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新田クラクション、真倥管レクティファイア  作者: 枕木悠
第三章 ゴールド・フィッシュ・グループ
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第三章③

『やっぱり逃げるの!?』そういう反応で知念とヒメゾノはエリコと同じように旋回して魔女たちに背を向けて、エリコに並ぶために加速した。二人の反応はとても機敏だ。慣れているのだ。何かに逃げるのに慣れているのだ。エリコが家出娘を営業所に連れてきては、強気な態度で厄介なことばかりを起こすから慣れているのだ。

「どうすんのぉ、エリコちゃん、」知念が声を張って言う。知念の困惑がまるでラジオの音声のようにノイズに絡まってエリコの耳に届く。「なんか、怒っちゃってるよ、水の魔女、エリコちゃんが挑発するからだよ、もう!」知念は後ろを振り返る。「ほぅら、全速力で追って来てるよぉ!」

「逃げるのよ、逃げ切るのよ、スナオは渡せない、」徳富はこの速度になれていないから目を瞑って恐怖を感じないようにしていた。エリコはギュッとされる。エリコは本気で愛おしく思う。「渡したらそれは、それは、きっと、世界の終りだわっ!」

「ああ! それ、私にも言ったぁ!」知念が目を大きくして叫ぶ。そしてエリコよりも加速して前に出て叫ぶ。「凄く嬉しかったから、覚えているんだってば! 誰にでも同じこと言いやがって、エリコちゃんのバカぁ!」

「ああ、もうっ、煩いっ、邪魔よ、私の前を飛ばないで!」

「どこに逃げるの?」ヒメゾノが知念のさらに前に出て、後ろ向きに飛びながら涼しい顔で聞いてくる。ヒメゾノは飛んでいるときはとても冷静だ。声も低くなって、それでも普通の男の子よりは高いが、地上にいる時とは雰囲気が変わる。厭世的になる。何か難しい数式を考えているような顔をする。「逃げ切れるだろうか?」

「昨日は逃げ切れた、」エリコは早口で言う。「だから今日も逃げ切れると思う、私たちの速さなら逃げられると思う、でも、今は視界良好の快晴、昨日は暗かった、可能性を考えると心配だわ、ええ、心配、心配よね、それでヒメゾノにお願い、ヒメゾノに願いを」

「うん、」ヒメゾノはエリコの考えていること簡単に察して、簡単に頷く。「僕が囮になればいいんだね、いつものことだもんね、」ヒメゾノはらしくない、大人の魔法使いの目をする。「でも、その代わり、エリコちゃんの、」

「分かってるわよ、活動写真を見ながらキスしてあげる、手も握ってあげる、シンデラサイズのポップコーンも買ってあげる、食べさせてあげる、素晴らしいサービスでしょ? 他にお望みは?」

「うわぁ、まだ何かしてくれるの?」ヒメゾノは女の子みたいに微笑んで両手を箒の柄から離して喜んでいる。

「無事に何もかもが上手く言ったら、なんだってしてあげるんだからっ」

 瞬間、ヒメゾノの鼻から赤い液体が飛び散った。「……うわっ、血? ああ、止まらない、大変、」そう言いながらも空中のヒメゾノは冷静に鼻を摘まんで天を仰ぐ。「エリコちゃんのことを考えるといつもこうだよ、ホントに困るなぁ」

「……あんた一体何考えてんのよ、もうっ、」エリコは粘り気のある視線をヒメゾノに送り付けた。「言って御覧なさい、怒らないから、さぁ、言って御覧なさい」

「言わない」ヒメゾノは鼻先を摘まみながら、首を横に振る。

「言いなさいよ」

 ヒメゾノは二秒ほど考えてから言う。言葉にしたら夢が叶うかもしれないんじゃないかという判断をしたのだろう。「……エリコちゃんのベイビドールが欲しい」

「な、何考えてんの!?」エリコは顔つきを険しくして怒鳴る。ヒメゾノの莫迦さ加減にとても腹が立ったのだ。信じられない。エリコがベイビドールのコレクタだということをヒメゾノは知っているはずなのに、どうしてそんなことが言えるのか、という意味で信じられないと思ったのだ。「バッカじゃないのっ! 私の大事なベイビドールをあんたなんかにあげられるわけないじゃないのっ!」

