第三章②
「バイオリンの音は好き?」
真倥管保管庫の壁にバイオリンのケースが一つ立て掛けてあった。新田フエコは突然そんなことを言って、ケースを開けて、狭い空間でどうやらバイオリンを鳴らそうと考えているらしい。オレンジ色のランプの下に、ぎりぎり演奏できるスペースが確保されていた。阿倍野は小さい頃、バイオリニストの演奏を聞いたことがあった。張り詰めた弦が震えて産まれる振動は、心臓によく響いたのを覚えている。
新田は弓を持ち周囲よりも明るさの濃い場所に、姿勢よく立つ。澄ました顔をしている。バイオリンを顎と肩で挟み、新田は目を閉じて、体を揺らしてリズムを取る。弓を動かす。音が鳴り始めて、それが繋がって曲になる。ファーファルタウの民謡だった。『チェルシの魔女』。激しいリズム。古い時代の音楽なのに、テンポの速いダンスミュージックだ。新田は笑って狭いスペースでステップを踏んでいる。床をブーツの底で叩いて音を出している。
阿倍野はそれを聞いて、素敵じゃないかと思った。
次の瞬間だった。
心臓が一度、大きく脈打った。阿倍野は胸を押さえた。
この感覚は、なんだろう? ブレーキが外れそうだと思った。体中の正常な感覚が壊れていく。鬼が目を覚まそうとしている? でも、どうして? 阿倍野は新田を見る。曲は激しさを増す。新田は自分の心の熱を全身で表現している。とても温かそうな、体だ。
……ああ、新田のバイオリンの音のせいか?
阿倍野がそう気付きかけたときだ。クラクションが鳴り響いた。
バイオリンの音を消す、金属製のクラクション。
新田は目を見開いて、バイオリンを置く。阿倍野に近づいて、不思議そうな顔をする。新田は何かをしゃべったが聞き取れない。声が届いていないことが分かったようで、阿倍野の袖を保管庫の出入り口の方へ引っ張った。着いて来い、とそういうことだろう。
一体、何が起こったのだろう?
悪い魔女が真倥管を盗みにやってきたのだろうか?
警報の種類は新田クラクションじゃない。煩いだけで、体が動かなくなるクラクションじゃない。ただ逃げ出したくなるクラクションだ。阿倍野は保管庫の出入り口の方向に体を向けた。重たい扉を体で押し開け、保管庫を出て、再び扉を押して閉める。振り返ると真倥管工場の中央の通路を新田は走っている。阿倍野は大股で追う。新田は保管庫と真反対の扉のノブに触ろうとした。
そのタイミングで、扉が外側にゆっくりと動いた。新田は驚いたのか、手を引っ込めて、三歩後ずさった。阿倍野の体に当たる。新田は阿倍野の顔を一瞥。腕を掴む。扉へ視線をやる。
美作だった。
真空管工場の空間に体を入れたのは美作だった。彼女は新田と阿倍野を見て、表情を険しくした。何かを叫んでいる。しかし、クラクションにかき消されて聞こえない。ただ、阿倍野に対して汚い言葉を吐いたのではないかと推測できる。美作は阿倍野を睨んで二つの真倥管を輝かせ、鋭いものを編もうとしているからだ。
美作の輪郭はシルバに輝く。瞳はダイヤモンドリングに発光。風がないのに美作のシルバ・ブロンドははためく。ポニーテールを固定していたリボンが解けた。二つの真倥管が熱を持つ。輝く。彼女の姿は真倥管工場のとても無機質な空気ととても相性がいい。半円球の天井に向かって美作は手の平を広げる。力が収束し、鋭い刃が編まれていく。
テアビュ。それを握り締めた美作は素晴しい被写体だ。
そんなことを冷静に考えていられるのは、新田が美作に向かって走りだしていたからだ。
美作はきっと新田の気持ちを勘違いしていて、姫を守る騎士のように新田を片手で抱き締めようとしていた。新田は抱き締められながら、美作の首に手を回して、跳躍。耳元で大きな口を開いた。
