私の見る先に 1
翌朝――
朝の光が宿の窓から差し込み、紗凪は薄い掛け布を払いながら、ロゼリオの寝顔を見つめていた。
彼の瞳は閉じられ、昨夜までの妖しく蠱惑的な笑みも、今は穏やかで静かなものに変わっている。
(⋯⋯行かなきゃ)
心の中で何度も繰り返した。
けれど、その決意は、彼の顔を見るたびに少しずつ揺らいでいく。
それでも、今日しかないのだ。
「ロゼリオ⋯⋯」
「⋯⋯もう、起きていますよ」
小さく告げた名に応えるように、ロゼリオが目を開いた。
翠の瞳がまっすぐ紗凪を射抜く。
「今日は、少し⋯⋯一人で動きたいの。考えたいことがあって」
心臓が跳ねる。
けれど、紗凪はまっすぐに言葉を続けた。
「⋯⋯一人にしてもらえる?」
沈黙が、二人の間を包んだ。
ロゼリオはほんの一瞬、視線をそらし――そしてゆるく微笑む。
「なるほど。そういう日もありますね」
彼はそれ以上、何も問わなかった。
――だがその手は、ベッドの陰でそっと動いていた。
見えないように、細く、小さな蔦が一筋。紗凪のブーツの縁へ忍ばせられる。
彼女が気づかぬうちに、それは静かに肌へと触れて絡みついた。
宿を出てすぐ、紗凪は神殿周辺の通りで情報を集め始めた。
神聖なる森――その名を口にすると、意外にも町の人々はあっさりと場所を教えてくれた。
「この国の北端すぐの森のことじゃよ。神殿の巫女が時折、儀式をするそうじゃ」
「月と泉が重なる日? それなら今日じゃ。今夜の月は満月だからね」
(⋯⋯今日なんだ)
心臓が高鳴る。
紗凪は急いで日記の記憶を思い返した。
“月と泉が重なる時、異界の道が開かれる”
それが本当なら、今日がその“扉”の開く日。
もう、迷っている時間はない。
時計代わりの影の角度で、昼が近いことを知る。今から森に行けば、きっと間に合う。
(⋯ロゼリオ⋯⋯)
彼の顔が脳裏に浮かぶ。
これまで何度も助けてくれたこと。優しい声、危うい笑み、触れられた時の心臓の鼓動。
(⋯もし、帰ったら、もう会えない)
彼は、自分のことをどう思っているのだろう。あの夜の熱も、あの朝の笑顔も、すべて夢だったのかもしれない――
「⋯⋯でも、帰りたいって、思ってたじゃん。私⋯⋯」
誰に言うでもなく、つぶやいた言葉が風に消える。
帰りたい。帰れるなら、元の世界へ。
そう願っていたはずなのに、今はその選択が、胸の奥に爪を立ててくる。
(じゃあ、なんでこんなに苦しいの?)
それでも、足は止まらなかった。
紗凪は口元をきゅっと引き結び、神聖なる森へと向かって歩き出した。
空は青く晴れ渡り、陽光がまぶしいほどに道を照らしている。
けれど、その背後では――
黒衣の男が、静かにその姿を見つめていた。
「⋯⋯そう、行ってしまわれましたか」
ロゼリオは人目を避けた屋根の影から、紗凪の後ろ姿を見つめていた。
その目は、どこか悲しげで、どこか冷ややかだった。
「せめて⋯⋯一言、相談してくれてもよかったのに」
指先を掲げると、微細な蔦が空気に紛れるように揺れる。
その先には、紗凪の体に忍ばせた“監視の蔦”が、彼女の鼓動を伝えていた。
それが確かに生きていることを、まだロゼリオのそばにあることを告げている。
「⋯⋯追いましょう。私の“蔦姫”が、どこへ行くつもりなのか」
ロゼリオは黒い外套の裾を翻すと、音もなく石畳の道を踏み出した。
その瞳に、迷いはなかった。