「ほぉら、やっぱり怒ったぁ、」不服そうな顔でヒメゾノは訴える。「言うんじゃなかった、 エリコちゃんの脱ぎたてのベイビドールを着て眠りたいなんていうんじゃなかった」

「いや、怒るって普通」知念が冷ややかに突っ込む。

「あ、でも、タンスに仕舞ってある古いベイビィドールだったらあげてもいいわ」

「え、本当っ?」ヒメゾノは空中を一回転して喜びを表現する。「やったぁ!」

「いいのかっ!?」知念は激しく突っ込んだ。「古い方が染み込んでいるよねぇ、エリコちゃんのいい匂いがぁ」

「新しいシルクのはぜーったいに駄目よっ!」エリコは念を押す。

「うん、古い方でいい、」ヒメゾノは鼻先をまだ摘まんだままだ。「古いのでお願いします」

「はあ?」エリコは真面目に首を傾げた。「変わっているのね」

「ここは突っ込むところだろうか?」知念は独り真剣に悩んでいる。

「どうしたの、知念?」

「ううん、」知念はとっても笑顔で首を振る。「なんでもないよ、エリコちゃん、気にしないでね、とにかく、ヒメゾノを囮にするんだね、エリコちゃんらしくてとても素敵な作戦だと思うよ、うふっ」

 知念が作り笑いを浮かべた時。

 紫色のプラズマが弾けた。金属が巨大な力に押しつぶされたような激しい炸裂音。

「ぎゃあ」徳富の悲鳴。

「大丈夫、当たってないわよ、当たらないわよ!」エリコはロールして避ける。

 しかし、感じた。頬に針の刺すような痛みだけ、僅かに。気になった。小さな痛みに対しても反応してしまう自分の弱さ。「……スナオ、平気?」

「大丈夫、好きに飛んで、」徳富は言う。「あんまり激しいのは嫌だけど、我慢する」

「スナオ、お願い、お腹を抓って」

「え? なんで」

「ユニコーンのお尻に鞭を振るようなことだと思って抓って」

「それで加速するの?」徳富は少しリラックスしたような声音で言って、萌黄色のワンピースの上からエリコのお腹を抓った。

「爪を立てて欲しい」エリコは注文する。

生地が薄いので徳富の指先の動きがよく分かる。気持ちがいい。最初は優しかった爪の圧力が、どんどん強くなって食い込む。エリコは気持ちよくなって、ああ、ココが天国なのかもしれないとか、口に出せないことを思う。スナオは絶妙のタイミングで手の力を抜く。エリコは運命を感じてしょうがない。「いいな、狡い、どうしたらエリコみたいなスタイルになれるの?」

「ありがと、スナオ、スナオはスナオのままでいい、心がはじけそう、凄くドキドキする」

「お腹に爪を立てただけで?」徳富は可笑しいようだ。

「うん、」お腹のへその近くに熱を感じる。少し強くなった気がする。「それじゃあ、先に謝っておくね、ごめん、スナオ」

「ふぇ?」徳富は変な声を出した。

 再びプラズマ。

 エリコ、知念、ヒメゾノは鋭い角度でそれぞれ別の方向へ散開する。

「ヒメゾノ、頼むよ!」エリコは素早く声を出した。

 ヒメゾノは風を発生させブレーキ。ヒメゾノは風の魔女だ。いや、魔法使いだ。彼は自分の体から周囲五十センチの風しか操ることしかできない。だからキャブズをやっているのだ。ヒメゾノは緩慢に体を傾けてから、物凄い速度で回転。低い空へ。そしてエリコと目が合ったタイミングで下手なウインク。一人進路を変えた。

 エリコはヒメゾノを目で追う。ヒメゾノはプラズマの魔女に急接近。進路を妨害する。プラズマの魔女はヒメゾノから距離を取ろうとする。ヒメゾノはしかし、自分の体を覆う空気を操り、絶妙なコントロールでプラズマの魔女の邪魔をする。プラズマは短い時間に何度も発生した。しかしヒメゾノの長い黒髪が僅かに乱れただけだ。本当にトリッキィな飛行。地上でパンをこねている彼とは別人だ。エリコは前を向く。「知念、加速するよ」