瞬間的にテアビュが消失。美作は膝から崩れ落ちた。
そして新田は扉の横に設置されているレバーを操作した。クラクションは鳴り止んだ。
耳鳴りはしている。
「どうして!?」美作はヒステリックに叫んだ。声は震えている。呂律が回っていないのだろう。「フエちゃん、悪い男が、鬼がそこにいるんだよ、私のテアビュで殺さなきゃ!」
「落ち着いてよ、ショウコ、」新田は子供をあやすように屈んで美作を抱き締めた。「彼は、アキヒトは敵じゃない、真倥管を盗みに来た悪い男じゃない、ショウコ、彼とそのお友達のためにスウィートルームを用意してあげて、一泊して、明日の朝、大坂に帰る、それがアキヒトたちの予定なんだ」
「フエちゃん、どうしてそんな優しいことを言っているの?」美作はかろうじて動く右手で新田の頬を抓る。「その男のことを信じているの? 絶対嘘だよ、騙されているんだよ、真倥管を盗まれて、ホテルも滅茶苦茶にされちゃう、もしかして変な魔法を編まれた? そうよ、きっと、フエちゃん、目を覚まして、お願い、正しい判断をして、お願い、クラクションはあの男にして」
「私の耳の性能の素晴らしさを、ショウコは知っているでしょ?」新田は美作に優しく言う。
「耳まで狂っちゃったの?」ショウコは力を入れて発声しているようだった。力を入れて目を開けているようだった。腕に力が入らないのか、指先は床に触れている。「お願い、フエちゃん、私の言うことを、……聞いて」
美作の目は閉じた。首が横に傾く。
「ショウコ?」新田は美作の顔を覗き込む。
阿倍野は二人の横に跪く。「大丈夫か?」
「うん、眠っているだけだよ、私のクラクションで睡眠状態に入ったんだ」
「俺たちのせいだ」
新田は首を横に振った。「ううん、アキヒトたちは何も悪くない、美作が何も確認しないで暴走したせいだよ、昔からこういう女の子なの、暴走しちゃうの、暴走して疲れて寝ちゃうの、凄く優しいから暴走しちゃうんだよね、うん、でも、眠ってくれてよかった、この子が起きていたら話が余計、捻じれちゃいそう」
「どこかへ運ぼうか?」阿倍野は提案した。
「うん、そうね、とにかく、上に出ましょう、まず状況を把握しないと、一体なんでクラクションが鳴ったのか、ショウコがどうしてここに来たのか?」新田は言いながら美作の真倥管を手にして、ジャケットのポケットに入れた。もう一つの真倥管の方は寿命を迎えたのだろうか、砕けてしまっていた。「アキヒト、ショウコをお願い」
阿倍野は美作の体を持ち上げた。彼女はとても軽かった。身に付けているものの方が重いのでは、と感じられた。近くで見る美作の顔はとても綺麗だった。人工的に造り出されたといった方が納得できる美貌。美作のシルバ・ブロンドは自然にない色だ。この工場が造り出した機械人形と言われたら、きっと阿倍野は信じてしまうだろう。そんなことを考えながら美作を眺めていたので、新田が変な顔をしているのにしばらく気付かなかった。
腕を組み、頬を膨らませて、上目で阿倍野を睨んでいる。
「どうした?」阿倍野は小さく笑った。
「もうっ、」新田はソプラノで発声して目を逸らした。「ほら、行くぞっ」
美作を持ち上げた阿倍野と新田は真倥管工場から出て、階段を登って一階に出た。騒がしい。メイド服を着た女の従業員と半被を来た男の従業員が廊下を行き交っている。何人かが新田を見つけて足を止めて言う。『ああ、お嬢様ご無事でしたか!』
そして美作を持ち上げている阿倍野に好戦的な目をして言うのだ。『貴様、何をした!?』
彼らの訛は強烈で、阿倍野は可笑しかった。弱った。
