禍つ霧 2
ぽつ、ぽつ、と小雨が葉を叩く。
森の外れに張った簡易テントの中で、紗凪はうつむいたまま膝を抱えていた。
「ロゼリオ⋯⋯ごめんね⋯⋯」
視界が歪む。涙をこらえているのに、頬が熱く濡れていく。
あの霧さえなければ。
あの時、私が近づかなければ――彼の腕は、枯れることなんてなかった。
「紗凪さん」
穏やかな声に顔を上げると、彼はいつものように微笑んでいた。枯れた腕をもう片方の手でそっと押さえながら。
「大丈夫ですよ。私の身体は植物ですから。すぐに、元通りに⋯⋯」
そう言ったロゼリオだったが、その言葉の最後はかすれ、続かなかった。
右腕は未だに乾いたまま、かすかにひび割れた状態のまま。
紗凪の胸に、新たな不安がよぎる。
「⋯⋯戻って、ないじゃない」
ぽつりと呟くと、ロゼリオは困ったように笑みを薄くする。
「⋯⋯少し、栄養が足りないようでして」
「栄養って⋯どうやったら⋯⋯?
どうしたら、治るの?」
紗凪は身を乗り出した。
「お願い。どうすれば⋯⋯。
私、何でもする。あたしのせいで、こうなったんだから……!」
その必死な瞳に、ロゼリオの緑の瞳がぎらりと揺れた。
その瞬間、彼の唇が弧を描く。
「⋯⋯では、お言葉に甘えて」
少し、意地悪な声音だった。
「僕に⋯⋯キスをください。紗凪さん」
「えっ」
その言葉に、紗凪の心臓が一気に跳ねた。
「き、キスで⋯⋯治るの?」
「僕は植物ですからね。口移しの栄養、というのも効果的なんですよ。特に、“深い”やつが」
冗談めかして言ったロゼリオの表情は、どこか妖しくも魅惑的だった。
紗凪は口をぱくぱくと動かし、顔を真っ赤に染めた。
「そ、そんな、ディープって⋯⋯!
で、でも⋯⋯ほんとに、治るの?」
「少なくとも、試す価値はあります」
その一言に、紗凪はぎゅっと目をつむる。
心は混乱していた。
恥ずかしい。でも、彼の腕をこのままにはしたくない。
あのとき、自分を守ってくれた。
今度は、自分が彼を救いたい。
「⋯⋯わ、わかった⋯⋯やる、よ」
「ふふ。では、いただきますね」
ロゼリオがそっと近づいてきた。静かに距離が縮まり、唇と唇が重なる。
最初は柔らかく、戸惑いがちだった。
けれど、ロゼリオは彼女の首に手を添え、さらに深く吸い寄せるように唇を押し当てる。
唇の内側を優しくなぞる舌。
「⋯⋯ん⋯⋯っ」
思わず洩れる声に、自分で自分が驚く。
——こんなキス、したことない。
息が苦しくなるほど、深く、熱く、甘い――。
ロゼリオの身体から放たれる、どこか甘く妖艶な香りに意識が溶かされそうになる。
――このまま、もっと先にいってしまいそうで。
「⋯⋯ちょ、ちょっと、待って!」
慌ててロゼリオを押し返す。
はあ、と荒く息を吐いて、紗凪は顔を真っ赤にして彼を見つめた。
「こ、これって⋯⋯本当に⋯⋯キスだけでよかったんでしょ⋯⋯?」
ロゼリオは肩をすくめて小さく笑った。
「もちろん。でも、続きを求めるなら、いつでも⋯⋯」
「ば、バカっ!」
思わず膝でロゼリオを小突いた。
それでも、彼の表情は満足そうだった。
――そんな彼の腕に、ふと目をやる。
「あ⋯⋯!」
枯れていた右腕が、いつの間にか元通りになっていた。
緑が瑞々しく、命の気配を湛えている。
「治って⋯⋯る⋯⋯」
紗凪は言葉を失った。
あのキスで、本当に⋯⋯?
ロゼリオは笑ってその腕を紗凪に見せながら、囁くように言った。
「あなたからもらった命の味⋯⋯なかなか甘美でしたよ」
「っ、し、知らない!」
恥ずかしさに耐えきれず、紗凪は思わず背を向けて顔を覆った。
胸の鼓動はまだ収まらない。
頭がぐるぐると回っているのに、どこか嬉しいと思ってしまう自分がいた。
翌朝。
森を抜けた紗凪とロゼリオは、小高い丘の上に立っていた。
風が木々を揺らし、遠くに街の影が見える。
ロゼリオは言った。
「次は、街で補給と情報収集をして⋯⋯また旅を続けましょう」
それを聞いた紗凪は、ほんのり頬を赤らめながらうなずく。
あのキスを思い出し、胸がきゅっとなった。
でも――もう、彼の腕は無事だ。
それだけで、嬉しかった。




