森のクマさん 1
深い森の静寂を引き裂くように、乾いた枝の折れる音が響いた。
ロゼリオは即座に立ち止まり、腕を広げて紗凪を庇うように前に出る。
「⋯⋯来ます。紗凪さん、後ろに」
その声と同時に、木々の間から巨大な影が姿を現した。黒褐色の体毛に覆われた、それは――
「ク、クマ!? ちがう⋯⋯何か変!?」
それは明らかにただの熊ではなかった。全身が筋肉に膨れ上がり、牙は剣のように長い。目は血走り、泡混じりの唸り声を上げて地面を踏み鳴らす。
「肉食型の魔物――《グリズリーファング》です。力任せのタイプですが、油断すれば骨ごと噛み砕かれる」
「うそ⋯⋯っ、逃げ――」
「逃げても追いつかれます。ここで抑えますよ」
その瞬間、ロゼリオの背から赤黒いツタが一斉に生え広がり、地面に叩きつけられるように伸びた。
魔物の前足に絡みつくと、重い巨体を力任せに引き倒そうとする。
グリズリーファングは唸りを上げ、ツタを引きちぎりながら突進。ロゼリオは体を横に反らし、一本のツタを鞭のように振るって顔面を打つ。
「ぐぉおおおっ!!」
怒り狂った獣は、咆哮と共に腕を振り上げ、ロゼリオへ向かって全体重をかけて叩きつけてきた。
「っ、ぐ⋯⋯!」
ガッと鈍い音が鳴る。
ロゼリオは間一髪でツタを盾にし攻撃を受け止めるが、膝をつき、肩口を深く裂かれていた。
「ロゼリオ⋯⋯っ!!」
紗凪の叫びと同時に、グリズリーファングが再び突進。ロゼリオは苦痛に顔を歪めながら、全身の力を振り絞ってツタを噴き上げる。
「――喰らいなさい、《ブラッドバイン・ラッシュ》」
赤黒い蔦の束が無数に交差し、まるで罠のように魔物の四肢を拘束する。
そして、その中心へ無数の棘が一斉に突き立つ。
重々しい音と共に、巨体が崩れ落ちた。
森の空気が、一瞬にして静寂を取り戻す。
ロゼリオはその場に膝をつき、肩を押さえながら荒く息をついていた。
そこへ駆け寄った紗凪が、その傷に手を伸ばす。
「まって、血⋯⋯すごい⋯⋯!
止めなきゃ⋯⋯!」
「⋯⋯大丈夫。深くはないですが⋯⋯少し動きすぎましたね」
それでも、肩の裂傷からは赤黒い液が滲み出ていた。それが本当に「血」なのかもわからない。でも、放っておけるわけがなかった。
「⋯⋯わたし、魔法が使えたら⋯⋯ロゼリオを助けられるのに」
その一言は、彼女の心から自然と溢れた願いだった。
すると次の瞬間、紗凪の指先が仄かに光を帯びた。
眩しすぎない、温かな緑色の光。それは、ロゼリオの肩に触れた瞬間、じんわりと溶けるように染み込み――
「っ⋯⋯これは⋯⋯?」
傷口がみるみるうちに塞がっていくのを、二人は言葉を失って見つめた。
「⋯⋯治った⋯⋯!?
え、ちょ、なんで? わたし、なんにもしてないのに⋯⋯!」
紗凪が慌てて手を引っ込めると、光は消えた。だが、肩の傷はもう跡形もなかった。
「⋯⋯驚きました。紗凪さん、癒しの魔法が使えたのですね」
「え⋯⋯でも、教わってないよ⋯⋯!?」
ロゼリオは静かに目を細めた。
「推測ですが⋯⋯貴女は、聖女と共に召喚された存在。
彼女の力に触れたことで、魔力の器に変化が生じたのかもしれません」
「⋯⋯じゃあ、わたし⋯⋯この世界で、魔法が使えるようになったってこと?」
呆然と呟く紗凪。しかし、その顔には戸惑いよりも、ほんの少しの安堵が滲んでいた。
「よかった⋯⋯ロゼリオに、少しでも力になれるなら⋯⋯」
その言葉に、ロゼリオは僅かに目を伏せて、笑う。
「⋯⋯心強い限りです。これからは、ますます貴女を大事にしないと」
冗談めかしたその声に、紗凪はふと息を呑んだ。照れるように顔を背けながら、小さく呟く。
「も、もう⋯⋯そういうの、いきなり言うの禁止⋯⋯」
風が木々を揺らし、葉擦れの音が静かに耳をくすぐった。森の奥はまだ続いている。
だが、二人の間に広がる距離は、少しずつ、確かに縮まり始めていた。