「ああ、もう、皆、煩いっ、静かにっ!」新田は両手で羽根みたいに動かして阿倍野の前に立って彼らに説明する。「話を聞いて、アキヒトは、この人は悪い人じゃないの、真倥管を盗みに来た悪い人じゃないの、この人はね、……お客さん、そう、お客さんなの、お客さんの前よ、皆、ふさわしい振る舞いと言葉遣いをして!」
従業員は新田の言うことを聞いて静かになった。新田は男の従業員の一人に美作を部屋のベッドに連れて行くように指示した。
「いや、いい、俺が美作さんを部屋まで連れて行くよ、」阿倍野は主張して、メイドに尋ねる。「どこ? 案内してくれれば、」
「アキヒトが部屋まで行かなくてもいいの、アキヒトは私と来て」
阿倍野は仕方なく美作を男の従業員に引き渡した。図書館に気に入った本を返却するときの感情に似ていた。また図書カードに名前を書きたいと思う。
「何考えてんの?」新田は大きな目を細めて阿倍野を見ている。「ほら、行くぞっ、あ、嘉平はどこ?」
「えっと、多分、フロントに、」メイドの一人は答えた。「いえ、まだお風呂かも」
「お風呂?」
新田に腕を引かれる。阿倍野はすぐに横に並ぶ。誰かに引っ張られるのはあまり気持ちのいいものじゃない。しかし、新田は小走りになって阿倍野の腕を引きたがる。意味が分からないが、きっと新田の習性だろうと浅く分析する。
ホテルのロビィまで歩いた。昨晩落下したシャンデリアは綺麗に片付けられていた。太陽の明かりがガラス張りの南側から入ってくるためロビィは暗くなかった。ロビィにはビジネスマンが数人、説明を求めている顔をしている。クラクションに驚いて、慌てて部屋を飛び出したような崩れた格好だった。フロントには誰もいない。
新田はフロントの奥に体を入れた。しかし、すぐに顔を出した。「誰もいない、っていうことは、……お風呂?」
新田は阿倍野の腕を引く。大浴場は一階にあって、新田と阿倍野が暖簾を見た時に、そこから男の従業員が飛び出してきた。『ああ、お嬢様、ご無事でしたか!』
「なぁに、皆、私が無事じゃいけないわけ?」新田は不機嫌な顔を作って、男湯の暖簾をくぐった。「嘉平、いるの?」
阿倍野も続いて暖簾をくぐる。脱衣場には白髪の老人と上半身裸の色白の男と木製のベンチに寝かされた男がいた。その男の顎は切れていて、僅かに出血していた。呼吸は正常だが、意識を失っているようだ。何が起こったのか、全く想像できない。
「ちょっと、大木、大丈夫、何があったの?」新田は意識のない男の顔を覗き込んでいう。
「ああ、お嬢様、ご無事でしたか!」白髪の老人は本日三回目の反応をした。それから慌てて壁に立てかけられていた木刀を手にして、阿倍野に向かって構える。「き、貴様ぁ!」
「ああ、もう、面倒臭いなぁ!」
新田は髪を振り乱しながら阿倍野のことを説明した。説明したといっても阿倍野が無害である、ということを様々な言葉で言い換えただけだったが、嘉平は美作と違って新田の言うことをすぐに信じて優しい顔になる。「お嬢様がそうおっしゃるなら、そうなのでしょうな、大木がこうなったのも、全部美作の勘違いのせいだったと」
「何があったの、ここで、今度は嘉平が説明する番だよ、どうして大木が倒れているの?」
嘉平は阿倍野を一瞥して口を開く。「その、私たちは略奪者が牢屋から脱走したのだと、勘違いをいたしまして、あの、お嬢様ですか? 牢屋の鍵を開けたのは?」
「ええ、牢屋を開けたのは私、」新田は頷く。「アキヒトを牢屋から出したのは私、それからアキヒトを真倥管工場に案内して、」
「あの、失礼ですが、どうして勝手にそんなことをなさったのです?」
