1 プロローグと夜雨と異形と
夏の手前だというのに、寒いと感じたのは初めてのことだった。
天気予報も見ずにバイトに出かけ、案の定帰りの途中で雨に降られ、誰もいない道で大きなくしゃみをする。
すでに全身は濡れきっており、急いで帰っても特に意味がないと諦めがちになっていた。
帰ったらシャワーを浴びよう。
靴をドライヤーで乾かそう。
あとはすぐに布団に入って、寝よう。
そんなことを思いながら、マヒルは生ぬるい水が足の指の隙間を行ったり来たりするのを感じつつ、足を速めた。
もう少しでこのシャッターまみれの商店街を抜け出せるといったところで、近くの路地裏の方から妙な物音がした。
金属が擦れるような……あとは、なにか重いものが何回も地面に叩きつけられるような音。
ポケットのスマホがバイブレーションで激しく振動した。
「……まさか」
思わず狭い路地へ駆け込む。
道中ゴミ箱を誤って蹴り飛ばしながらも、片付ける暇もなく路地裏を走る。
目の前に、大きな影が見えた。
「百合葉ちゃんっ!!」
そこにはマヒルのクラスメイトである青山百合葉の姿と、フードを深く被っている男の姿があった。
男は壁によりかかって座り込んでおり、力なく脱力している。
その右手には奇妙な文様が刻まれた短剣が握られていた。
「……来るな」
男がそう言った。
それは明らかにマヒルに向けられた言葉であり、その目はどこか同情的でもある。
もう助からないぞとでも言いたいのか。
「ストップ! 百合葉ちゃんッ!!」
叫ぶ。
叫ばなければいけない。
そういう決まりだ。
いや、厳密には、叫ぶことが決まりではない。
止めようとした意思を見せることが決まりなのだ。
そうでもしなければ、仕事の放棄だと思われる。
スマホに通知が入った時点で連絡は済ませた。あとはこちらの自由だ。
「口減らし、しなきゃね」
ユリハが告げた。
もう正気ではないらしい。
彼女の身体に異変が現れたのが見えて、マヒルは思わずため息を吐く。
体が膨張していく。
背中の皮膚が裂け、甲虫のような漆黒の外殻が生じた。
横腹からカマキリのような鋭い節付きの腕が四本生えてきて、それまで纏っていた制服を突き破った。
本来の手指は細長く伸び、その爪は光を吸い込むような闇に変色する。
首筋から頬にかけて、鱗のような硬質の紋様が浮かび上がり、瞳が蒼く染まる。
口は裂け、人間のものではない、ミルワームの口器のような器官が顕わとなった。
──美しくも、気持ちの悪い、異形の化け物。
「あ、あぁ、ぁっっ」
へたり込んでいる男の声は情けなかった。
助けに入るつもりはない。自分の仕事は果たしたのだから、あとは特課がくるのを待つだけだ。
男に対する同情がないのだ。
「や、やめッ!!」
短剣を振り回した男の右腕が飛ぶ。
逃げればいいのにと思ったが、彼の脚が本来の関節とは逆の方向に曲がっていたのを見て、無理なのだと悟った。
「────ッ゙ッ゙ッ゙!!」
声にならない叫び声。
ユリハが、男の体を持ち上げた。
男の腕の断面からは大量の血が滴り落ち、それが雨粒とともに異形の甲殻を滑った。
化け物が男を掴んでいる腕を振り回した。
男の肉体が、重々しい音を出しながらそこかしこへ叩きつけられている。
骨は折れ、肉は潰れ、小さな部品がとれはじめる。
血飛沫が四方へ飛び散り、鉄と水に濡れたアスファルトの臭いに、かすかに排泄物の臭いが混じった。
べちゃりと、血液がマヒルの頬についた。
「アーっン」
可愛らしい声とは裏腹に、不快な咀嚼音が響いた。
唇がないのだから、遮音性もクソもない、くちゃくちゃという音がする。
マヒルはそんな光景を見ながら少し後ずさった。
特課が到着が想像以上に遅い。いつもだったらもう来ているはずなのに。
