(6)乱れる心
学校から家に戻った私は、真っすぐに自分の部屋に入って、荒々しくドアを閉めた。
崩れるようにベッドに倒れこむ。
(あー、もうっ!)
無性にイライラする。いや、むしゃくしゃするのだ。
心が激しく波打っている。
(あいつ、いったいなんなのよ。)
同じクラスで、隣の席の柳瀬光希だ。
とにかく、覇気がない。
いつもボーッとしている。
(だけど…あの構えは…)
彼は私の前で、刀を構えた。
まるで隙がない。
どこにも力が入っていない、偏りがない。
自然体。
「やってみなさいよ。」
私は彼にそう言った。
彼が亜悠の演技にケチをつけたからだ。
(ちがう、ケチじゃない…)
ほんとはわかってる。
あの場面は、忍者同士のいわば誇りを賭けた戦いだ。
葛葉の打ちこみに、佐助が背を向けるわけがない。
「柳瀬君が言い出したんだから、まず手本を見せてよ。」
私は挑発した。彼を。
『争わず、和する』という合気道の理念からすれば、してはいけないことだった。
(なのに、あいつ…)
彼は挑発に乗ったのではなかった。
手本を見せろと言われたので見せます、といった態度だった。
平常心、というのだろう。
さざ波のような揺らぎさえも、彼の顔には浮かばなかった。
力が入っているわけでもないのに、隙のない構え。
まるで剣の達人のような。
あの瞬間、私はたしかに脅えていた。
斬られる、と思ったから。
合気道の心の世界は、「和」と「愛」だと、幼い頃から叩きこまれてきた。
争わない心、相手を尊重する精神、ということだ。
「気・心・体」とも言う。
心が乱れては、正しい力が発揮できない。
だから力で対抗するのではなく、柔軟に対応できる和合の心を持たねばならない。
(羨ましかった、のかな。)
目の前に、まるでそれを体現するような人間が立っていた。
「じゃあ、行くね。」
そう言って振られた彼の剣は「会話」だった。
私の受けの動作に対応して、和する心で振られた刀だった。
私は――逆上した。
(斬るっ!)
その間合いに入っていたのだ。
子どもの頃から、何千回と木刀を振ってきた。
人を斬る剣ではない。
体の流れを知り、合気道の技に活かすための稽古だ。
それでも、自信があった。
一本目、右上からの斜め斬り。
彼の肩を捉えた、と確信した。
しかし、刀は彼の体を素通りした。
あたかも虚像に斬りつけたような感覚だった。
迷わず、刀を返した。
体当たりをするように、大きく踏みこんだ。
軸足を地球にめりこませるように、刃先に力をこめた。
左下段からの斬り上げ。
竹光であっても、鋭さがあればかなりの痛みを与えられる。
(当たったっ!)
しかし、またしても刀は空を切った。
彼が舞い上がったからだ。
重力の法則を無視したように、彼は飛んだ。
「えっ」
信じられなかった。
「絶対当たったと思ったのに…」
私はそう呟いていた。
(あいつ…!)
期待していたわけじゃないけど、あれだけの斬撃を目の当たりにしたのだから、
「あぶなっ!」
とか、
「殺す気かっ!」
とか、そんな反応があってもいい。
なのに――彼は私を無視した。
私ではなく、亜悠に視線を向けたんだ。
「えっと、こんな感じだけど。」
そんなことを言っていた。
(なんなの、あいつ!なんなの!)
この苛立ちはなんだろう。
悔しさでもない。
憎しみでもない。
敗北感はあるけれど、そんなことはどうでもいい。
(気になる…とにかく、気になる…!)
あの強さはなんだろう。
あの心の持ちようは、精神の源泉はどこにあるのだろう。
武道も格闘技も、彼は「やってないよ」と言った。
(嘘よ、ぜったい嘘…!)