 エリコと知念は加速。高度を上げた。

 二人を追ってくるのは水の魔女。しかし速くない。普通の魔女の、平均的な速度。距離は開いている。いい高さに雲を発見。巨大な雲。

「知念、雲に入るよ」

「了解っす!」知念はこめかみに手を当てた。そしてエリコに向かって手を伸ばす。エリコはその手を握る。感触を確かめ合う。二人は同時に雲に紛れる。視界はゼロ。何も見えない。しかしエリコは真っ直ぐ飛ぶことが出来た。知念のおかげだ。知念は魔法によって羅針盤のように正確に東西南北を把握する。その魔法によって知念は道に迷ったことがない。知らない土地に行っても平気な顔をしている。暗闇でも明かりを点けないで飛ぶ。無灯火は罰金だが。その知念の魔法のおかげで自分の存在さえ曖昧になりそうな世界をエリコは飛べる。知念の手を感じて、徳富の暖かさを感じる。時間の感覚は消えている。しかし何も怖くない。知念が私を導いてくれるから。しかし。

「エリコちゃん、待って、止まるよ、止まって」知念が急に声を出した。

 心がざわつく。「どうしたの?」

 プラズマがはじけた音が後方から小さく聞こえた。遅れて前方で紫色のプラズマが小さく発光。ここは雨雲、だろうか? エリコと知念は速度を緩めて止まる。

「エリコちゃん、雲から出よう」知念がエリコの手をぎゅっと握り直して引っ張る。

「え、一体、どうしたの?」エリコは知念に従いながら言う。

「羅針盤が狂った、どっちがどっちだか、今、分かんない、だから雲から出よう」

「え、雨雲のせい?」

「違うよ、魔女のプラズマのせいだよ、魔女のプラズマが私の大事な羅針盤を狂わせているんだよ、雨雲のせいじゃないよ、急ぐよ、」知念は焦っている。「もしかしたらヒメゾノ、やられちゃったのかも」

「ヒメゾノが?」エリコの頭は一瞬思考停止になる。今までにない想像。「……嘘」

「……エリコ?」徳富が声を出す。

「エリコちゃん?」知念は握る手に力を入れる。「……とにかく、雲から出るよ」

エリコは首を横に振って絶望的な考えを捨てた。「うん」

 エリコと知念は高度を下げた。体の感覚は確かに地上に近づいている。しかし実際に地上に近づいているのかいないのか、分からなかった。逆さまに浮上しているのではないだろうか、とも思う。重力の感覚を信じていいのだろうか? それも狂わされてはいないのだろうか? スカートが捲れてパンツは見えていないけれど。何も見えない。雲に囲まれて何も見えない。なかなか雲から抜け出せない。違う? ここはもう雲じゃない?

「霧の中?」徳富が言う。

『霧?』エリコと知念は同時に発声する。徐々に視界が明るくなってきた。確かに霧の中だった。飛んでいる高さは雲の高さじゃない。霞んだ視界には不思議な光景が広がっていた。

「エリコ、なんだろう?」徳富が真下を指差す。

「なに?」エリコは真下を見る。……巨大な、水溜り?

 風が下から吹く。上昇気流だ。

『きゃあ!』スカートがはためいて踊る。霧が一瞬で吹き飛んだ。太陽の光を水溜りが反射して眩しい。

湖だ。深い緑色に囲まれた、丸い湖。

 萌黄色のワンピースよりも濃い緑色が囲む。時間がその場所だけ進むのを止めているかのように、しんと静まり返っている。丁度、湖の中央真上にエリコと知念は飛んでいた。浮かんでいた。湖には二つの影。ここは一体どこだろう? 人間の住む場所はずっと遠い景色の中に紛れて見えない。

「ねぇ、知念、ここって?」

「群馬、のどこかだと思うけど」

「ん? エリコ、あれ、人、かなぁ?」徳富は視線を下の方に向けて呟く。

「人?」エリコは徳富の視線の先を追う。

「エリコ、後ろ、」知念が声を出す。「魔女、魔女、魔女」

 エリコは旋回。水の魔女はそこに、そこと呼ぶには遠い空かもしれないけれど、そこに飛んでいた。飛べば近い距離。とても静かに微笑んでいる。口角を上げた。それは確認できた。彼女の群青色の髪の輪郭はすでに煌めいている。湖の縁がそれに同調して、煌めく。煌めきは一瞬で増す。

