第1話 幸運の女神
医科大学、14時40分。
「なんで人の腕を切断する方法なんか知らなきゃいけないんだ?」
俺は黒板に目をやった。
「確かに……」
ヘッドホン越しに隣の席から声が聞こえた。目の前のノートパソコンから顔を上げ、隣を見る。どうやら今の疑問が、こいつの頭にしっかり食い込んだらしい。口に出していたのか。いや、ぼそっと漏らした、が正しいか。
動画を一時停止した。将来目指している遺伝学者という仕事の歴史について、もう少し聞きたかったんだけどな。
動画を止める羽目になった原因は、隣のこいつだ。なぜか俺を「ダチ」だと思っているやつ。
背が高くて、青い目をした金髪。俺たちは何から何まで正反対だ。俺は黒髪で背の低い、ごく普通の男。特徴といえば髪が長いことくらい。こいつに言わせれば、正反対だからこそ惹かれ合うらしい。
俺としては、そもそも関わりたくない。残念ながら、それができないんだが。こいつはうんざりするほどしつこい。
「先生、患者を眠らせて、医療用の斧で腕をぶった切っちゃ駄目なんですか? なんでそんな面倒なことを? どうせその腕、犬の餌にしかならないでしょ」
金髪は片手を机につき、もう片方の、本人同様やたら長い腕を上げた。
俺は頭を抱え、机に突っ伏した。
頼むから、俺がこいつに言わせたと思われませんように!
「君、まず倫理というものを聞いたことがあるかね? 今は五世紀じゃないんだぞ」
先生は妙な指示棒を持った手を上げ、軽く振った。
「そんなに切りたいのなら、木でも切ったらどうだ?」
おっ、詩人だ。
「でも、倫理に逆らって生まれた発見だって多いですよね。俺が初めて思いついただけで、先生の考えが保守的なのかもしれませんよ」
教室中がこいつを見ていた。まあ、こんなタランティーノ映画みたいな会話を聞き逃すやつはいないか。
「はあ……君たちは、ついこの間まで高校生だったんだからな」
先生は額に手を当てた。
「まず第一に……」
そこから、なぜそれが効率の面でも駄目なのか、説明が始まった。何とかショックとかいう話だ。「痔出血性」だか何だか。よく聞こえなかったし、まあ、どうでもいい。あとは単純に出血がどうの、その他もろもろ。
「そこの隣に座っている君、ブラインドを開けてくれないか?」
先生が俺を指した。
「俺がやります」
ゆっくり立ち上がろうとしていたところで、横から声がした。何かに背中を押され、椅子と机の間に挟まれた。痛くて小さくうめく。左を見ると、ダニールはもう窓際でブラインドを開けていた。
窓からの光に目がくらみ、手で遮った。
格好つけやがって。
今度は自分から体をずらし、背後を通るダニールに道を空けた。俺は文句の一つも言えない。
言ったところで、適当に謝って終わりだろう。殴るのも……残念ながら無理だ。俺だってジムには通っているが、階級が違う。こいつはジムなんか行かなくても、その辺の鍛えている男に勝てる。
悔しい気持ちで教室の反対側を見た。そこには俺の好きな人がいた。残念ながら、本人はまだそれを知らない。
見たこともないほど綺麗な女の子、アルビナ。白くて綺麗な肌、抜群のスタイル、可愛い顔と声。ただ、俺より背が高い。だからまずは金を稼いで、何か一つでも彼女にいいところを見せないと。
そんなわけで、授業が終わっても休まず仕事に行く。今日は授業が少なくて助かった。ノートパソコンで時刻を確認すると、終わりまであと数分だった。
「なあ、一緒にぶらつかないか、友よ?」
アルビナを見つめていた俺を、ダニールが肘でつついた。
「お前、マジで『友よ』って言った?」
眉を上げてダニールを見た。
「別にいいだろ。で、来る?」
「やめとく」
「おいおい、学生ならこういう誘いは断らないだろ。何様のつもりだよ?」
ダニールが冗談っぽく言った。
「別のタイプの学生、かな」
このやり取りに、俺の口元にも少し笑みが浮かんだ。
「例えば、働いてるタイプの」
笑みはすぐに消えた。
「そっか」
ダニールは肩をすくめた。授業が終わると、別の誰かにちょっかいを出しに行った。
教室を出ようとしたとき、ダニールがアルビナと、その隣の席の女の子に話しかけているのが見えた。
ところで皆さん、実は俺、今日は仕事がない。
でも、どうすれば俺の親友と、その新しい女友達の前で馬鹿みたいにならずに済むだろう?