普通の人間にできることじゃない。
「どうしてよっ!」
拳で枕を叩いた。
私は何を怒っているのだろう。
なぜ、私の目から涙が出ているのだろう。
わからないことだらけで、頭の中はぐちゃぐちゃだ。
「早島さんがきれいでした。」
昨日、班室での通し稽古が終わった後、感想を聞かれた彼はそう言った。
(ちょっぴりドキッとした私がバカだったわ…)
どうせ、殺陣の動きのことを言ったんでしょ。
(ほんとは…そっちのほうが嬉しいけど…)
一瞬、そんなことを思った自分にビックリして、私はガバッと身を起こした。
「いいわ。突き止めてやる。」
彼は何かを隠している。
その「何か」の中に、きっと答えがある。
私が求める、合気道の「真の理合」のヒントが、素材が、きっとある。
(そうよ、少し驚いているだけよ。)
私は、「気・心・体」を自分以上に理解できる人が同級生にいるとは思っていなかった。
心のどこかで、優越感を持っていたのかもしれない。
だって、みんなフワフワと浮き上がるような歩き方をして、ちょっと突けば倒れそうな人ばかり。
腕力や体重にモノを言わせて、自分は強いと思っているような男子に興味は湧かなかった。
亜悠はそんな私を「男嫌い」なんて言うけれど、少し理想が高くて、好みがちょっぴり偏っているだけ。
私の精神世界に追いついて来れる男子なんていないだろうな、と思いこんでいただけだ。
(別に、あいつがそうだってわけじゃないからね。)
隣の席の柳瀬君のことは、つい最近まで何も知らなかった。
今も全然わからないけど。
サッカー部の杉元君が、教室でふざけていて、柳瀬君に倒れかかった時だった。
あれはたしか…
(まだ一週間しか経ってないじゃない!)
先週の水曜日のことだ。
走ってきた杉元君が、私の机の角に腰をぶつけて、それでよろけて、柳瀬君のほうに倒れていった。
(あぶない!)
手を差し伸べる余裕すらなかった。
大柄な杉元君が突っ込んでいったら、細っこい柳瀬君はひとたまりもない。
そう思った。
例えば、咄嗟に腕を突っ張って受け止めたら、骨折するか、捻挫をするか。
例えば、体を縮こませてしまったら、どこにどんな衝撃を受けるかわからない。
もちろん、突っ込んでいった杉元君だって無事ではすまなかったはずだ。
なのに、彼はまるで回転受け身のように、杉元君の勢いを回転運動に転換して、さらりと受け止めた。
杉元君が何事もなかったかのように再び走り出したのが何よりの証拠だ。
あの時は、偶然だと思った。
柳瀬君に独特のセンスがあって、奇跡が起こったのだと思ったし、そう思いたかった。
「合気道、やらない?」
私はたしか、そう言った。
いつも大人しい柳瀬君が、意外にはっきりとした受け答えをして、ごく普通に会話をした。
その時は断られたから、私は翌日、二重の罠を準備して学校に行った。
一つ目は、合気道同好会の勧誘動画。
合気道の型や技、受け身に触れる機会を作る作戦だった。
断られたけど、二つ目の作戦を持っていた。
それが、演劇班の公演の手伝いを頼むことだった。
「まあ、材木切るくらいならできるよ。」
と、彼は引き受けてくれた。
私の技や動きを見れば、柳瀬君なら何か感じるところがあるはず、合気道に興味を持つはず、と考えていた。
(それなのに…)
そう、それなのに、彼は私の動きを「きれい」の一言で片づけた。
(そうよ、ドキッとしてる場合じゃなかった。私は片づけられたのよ。)
ああ、また腹が立ってきた。
彼の秘密を暴いて、対策を立てて、次は絶対にやっつけてやるんだから。
(やっつける…?)
どういう状況になったら彼をやっつけたことになるのだろう。
(やっぱり今日はどうかしてるわ、私。)
心が乱れている時は、無理に頭や体を使わず、まずは平静な心を取り戻す、だったわよね。
やっぱり私の心の拠りどころは合気道なんだと、あらためて思った。
「…ふぅ。」
まずは落ち着かないと。
私は熱めのシャワーでも浴びて、汗と一緒にこのモヤモヤを洗い流すことにした。




