第百七話 おでん鍋の中の世界
「侮るな。私は誰の影響も受けないわ」
「お、おう……」
わざわざ空き教室に呼び出して問いただした俺に対し、まさに一蹴。
というより、「それだけ?」とでもいうような、あっけらかんな態度だ。
愛にとって、俺達の絶対とも言える価値観は、些末なものらしい。
「そもそも、あなた達は少し優しすぎるのよ」
「はい?」
「確固たる自分さえあれば、影響なんてされないものよ」
「そんなもんなの……いやいや、そんなことなくね? だって、ルールは守らなきゃじゃん」
一瞬流されかけたが、精神論で片付けられては困る。
「ルールねえ……私もこの世界に来る前は、この世界なりのルールがあるのだと思っていたわ。あなたの話とあなたの内心しか情報がなかったから、そう勘違いするのも仕方ないのだけどね」
「ん? てことは、今はどうなんだ?」
「この世界のルールだと信じていることは、実際には世界から強制されているわけじゃないわ。あなた達自身が、そうするのが当然だと思っているだけよ」
そんな軽々しく言われても……えっ、マジでどういうこと?
「言ってみれば……そうね。分かりやすくするために、あえて誇張して言うわ。あなた達はこの世界に生を受けてから、高校を卒業するまでの間、ずっと視線に晒され続けているわ」
「視線? 誰から?」
「妄想主よ。それも、生まれてから高校を卒業するまでずーっと。とりあえずでいいから、一度そう考えてみて」
「ほんほん」
ずっと監視されている。そう考えると……うむ、それこそ、なるべく妄想主にとっていいように見られようとするだろ。
後は、悪事とか不作法は思いとどまるだろうな。
とにかく妄想主が求めるような、規律のいい男に自然と成長していきそうだ。
「この“見られている感”が、泰平や他の男が引き立て役であることをルールだと誤認している正体よ」
ほんほんほん。
「えっと、つまり、妄想主の目による抑止力とか、同調圧力とかを、俺達はルールだと勘違いしてるってことか?」
「十中八九そうじゃないかしら」
咄嗟に否定の言葉が出なかったのは、愛の目が自信に溢れているからだ。
俺自身もその仮説に、どこかしっくりきてしまっていた。
ただ、全てにしっくり来たわけではない。引っかかる部分もある。こういう時は、俺なりに噛み砕いて理解するのがいいだろう。
経験則的には、実際に自分の行動の全てを認識されているわけではないことは分かる。一人ひとりを監視することなども絶対にされていないはず。
それでも“見られている”ということにしっくりきたということは……
「世界全体にうっすらと視線が行き届いている。それを俺達は過剰に感じてしまっている。それくらいの認識が一番しっくりくるかなあ」
あくまで世界全体をぼんやり眺めている程度。
俺達一人ひとりを見ているわけじゃない。けれど、世界にいる以上、その視線の外にいるわけでもない。
愛の仮説と俺の感覚を合わせると、それが一番しっくりくるな。
「ただし、これはあくまでたとえの話よ。真実はもう少し難しい話になるもの」
「……一応触りだけでも聞いていい?」
「できる限り分かりやすく説明してみるわね」
その前置きがある時点で、「俺には理解できないんだろうなあ……」と、うっすら思っていた。
とりあえず気合を入れて、しっかり耳を傾ける。
「まず、この世界の住人たちは、世界全体に染み出した妄想主の深層心理を、無意識のうちに鋭敏に感じ取っているわ。
それは誰かの声が聞こえるとか、命令が頭に響くといった明確なものではない。何が好ましく、何が望ましくないのか。どう振る舞うのが自然なのか。そうした感覚に、妄想主の願望や価値観が影響している。
住人たちは自分の意思で考え、感じ、行動している。しかし、その判断の土台となる感覚が、知らず知らずのうちに妄想主の深層心理に寄っている。
そのため、住人たちは妄想主に命令されているわけでもないのに、自然とその理想に沿った振る舞いをするようになる。そして、それを自分たちの常識や、当たり前の感情として認識していくの。
けれど、一ノ瀬翼だけは別……いや、特別という方が正しいわね。
世界の成り立ちに深く関わる極めて特殊な存在でありながら、本人はそれを自覚せず、どこにでもいる普通の男の子として生きているの」
ほんほん、ほんほんほんほんほん。
長かったけど、そこまで難しい話はしていなかったか?
