が少しだけ跳ねた。


(それ、結構うれしいやつだな)


 綾乃本人は、たぶんそこまで意識していない。


 でも、今の短い許可はかなり大きい。


『《神宮寺綾乃》』

『好感度:6% → 9%』

『状態:観察/興味(上昇)』


(……動く時は動くんだよな、この人)


 病室の空気は、ようやく少しだけ落ち着きを取り戻し始めていた。


 それでも、誰も完全には緩まない。


 なぜなら、まだエマージェンシーイベントは終わっていないからだ。


 むしろ今の成功によって、“次もある”ことがよりはっきりしてしまった。


 結衣が、処置の片付けをしながら小さく息を吐いた。


「……怖かったです」


 その声は、ようやく本音だった。


「ほんとに……途中で、手、止まりそうになって」

「でも、止まったらダメだって思って……でも、ちゃんとできるかわかんなくて……」


 一度、言葉が途切れる。


 それから、少しだけ照れたように笑う。


「でも、さっき……佐倉さんが横にいてくれて」

「黒瀬さんも、変なところで、ちゃんと声かけてくれて」


「変なところってなんだよ」


「変なところは変なところです」

 結衣は少しだけ頬を赤くして言う。

「でも……助かりました」


 その“助かりました”には、患者への気遣いだけじゃないものがあった。


 湊はそれを正面から受けて、少しだけ肩をすくめる。


「白石さんが動いたからだろ」


「で、でも……」

「私、一人だったら、たぶん、絶対無理でした」


 その視線が、奈緒へ向く。


 奈緒はまだ完全には表情を解いていない。


 それでも、結衣の言葉はちゃんと届いている。


「……私も」

 奈緒がぽつりと言う。

「白石さんがいたから、今日は助かった」


 視線はまだまっすぐではない。


 でも、言葉は確かだ。


「一人で抱える方が、いつも正しいとは限らないって……今日、ちょっとわかった」


 結衣の胸の奥が、じわっと熱くなる。


 先輩である奈緒が、自分にそんな言葉をくれるなんて思っていなかった。


 その変化が、嬉しい。


 すごく嬉しい。


 でも、その嬉しさをうまく言えない。


「……はい」


 結局、それしか言えなかった。


 けれど、その返事だけで十分だった。


 湊はそんな二人を見ながら、心の中で小さく笑う。


(……これ、かなり大きいよな)


 恋愛ゲーム的に見れば、好感度が上がった、イベントが進んだ、報酬が出た、で終わる。


 でも現実として見れば、これはもっと大きい。


 奈緒が“支えられること”を少し受け入れた。


 結衣が“前に出るだけでなく、先輩を支える”形を知った。


 その変化は、この先の病院ステージにかなり効いてくる。


 その時。


 視界の端で、赤い表示がまた小さく明滅した。


『《エマージェンシーイベント 継続中》』


『危険度:さらに上昇』


『次段階:未解放』


 まだ終わらない。


 夜は続く。


 病院は止まらない。


 誰かが働いていて、誰かが耐えていて、誰かが限界を隠している。


 そしてその中で、自分の“選択”もまた、まだ終わらない。


 湊は、車椅子の肘掛けに置いた手へ少しだけ力を込めた。


 白い病室。

 白い天井。

 規則的な電子音。

 処置を終えたばかりの空気の熱。

 まだ張りつめたままの夜の気配。


(……面倒で)


 小さく息を吐く。


(重くて)


 視界の端の表示が揺れる。


(でも、やっぱり)


 口元がほんの少しだけ緩む。


(面白いな)


 そう思ってしまう自分を、完全には否定できなかった。


 ゲームみたいで。


 でもゲームじゃなくて。


 正解が見えても、それだけでは届かなくて。


 それでも、見えてしまった以上は関わらずにいられない。


 この病院ステージは、思っていたよりずっと難しい。


 そしてたぶん、だからこそ、自分はここで選び続けるのだろう。


 夜はまだ終わらない。


 青白い表示が、静かに、しかし確かに告げていた。


『黒瀬湊』


『レベル:7』

『現在経験値:935/3600』

『現在スキル経験値:550/1500』

『現在恋愛ポイント:1075』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.6』


『現在ステータス』

・身体強化:中

・視力補正:安定

・観察眼:解放済

・身体回復効率:補正中

・選択肢精度:停電余波により一部低下


『所持スキル』

・《感情トレースLv.2》

・《言外読解Lv.2》

・《身体感覚補正Lv.2》

・《安心感付与Lv.1》

・《重心把握Lv.1》

・《疲労看破Lv.1》

・《関係負荷軽減Lv.1》

・《役割把握Lv.1》


『所持アイテム』

・《微睡みミント》×1

・《メンタルリカバリーチケット》×1

・《リハビリサポートバンド》×1

・《ナースメモカード》×1

・《ミントタブレット》×1

・《栄養補助スープ》×1

・《暇つぶしカード》×1

・《非常用簡易メモ》×1

・《集中維持パッチ》×1


『解放済み機能』

・イベント危険度表示

・会話相性表示

・選択肢リスク予測

・ステータス詳細表示

・軽会話ログ保存

・食事相性表示

・患者心理補正

・感情隠蔽補正表示

・連携相性表示


『現在進行中イベント』

・《エマージェンシーイベント:停電が奪うもの》

・《佐倉奈緒 イベント進行中》

・《白石結衣 イベント進行中》

・《神宮寺綾乃 観察継続》

・《桐谷美月 連携ルート進行中》


『特殊フラグ』

・《白峰紗雪:未接触》

・《止まれなかった手》

・《届かなかった選択》

・《夜間急変》

・《崩れない連携 CLEAR》


『次の選択に備えてください』


 ――次の選択に、備えてください。

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