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かみがきないね ― 加美鳴村異聞 ―  作者: 泰平紋太郎


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第肆願 面影

その日の夕食は静かだった。


祖父の家には、もう母と未咲と俺しかいない。


食卓には、昼の煮物と卵焼き、味噌汁が並んでいた。


「未咲ちゃん、今日はホンマありがとうね」


「そんな大したことしてないですよ」


「何言うてんの。朝からずっと手伝ってくれたやん」


「おじいちゃんには、ずっとお世話になってましたし」


未咲は笑った。


俺よりも、未咲の方が祖父のことを知っている。


母とも気軽に話し、台所にも迷わず入っていく。


慣れてる。


……いや。


慣れているというより。


俺より、この家のことを知っている。


そう思ったところで、箸を持つ手が止まった。


「そういえば未咲、家はええん?」


未咲は顔をこちらに向けた。


「え?」


「いや、晩飯まで食べて帰って大丈夫なんかなって」


「ああ、大丈夫よ」


「お母さんにはもう連絡してあるし」


「そうなんや。家、近いん?」


「近いよ。歩いて二分くらい」


「めっちゃ近いな」


「ほんまに何も覚えてへんなぁ」


未咲は笑った。


でも、すぐにその笑顔は消えた。


「そうや」


母が箸を止めた。


「お母さん、明日は一旦市内に戻るわ」


「そうなん?」


「うん。色々やる事もあるしな」


祖父の葬儀は終わった。


忌引きも、いつまでも続くものではない。


「あんたはどうするん」


「大阪帰るんか?」


最初はそのつもりだった。


……でも、今は。


「どうしよかな。まだ決めてへん」


「……そうか」


母は箸を動かす。


その向かいで、未咲は黙って味噌汁を飲んでいた。


しばらく、茶碗の音だけが続いた。


母も、未咲も、それ以上は聞いてこなかった。


口をつけた味噌汁は、少し冷めていた。


食事を終えた後、未咲は空いた茶碗を流しへ運んでいた。


「ああ、未咲ちゃん置いといてええよ」


「いえいえ、これくらいは」


未咲は慣れた様子で蛇口をひねった。


俺も自分の茶碗を持って立ち上がる。


「貸して」


「え?」


「俺のくらい自分でやるよ」


「あ、珍し」


未咲がにやっと笑う。


「恒ちゃん、自分で片付けんねや」


「どういう意味や」


「昔は食べたらほったらかしやったけどな」


母まで吹き出した。


「ふふっ、ホンマや」


「未咲ちゃんになんべん片付けてもろてたか」


「そんなん覚えてへんわ」


二人が顔を見合わせて笑っている。


……なんだか小馬鹿にされている気がする。


そうして食器を片付け終えると、未咲は台所を軽く拭いていた。


そこまでやってくれるのか。


……俺は何もしてないのに。


そう思って見ていると、未咲が振り返る。


「恒ちゃん」


「ん?」


「明日も来るからね」


「え?」


未咲は一瞬きょとんとした。


「……あ」


「あはは。ごめん、普通に決めてもうてた」


「いや、助かるけど……」


「おじいちゃんの部屋、まだ片付いてへんやろ」


母はタオルで手を拭きながら、小さく頭を下げた。


「ごめんなぁ。助かるわ」


「じゃあ、また朝来ます」


未咲はエプロンを外し、玄関へ向かった。


俺も見送りに向かう。


外へ出ると、夜の空気は少し湿っていた。


門の向こうに続く道は、街灯に照らされてぼんやり白い。


「今日は色々ありがとうな」


「ううん。こっちこそ」


「こっちこそ?」


「うん」


「……でもさ」


未咲は一度、口を閉じた。


「ほんまに、なんも覚えてないんやね」


……俺は何か言おうとした。


でも。


「……ごめんな」


「なんで恒ちゃんが謝るんよ」


「いや、だって……」


未咲は笑った。


……話は終わり。


そう言われた気がした。


そして何も言わないまま、門の方へ向かう。


数歩進んだところで、未咲が振り返る。


「なぁ恒ちゃん」


「ん?」


「寝坊したらあかんで」


「せえへんよ」


「ホンマに?」


「ホンマや」


「ふーん。ならええけど」


未咲はにっこりと笑った。


その時だった。


街灯の灯りに照らされた未咲に、不意に目を奪われた。


あれ……?