ただ、それで理解できたかと言うと、また別な話なのだが。長いというのは、それだけで難しいからなあ。
「なるほど。要は俺達はおでんの大根、愛がこんにゃくってことだな!」
「どうしてそうなった」
愛が思わずツッコむほど、俺の返答が意外だったらしい。
「だってさ。妄想主の深層心理という出汁で煮込まれて、しみっしみになってるってことだろ? でも、愛はこんにゃくみたいになかなか出汁が染み込まない。これ、間違ってなくね?」
なるほどなあ。ここはおでんの鍋の中の世界だったのか。納得納得。
「……あんたがそれでいいのなら、もうそれでいいわ」
何故か大きくため息を吐かれてしまった。
「じゃあさ、案外俺達って自由に恋愛していいの?」
ルールなんてないのなら、強制力がないということ。
「それはやめておいたほうがいいわね」
「あらら、それはそうなるのな。それはなんで?」
「ふむ、そうねえ。一度、私が例えた視線の話に戻るわね」
こほんと咳払いしたのち、愛は続ける。
「妄想主は一ノ瀬翼を通さなければ、個人のことなんて一々認識していないわ。さらに、強制力なんてものもない。だからこそ、基本は何をしたって大丈夫」
「ほんほん」
「ただし、一点だけ目を光らせていることもあるわ。それはある種、妄想主の逆鱗と言っていいものね」
「ある逆鱗?」
「それはね……」
ここでたっぷり間を溜めたかと思えば、ゆっくり俺の耳元に顔を寄せた。
「愛を囁き合いながら、身体の関係を持つこと」
吐息たっぷりの甘い声で囁いたかと思えば、ついでに俺の耳たぶをはむりと軽くかじってきた。
パチリと脳みその奥で火花が弾けるような快感が駆け巡る。
「おまっ、はむはむは余計だろ!」
「っふふ、あなたのことが大好きな女による、ちょっとした茶目っ気じゃない。これくらいで許しなさい」
くっそ、生えているくせに、やけに色っぽい目で上目遣いしやがってよお。
どう考えても女にしか見えねー。
てか、可愛いんだけど。男ってことに囚われていたせいで気づかなかったが、こいつ、他のクラスメイトと同じくらいには可愛いんだけど。
やべえ、なにかに目覚めそうだ。一度深呼吸して、気をしっかり保たなきゃ。
「私は男でも女でもあるからより強く感じるのだろうけれど……高校を卒業するまでの間に女が非処女になってしまったら、一撃でバレるわね。それはもう、確実にね」
「……そんなにチェックが厳しいの?」
「ええ、これはもはや、“非処女アレルギー”と診断してもいいほどね。非処女というだけで、この世界は自然と拒否反応を起こすはずよ」
「へえー。毒物レベルで穴の空いたこんにゃくが嫌いなんだなあ」
「……もうそれでいいわ」
俺は男だから、そういった感覚はない。女性特有のものだろうな。愛が女性なのかはさておいて。
「だからこそ、これに関してだけは厳格なルールと認識しておきなさい。絶対に破っちゃダメよ」
「それはどうし……ああ、分かった」
妄想主が俺達をどうこうしたりはできない。
ただ、妄想主の価値観そのものが、この世界の土台になっている。そんな世界で、明確に拒否反応なんて起こされたらどうなるか。
――おそらく、世界がアウェイとなる。
特に、主人公君には確実に受け入れられない。その時点で、もう……
「うわぁ、こえー」
その女性にとって、様々な悪い未来が起こり得ることを想像してしまい、思わず身震いした。
誰かが罰を下しているわけではないのに、最悪の未来しか想像できない。
「それが分かっているから、みんなそのルールだけは破らないのよ」
「なるほどなあ」
しみじみ呟いた。
さて、そろそろ次の授業の時間だ。
主人公君とはどういう存在なのか、この世界の成り立ちなど、愛が知っていそうで俺が曖昧な理解しか追いついていなさそうな部分はあれど、これは後々聞けばいいだろう。
廊下を歩きながら、気楽な雑談に励む。
「にしても、非処女がヒロインである資格がなくなるなんて古い考えよね。ほんと、妄想主は面倒くさいオタクねえ」
「いやぁ……あはは」
愛は、俺が今まで心のどこかでほんの少し思っていたが、それでも言わなかった事実をズバッと言い切った。
ちょっとだけそう思ってはいたけどさあ。いいとこもいっぱいあるんだから、そこまで言ってやるなよ。
「(それ、絶対直接言ってやるなよ。妄想主はめちゃくちゃ繊細でもあるんだからな。ガラスのハートの持ち主で、直接言われたことは何日も何日も引きずるタイプだから。そういう部分だけはクソめんどくせえんだから)」
「あなたのほうがひどいこと言ってない?」