外に出て、数少ない空いているベンチの一つに座った。綺麗な柵が、木々と一緒になって大学の敷地を囲んでいる。うちの大学だって、この国じゃそれなりのところだ。
ただ、道路の向こうの工事現場が全部台無しにしていた。そこからは汚い罵り声が聞こえてくる。まあ、実際ちょっと面白いけど。
大勢の学生が通り過ぎていく。そのいくつもの集団から、目当ての一組を探した。
向こうが俺を見つけるほうが早かった。
「何してんの?」
ダニールが二人の女の子と一緒に近づいてきた。二人は何か話していたが、ダニールが俺に声をかけた途端、後ろの会話が止まった。
俺は顔をしかめた。
「タクシー待ち」
そう答えてから、思い切った行動に出た。後ろの二人に手を振ったのだ。
二人はぎこちなく手を上げ、挨拶を返した。それから顔を見合わせ、くすくす笑った。
これ、俺がもらえる反応の中でも最高の部類だろ。量産型ラブコメアニメそのもの!
「本当に来ないのか?」
ダニールが後頭部をかいた。なんだか変な関係になってきたな。少しためらってから、俺は答えた。
「悪いけど、雇い主を裏切るわけにはいかないから」
仕上げに、ぎこちない笑みを添える。
よし。今の場面、十点満点だ!
彼女たちの目には、責任感があって、少し影のある働く男に映ったはず。しかも俺の地味な見た目が、それを裏づけてくれる!
大成功!
「あー、そっか。残念」
アルビナが頬に手を添えて言った。
俺は唾をのんだ。
もう全部どうでもよくないか?
いやいや、このまま続けろ。
「じゃあな、友よ。次は一緒に遊ぼうぜ」
挨拶を済ませると、三人は歩いていった。
あのとき教室で誘いに乗っていたら、こいつは二人も一緒に誘ったんだろうか?
まあ、そこはどうでもいい。
俺はたった今、今日一緒に遊べる可能性を、自分の手で完全に葬ったんだから。
後をつけて、茂みから飛び出して、こう叫ぶわけにもいかない。
「おーい! 聞いてくれ、今日はついてる! 店長が死んだ! 飲食店の仕事から解放されたんだ! もう『こちらのレジへどうぞ』じゃなくて、『あと二杯!』って酒の名前を叫んでもいいんだぞ!」
無理だ。
どうやら幸運の女神は俺を見放したらしい。
でも、次につながる布石にはなった!
うなだれたまま、道路を渡っていた。実は三人はまだそれほど遠くに行っていない。工事用の養生シートの下を、声を上げて笑いながら、のんきに歩いている。
アルビナの綺麗で艶のある髪が、軽やかで女性らしい歩き方に合わせて左右に揺れた。腰のラインにも、つい目がいってしまう。
唾をのむ。少し目がくらんだ。
でも、その隣を歩いているのはダニールだ。
頭に浮かんだのは、人生で一番苦い考えだった。
俺が欲しいと思う女の子の子供。その父親になるのは、別の男。
少し頭がぼうっとした。もう何もかも諦めて、反対方向に歩いて帰ろうと思った。
でも、くそ!
負け犬になるわけにはいかない!
俺は三人を追って走り出した。理由なんて千個だって考えてやる。言い訳ならできる。得意だ! とにかく、この機会を逃すな。
嫌だ!
嫌なんだ!
彼女があいつと寝るなんて、絶対に嫌だ!