「アキヒトが悪い男じゃないって思ったから、事実、勘違いだったし、それは心臓の音で最初から分かっていたことだし」
「いえ、私が言いたいのは、」嘉平は慎重に言葉を選んでいる。「どうして誰にも彼らが無害だということを誰かに伝えなかったのか、ということです、それを誰かに伝えてさえくれれば、私たちが混乱することはなかったのではありませんか? しかも、真倥管工場にまで案内したと? お嬢様らしくない行動だと思えます、ええ、非常にお嬢様らしくない」
「た、確かにそうかもしれないけど、」新田は狼狽えていた。「か、鍵は私の持っている分とフロントにある分だけ、だったら、その、私が開けたって分からない?」
「お嬢様はそんなことなさらない、してもそんなこと自分からはなさらない、もしかしたら言いくるめられて鍵を開けてしまったのかもしれない、お嬢様の姿がどこにも見られない、もしかしたらお嬢様は危険な目に合われているのかもしれない、私たちはそういう可能性を考えました、それがとても自然な発想だと思いませんか、まさか、この男と一緒に真倥管工場にいるとは露程も想像いたしませんでしたよ、なぜですか?」
「……ごめんなさい、」阿倍野の方を一度見て、新田は口を尖らせて謝った。「そうだね、私のせいだね、ごめんなさい」
「気に入ってしまったのですか?」嘉平は言う。
「え?」新田は聞き返す。「何を?」
「いいえ、すいません、口が過ぎました、」嘉平は優しい顔で笑う。「お嬢様、私は怒っていませんから、ただ、お嬢様の子供らしい振る舞いが微笑ましいのです」
「え、嘉平、何を言っているの?」
「君の名前は何かな?」嘉平は阿倍野を見て言う。
「阿倍野です」
「阿倍野君、なんと言えば分かりやすいのか、いや、とにかく、こんなことになって申し訳ない」
「……いや、とても面白い体験をさせてもらいました、」阿倍野は言ってから少しニュアンスが違うな、と思った。「違いますね、未知の体験、それにしては少しスリリングで」
「阿倍野君、一緒に牢屋に入っていた君の友人の名前は?」
「千場です」
「ああ、彼にも申し訳ないことをした」
「千場はどこです?」
「千場君はもうこのホテルにはいないよ」
「え?」
「千場君は風呂に入っていたんだよ、この浴場だ、私たちは彼をココで捕まえようとしたんだ、けれど、千場君は持っていた牛乳瓶で大木の、こいつの顎を叩いて大木の持っていたピストルを奪って、うちの新しい魔女の従業員を人質にとって逃げたんだ」
「誰?」新田が聞く。「新しい魔女?」
「藍染ニシキという子です、光の魔女、今日から働いてもらう予定でした」
「ああ、そういえば、美作が話していたわ」
「その魔女を人質にとって、」阿倍野は表情を変えなかったが、驚いていた。千場らしくないと思ったのだ。暴力をふるうのも、人質を取るのも。「逃げたってどこに?」
嘉平は首を横に振る。「分からない、空に飛んで行ったからね、でも、美作が追っているはず、狂ったようにここから飛び出して行ったから、」嘉平は新田に視線を変えた。「私たちも必死で止めたんです、一人で行ってどうにかなるもんじゃないでしょうに、人質を取られているんだから、ピストルも持っている、とても危険です、でも、美作は『悪魔になってでも奪い返してやる』ってそんなことをゾッとするようなことを険しい表情で言って、私たちの制止を振り切って飛び出して行ったんです、警報機を鳴らしたのはきっと美作ですね、廊下の警報機のボタンを覆うガラスに鋼のナイフが刺さっていました」
それを聞いて新田は大きく息を吐いて呟く。「……バカ」




