第一章 旭 一節 恐怖
これは、僕たちが生きた物語。
これは、ひとりの少女の物語。
そして、彼女の中で生きてきた「僕たち」の物語。
家庭で傷つき、失い、何度も自分を守るために「誰か」を演じてきた旭。
お芝居が好きだった。
動物が好きだった。
誰かを守ることが好きだった。
けれど、彼女が「好き」だと思っていたものの中には、
まだ本人も知らない理由があった。
少女の人生を辿りながら、少しずつ明らかになっていく、
「僕たち」の物語。
日は沈み、薄暗い闇が周りを覆っていた。
少女は、泣いていた。
家の門の、塀の上で。
「うぅ……もう、降ろしてよぉ」
恐怖で、身体が細かく震える。
まだ幼い少女にとって、そこはあまりにも高すぎた。
「本当に、何もしてないのに……」
何を言っても、嘘だと言われた。
黙っていても、怒られた。
無力な少女は、ただ怯えることしかできなかった。
どのくらいの時間、そこに置き去りにされていたのかはわからない。
数分かもしれないし、数時間かもしれない。
ただ、その時の少女には、永遠のように長く感じられた――
少女の名は、旭。
両親と、三つ下の妹がいる。
妹は、いつ機嫌を損ねるか分からなかった。
ひとたびそうなれば、感情が爆発したように泣き叫び、叩きつけてくる。
決まってそのタイミングでやってくる母は、いつも旭を睨んだ。
「お姉ちゃんが何かしたんでしょ?」
原因なんて、旭には分からなかった。
ただ仲良く遊んでいただけなのに、妹は勝手に怒り出し、突然泣き出すのだ。
「……」
旭は何も言わなかった。
何を言っても、無駄だったから。
こうなったら次はどうなるか、分かっていた。だから、嫌だった。
「何か言いなさい! 旭!!」
「……」
それでも旭は、頑なに口を閉ざした。
言ったところで、余計に怒りが燃え上がるだけだと知っていた。
ずっと黙っていると、奥から父が歩いてきた。
「旭、メガネを外しなさい」
弱視の矯正用に、いつもかけているメガネ。
何かを悟ったように、旭は震える手でそれを外した。
パンッ――。
乾いた音が響き、頬が跳ね上がる。
殴られた衝撃に、ただじっと耐えながら旭は俯いた。
それでも、溢れ出る涙だけは止められなかった。
「ママと妹に謝りなさい」
「旭!!!!」
狂ったように叫ぶ父。
「もうやめて、パパ」
突然、母が父の腕を止めた。
(自分だってあんなに怒っていたのに、なんで止めるの?)
旭には、大人の理屈が理解できなかった。
どうせ信じてくれないなら、今更味方のような真似なんてしないでほしかった。
旭は、ゆっくりと顔を上げた。
「……なんだ旭、その目は」
父の低く冷たい声。
「反省していないなら、外にいなさい」
抗う間もなく、小さな身体が宙に持ち上げられた。
「いやだ! ごめんなさい!!」
必死の叫びも届かず、父は淡々と歩みを進める。
階段を降り、玄関を抜けて、外の冷たい空気が肌を刺した。
家の門の、あの狭い塀の上に、父は旭を乗せた。
「しばらくそこで反省しなさい」
父はそれだけ言うと、振り返りもせず家の中へと入っていった。
高い。怖い。
「ふぇぇ……ひっく……」
悲しかった。信じてもらえなくて。
外の闇に置き去りにされた旭は、震える身体で身動きも取れず、ただそこにいた。
そういう時、彼女はいつも、自分のなかの大好きなものを思い浮かべる。
可愛いぬいぐるみ。大好きなおもちゃ。
(今は遊べないけど、またあした、遊ぼうね)
気づけば涙は止まっていた。虚ろな瞳で、旭はただ、じっと夜空を見つめていた――。
僕たちの物語、始まりました。




