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彼岸花の香り  作者: 桜鬼
30/48

私の見る先に 1

翌朝――


朝の光が宿の窓から差し込み、紗凪は薄い掛け布を払いながら、ロゼリオの寝顔を見つめていた。


彼の瞳は閉じられ、昨夜までの妖しく蠱惑的な笑みも、今は穏やかで静かなものに変わっている。




(⋯⋯行かなきゃ)




心の中で何度も繰り返した。


けれど、その決意は、彼の顔を見るたびに少しずつ揺らいでいく。


それでも、今日しかないのだ。




「ロゼリオ⋯⋯」


「⋯⋯もう、起きていますよ」




小さく告げた名に応えるように、ロゼリオが目を開いた。


翠の瞳がまっすぐ紗凪を射抜く。




「今日は、少し⋯⋯一人で動きたいの。考えたいことがあって」




心臓が跳ねる。


けれど、紗凪はまっすぐに言葉を続けた。




「⋯⋯一人にしてもらえる?」




沈黙が、二人の間を包んだ。


ロゼリオはほんの一瞬、視線をそらし――そしてゆるく微笑む。




「なるほど。そういう日もありますね」




彼はそれ以上、何も問わなかった。


――だがその手は、ベッドの陰でそっと動いていた。


見えないように、細く、小さな蔦が一筋。紗凪のブーツの縁へ忍ばせられる。


彼女が気づかぬうちに、それは静かに肌へと触れて絡みついた。


 






 


宿を出てすぐ、紗凪は神殿周辺の通りで情報を集め始めた。


神聖なる森――その名を口にすると、意外にも町の人々はあっさりと場所を教えてくれた。




「この国の北端すぐの森のことじゃよ。神殿の巫女が時折、儀式をするそうじゃ」


「月と泉が重なる日? それなら今日じゃ。今夜の月は満月だからね」



(⋯⋯今日なんだ)




心臓が高鳴る。

紗凪は急いで日記の記憶を思い返した。




 “月と泉が重なる時、異界の道が開かれる”




それが本当なら、今日がその“扉”の開く日。


もう、迷っている時間はない。

時計代わりの影の角度で、昼が近いことを知る。今から森に行けば、きっと間に合う。




(⋯ロゼリオ⋯⋯)




彼の顔が脳裏に浮かぶ。


これまで何度も助けてくれたこと。優しい声、危うい笑み、触れられた時の心臓の鼓動。




(⋯もし、帰ったら、もう会えない)




彼は、自分のことをどう思っているのだろう。あの夜の熱も、あの朝の笑顔も、すべて夢だったのかもしれない――




「⋯⋯でも、帰りたいって、思ってたじゃん。私⋯⋯」




誰に言うでもなく、つぶやいた言葉が風に消える。



帰りたい。帰れるなら、元の世界へ。



そう願っていたはずなのに、今はその選択が、胸の奥に爪を立ててくる。




(じゃあ、なんでこんなに苦しいの?)




それでも、足は止まらなかった。



紗凪は口元をきゅっと引き結び、神聖なる森へと向かって歩き出した。


空は青く晴れ渡り、陽光がまぶしいほどに道を照らしている。


けれど、その背後では――


黒衣の男が、静かにその姿を見つめていた。


 






 


「⋯⋯そう、行ってしまわれましたか」


ロゼリオは人目を避けた屋根の影から、紗凪の後ろ姿を見つめていた。


その目は、どこか悲しげで、どこか冷ややかだった。




「せめて⋯⋯一言、相談してくれてもよかったのに」




指先を掲げると、微細な蔦が空気に紛れるように揺れる。


その先には、紗凪の体に忍ばせた“監視の蔦”が、彼女の鼓動を伝えていた。


それが確かに生きていることを、まだロゼリオのそばにあることを告げている。




「⋯⋯追いましょう。私の“蔦姫つたひめ”が、どこへ行くつもりなのか」




ロゼリオは黒い外套の裾を翻すと、音もなく石畳の道を踏み出した。


その瞳に、迷いはなかった。


 





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