「おーい、ダニール!」
頭の中で叫んでいた声を抑えて、少しだけ声を張った。
ダニールが振り向いた。
「くそっ!」
どこか遠くから叫び声が届いた。その上で、何かがきしんだ。
何が起きているのか、すぐにわかった。
脚から力が抜けた。嫌な、恐怖を呼び起こす何かが脚の中を満たしていくようだった。腹がねじれた。
顔を上げようとして……
すべてが、一瞬で終わった。
顔を上げる暇さえなかった。
* * *
専門学校を出た女子学生の視点。
編集者どもめ! 馬鹿な母親! みんな大嫌い。
歯を食いしばり、地球上で一番退屈な場所から離れていく。
私の漫画は、また駄目だった。
そりゃそうか。この国じゃ、誰もこういうものを気にしない。これだけ需要があるのに。
門を出て、勢いよく振り返った。
「ねえ!」
私は叫んだ。
「みんな、アニメとか漫画、好きでしょ? アニメ、みんな見てるよね? お願い! YouTubeのチャンネル登録して! 私、漫画を描いてるの! この国のオタク文化を盛り上げたいの!」
みんなが立ち止まった。
私は呆然とした。まさか、うまくいった?
そのまま通り過ぎていくと思っていたのに。興味を引けたらしい。
でも、背後で何かが大きな音を立てて落ちた。
振り返ると、大量の鉄筋が柵と養生シートを押し潰していた。小さな破片なら防げたかもしれない。でも、あれだけの金属が降ってきたら、どうしようもない。
下にいた男の子の姿は、落ちた鉄筋に隠れて見えなくなっていた。
背の高い金髪の男の子が駆け寄り、その後ろで女の子たちが悲鳴を上げた。彼は叫びながら、崩れたものをどかし始めた。
女の子たちは頭上のシートを見上げると、低い柵を乗り越え、そこから離れた。
ドン!
乗用車が二人をはねた。
二人は道路に投げ出され、動かなくなった。金髪の男の子がそちらを見て、恐怖に顔を歪めた。
もう、私の周りでは誰もが叫んでいた。
叫ぶ学生たちの群れを見た運転手は、ほかに何も思いつかなかったのか、車を置いて逃げ出した。
金髪の男の子は、膝をついたまま動かない。友達を助け出そうとしていた手も、止まっていた。
こうして、真っ昼間に三人が死んだ。
面白い展開。
私はスマホを取り出した。
カシャ。
人の波と一緒に、女の子たちへ駆け寄った。でも、その集団から少し外れたところで、アスファルトに落ちていたものが目に入った。
それが何なのか気づいて、足が止まった。
……
どこか、暗闇の中。
もう誰もいないはずの場所。温もりさえ残っていないはずの場所で。
彼女が輝いていた。
俺が存在する理由。
短い髪。目を覆う前髪。彼女は、まっすぐ俺を見ていた。日本の学校の制服を着ていたが、知っている誰とも結びつかなかった。
それでもわかっていた。
彼女だ。彼女だけが、俺にとって大切な何かだった。
馬鹿げている。でも、彼女は暗闇の中で金色に輝いていた。何も照らさず、ただ視線だけを奪っていく。
彼女が背を向けた。
呼び止める声はなかった。
追いかける脚も。
引き止める腕も。
そもそも、目があるかどうかさえ怪しかった。まばたきもできないのだから。
かつて口だったものを開いた。
かつて喉だったものに力を込めた。
かつて肺だったもので息を吐いた。
でも、もう遅かった。
どこからともなく現れた黒い人影の群れが、彼女を覆い隠していた。
考えたいという気持ちも、すべて失った。
血が巡る音も、呼吸もない。暗闇さえ、もうなかった気がする。
そのとき、上から、たぶん鼻先のすぐ前に、火花が降ってきた。
そして太陽と同じ色をした手が、俺に触れた。
突然、あらゆる感覚が押し寄せた。
恋しく思う暇さえなく、ただ手放した器官のすべてが、戻ってきた。
信じられないほど寒かった。たまらなく不快で、俺は叫び、手足をばたつかせた。聞き分けのない子供みたいに、体を震わせて暴れた。
寒さは消えなかった。でも、何かで包まれ、動けなくなった。
体が左右に揺れる。
何が起きているのか、どれほど見たくても、目を開けられなかった。
できるのは、叫んで泣くことだけ。
力が尽きるまで、ずっと。