そう思ったと同時に、くちゃくちゃ音が消えて、マヒルは冷や汗をかいた。
「……ん? まだ、いるんだっぁ……?」
化け物がマヒルの方を向いた。
本格的に不味い。このままじゃユリハの胃の中に行くことになる。
マヒルはすぐさま彼女に背中を向けて逃げ出した。
もうすっかり寒さは忘れて、夜雨のせいで視界が悪いのも気にせず、無我夢中に走る。
「百合葉ちゃん待って!! 俺だよ俺!! マヒルっ!!」
ユリハはその言葉を聞かない。その名前を無視する。
今朝笑いあったはずだが、今の彼女はそれすら覚えていないらしい。
薄情者め。
「監視役のマヒルッ!! ねぇわかる!?」
「口減ラシっ、シナクチャ」
聞いちゃいない。
下顎が、ミルワームの口が、徐々に近づいてくる。
血と脂の凄まじい臭いがマヒルの背後にひっついてきた。
少しでも減速したらマヒルは彼女の口の中へ入り込んでしまうことだろう。
「クッソっ!」
マヒルは路地を抜けて急な方向転換をした。
重量のあるユリハは、その巨体も相まってすぐに減速することや曲がることはできない。
勢いを殺せなかったユリハは、そのままシャッターで閉じられた店に突っ込んだ。
「アァァァアア!!!」
断末魔にも似た金切り声でユリハは叫ぶ。
その甲高さと、あまりの声量にマヒルは耳を塞いだ。
そのすぐ後に、大きな破裂音が聞こえた。
耳を塞いでなお聞こえる、爆音。
雨の音ではかき消せないだろう。こんな夜中に鳴ってはいけないような音。
それはもう今更か。
「キァァァァ嗚呼嗚呼!!!!!」
金切り音が更に大きくなって、マヒルの背後で巨体が倒れる音がした。
「……はぁ、はぁ、遅いですよ」
マヒルは何が起こったのかを瞬時に理解して、後ろを振り返った。
ユリハが血を流して倒れている横で、ショットガンを持ったスーツの男が立っている。
「まさか路地裏にいるとは思わなかったんだよ。もうちょっと開けた場所で喧嘩しろ」
「喧嘩じゃないですよ。……男の人が喰われました。多分、襲おうとでもしたんじゃないですか?」
「物好きもいたもんだな」
スーツの男はそう言うと、スリングのついたショットガンを背中に回して、懐から出した注射器をユリハに突き刺した。
あまりに遠慮なく首に突き刺すので、彼女の方からちょっとしたうめき声が聞こえてきた。
「……っと。ッたく、お陰で今日は忙しくなりそうだよ」
「よかったですね。給料泥棒にならなくて」
「普段はデスクワークなんだよ」
男はそのように悪態をつきながら、徐々に人間の姿を取り戻していくユリハを眺めていた。
眺める、というよりは、また暴れ出さないかを監視しているだけだが。
「暴走を止めてこその特課でしょ? それにほら、中年の運動不足解消にも良い」
「……ガキ。お前いつからそんな生意気になった」
「百合葉ちゃんの監視役になってから」
「……最近のは厄介だな」
「でしょ」
「うるせぇ」
男はそう言うと、完全に人間の姿に戻った百合葉を肩に担いだ。
「おんもっ……」
「殺されますよ」
「ぶたれるだけだよ」
「何回です?」
「今のがバレたら、一三回目になるか?」
小気味いいテンポで会話をしながら、男は近くに止めてあった黒塗りのセダンの後部座席に百合葉を乗せた。
バタンッとドアが閉じる。
「そんじゃっ、気ぃ付けて帰れよ」
「うん。英樹さんも頑張って」
「下の名前で呼ぶな」
そう言って水下英樹は運転席に座ると、すぐさま夜の街の方へと消えていった。
女子高生を乗せた中年の車が夜の街へ消える、というのはいささか問題があるように思えるが、乗せている女子高生がアレなので、特に問題はないだろう。
そんなことを考えて、マヒルは再び帰路へつく。
顔についた血が雨で流れていくことを願いながら。
たまに更新出来たらなと