 反応が遅れた。

 いや、速く反応したところで逃げられる可能性はゼロだった。湖の直径と自分の速さを考えれば逃げ切れることは出来なかった。

 しかし魔女に背を向けてエリコと知念は一気に加速した。『逃げるっ!』

「キャラクリズン」後方からそう聞こえた。そう響いた。そう届いた。

 イエロー・ベル・キャブズの物語に出てくるシャーロットという水の魔女はキャラクリズンでファーファルタウにある王立一級河川のラムズ河を氾濫させて延焼するアームストロング家所有の弾薬庫を二秒で鎮火した。キャラクリズンはそういう魔法だ。静かな湖の水が重力に逆らって持ち上がる。逆らうというよりもなくなるといった方が適切だ。水柱、というにはとても太い円柱が湖から空に向かって伸びる。生命体のように洗練された動きで、水がさまざまな方向に向かって暴れ始める。エリコと知念は手を繋いだ。知念は箒を捨てエリコに向かって飛んだ。エリコは知念を抱き締めた。そして簡単に呑み込まれた。知念の箒は遠いところへ消えた。しかし、まだ濡れていない。徳富のよく分からない魔法工学のおかげだ。三人は空気の泡の中にいる。魔法工学が水を弾いている。水柱の中でぐるぐると回る。気がおかしくなりそうだった。ぐるぐると回り続ける。体の中のあらゆるものがひっくり返りそう。空気の泡は次第に縮小。魔法工学の力が弱まって、泡はパッと弾けて消える。三人は水に飲み込まれて濡れる。抱き締め合っていたけれど、三人は離れてしまった。独りになった。水の中で、湖の中で。息が続かない。深く堕ちる。苦しい。水は苦手だ。私は火の魔女のエリコ。泳げないし、眼も開けられないし、怖い。箒も手放してしまった。浮上できない。深く、もっと深いところに堕ちていく。足を動かしても、手を動かしても、堕ちていく。ああ、死ぬのかな。そう思って、後は、もう、何も思わなかった。

突然。

唇に暖かい感触。隙間から空気が入ってくる。とても気持ちが良かった。全身の力が抜けた。唇が離れた。その拍子で水を飲んでしまった。しまった。とても遅い後悔。水に支配されて、とても不愉快な気分。嫌だ。最低だ。最低だ。こんなの。未来はこんなはずじゃない。急に体が軽くなった。持ち上げられた。「エリコちゃん、しっかりして!」

 ヒメゾノ?

薄目を開ける。眩しい。ヒメゾノの可愛い顔。憎たらしいほど白い肌。本当に女の子だったらいいのに。ヒメゾノは濡れていて、とても魅力的だった。地上だ。助けられたんだ。ヒメゾノに。ヒメゾノ、無事だったんだ。よかった……。

エリコは咳き込んで、水を吐いた。

「エリコちゃん、エリコちゃん、エリコちゃん、」ヒメゾノはエリコの体を水辺に寝かした。草の匂いに安心する。ヒメゾノは絶望的な表情で何度も名前を呼ぶ。「エリコちゃん、エリコちゃん、エリコちゃん!」

「……うるさい、」エリコは腕を持ち上げてヒメゾノの頬を抓った。「てめぇ、勝手にキスしやがって、忘れねぇからな、絶対忘れねぇからな!」

「……え、エリコちゃん、」ヒメゾノは抓ったエリコの手を両手で包んだ。「よ、よかったぁ、」それから目に涙を溜めて女の子みたいに泣く。頬を伝う涙は水滴を含んで大きくなって草の上に落ちる。「ほ、本当に、よかったぁ、う、う、う、ううううぅわぁあああああぁ」

『エリコ!』左右から徳富と知念が顔を出す。二人とも濡れて、いい女になっている。『よかった、生きてる!』

「私はグラス・ベルのエリコよ、グラス・ベルのエリコ様よ、」エリコは体に力を入れて上半身を持ち上げ言葉を吐き捨てる。「そんな簡単に死んで溜まるもんですかっ!」

『エリコ様!』三人は三方向からエリコを抱き締める。

 皆の体温が気持ちいい。水で冷えた体が温まる。なんだかこのまま眠ってしまいたい気分。でも寝ちゃ駄目。逃げなきゃ。逃げ切って。

「急ぐよ、」スナオの願いを叶えて、もっと私のことを好きになってもらわなきゃいけないのだ。「スナオのお友達に会わなくちゃ」



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