心臓が鳴る。


初めて会った時も、美人だと思った。


でも。


今は違う。


綺麗だ。


……そう思った。


「あ、そうや」


「恒ちゃんが帰ってきてくれて、嬉しかったよ」


そう言って微笑んだ。


その笑顔が、眩しく見えた。


翌朝。


祖父の家はとても静かだった。


廊下を歩いても、人の声はほとんどしない。


仏間には祖父の遺影がある。


俺は遺影に近づき、線香に火をつけた。


「おはよう、じいちゃん」


……もちろん返事はない。


祖父との思い出は、まだほとんど思い出せない。


それでも。


昨日より少しだけ、祖父が近くに感じた。


みんなが話してくれた祖父の話が、少しずつ俺の中で繋がり始めていた。


静かな仏間には、線香の煙だけが揺れていた。


ふと、昨夜のことを思い出す。


──恒ちゃんが帰ってきてくれて、嬉しかったよ。


街灯の下で笑った、未咲の顔が目に浮かぶ。


その笑顔が、頭から離れない。


昨日会ったばかりのような気がする。


でも、未咲にとっては違う。


……今は考えても仕方ない。


思い出せないものは、思い出せない。


まずは祖父の部屋を片付ける方が先だ。


俺は立ち上がり、部屋へ向かう。


襖を開けると、畳と古い木の匂いが鼻をくすぐった。


六畳ほどの部屋。


窓際には陽の光で色褪せた座布団が重ねられ、壁際には古い本棚と箪笥が並んでいる。


文机の上には、農協の封筒や診察券、几帳面に輪ゴムで束ねられた新聞が置かれていた。


机の端へ置かれている老眼鏡が、今にも持ち主の帰りを待っているように見えた。


つい数日前まで祖父がここで暮らしていた。


そう思うと、部屋だけが取り残されたように静かだった。


俺は文机の前に腰を下ろした。


ふと、一枚の写真立てが目に留まった。


なぜか伏せられている。


俺はそれを手に取った。


写っているのは、若い夫婦と幼い子供。


しばらく見つめていて、ようやく気づいた。


男はどことなく俺に似ていた。


女は若い頃の母だろう。


「母さん」


「ん?」


「ちょっとこれ見て」


仏間で片付けをしていた母が顔を出す。


「これ、父さん?」


母は写真を見つめた。


「……そうや」


写真の中で、父は幼い俺を抱いていた。


父のことは覚えている。


けれど。


父とどこへ行ったか。


何を話したか。


それどころか、父の声すら思い出せなかった。


「……父さんのことさ」


「なんかよう覚えてへんねんな」


母は少し黙った。


「もう、だいぶ前のことやからな」


父が亡くなったのは十五年前だ。


頭では分かっている。


でも。


なのに、その十五年という長さが、薄っぺらく感じた。


「まだ片付けあるから手ぇ動かし」


母はそう言って、顔を引っ込めた。


俺はしばらく写真を見つめていた。


やがて静かに、元の場所へ戻した。


一通り片付け終え、残るは箪笥だけだった。


一番下の引き出しを開ける。


中には古い封筒や年賀状、黄ばんだ書類が重ねられていた。


その一番下に、薄いアルバムが一冊挟まっている。


そっと引き抜く。


表紙には手書きで、


『加美鳴村子ども会』


と書かれていた。


何気なくページをめくった。


川辺で泥だらけになった子供達が写っている。


その中に俺がいた。


……それは分かる。


だが、周りの子供達は誰だろう。


次のページをめくる。


また同じ顔ぶれが写っていた。


短い髪の女の子。


少し勝気そうな女の子。


丸顔の男の子。


どこか見覚えがある。


写真へ顔を近づける。


「あ……」


短い髪の女の子。


未咲によく似ていた。


勝気そうな女の子は、たぶん夏奈絵だ。


丸顔の男の子は大輝だろう。


別の写真には、神社の石段に並んで座る俺達がいた。


虫取り網を掲げる俺の横で、未咲がふくれっ面をしていた。


さらにページをめくる。


浴衣姿の子供達が並んでいる。


手には綿菓子。


俺は大輝の肩に腕を回している。


その横で夏奈絵が笑っていた。


……でも。


どれも見覚えがない。


まるで他人の思い出を見ているようだった。


胸の奥がざわつく。


父の記憶とは違う。


あれは十五年前の話だ。


けれど、これは違う。


俺は十四歳まで、この村にいたはずなのだ。


写真の中の俺は、笑っていた。


その笑顔にも、何の覚えもなかった。


未咲も。


夏奈絵も。


大輝も。


昨日会ったばかりの人間じゃない。


「……母さん」


「んー?」


仏間の方から母の声が返ってくる。


「俺、十四までここにおったんやろ?」


「そうや」


「でもさ、なんも覚えてへん」


写真へ視線を落としたまま呟く。


「……なんでなん?」


返事はなかった。


「母さん?」


………。


しばらくして。


「未咲ちゃん、今日も来るんやろ?」


「え?」


「お茶出さなあかんな」


「いや、そんな話──」


「恒一」


「はよ片付けしい」


母は、それ以上何も言わなかった。


襖の向こうから、ダンボールへ物を詰める音だけが聞こえていた。


「お邪魔しまーす」


玄関の方から未咲の声がした。


ガラガラと引き戸が開く音。


「おはようございまーす。美幸おばちゃん」


「おはよう未咲ちゃん」


仏間の方から母の声が返ってくる。


すぐに隣の襖が開き、未咲がひょこっと顔を覗かせた。


「お、ちゃんと起きてるやん」


「……当たり前や」


未咲はくすくすと笑った。


けれど、笑顔がふっと消える。


「どしたん?」


「え?」


「なんか難しい顔してる」


未咲の視線が、俺の手元に落ちる。


「あ、それ……」


「知ってるん?」


「うん」


「おじいちゃん、たまに見せてくれてん」


「『みんなよう一緒に遊んどったなぁ』って」


開かれたページには、子供の頃の俺達が写っていた。


未咲はアルバムを覗き込み、しばらく写真を見つめていた。


やがて、小さく俺を見た。


「……覚えてへんの?」


俺は黙ったまま頷いた。


未咲はそっとアルバムを閉じた。


その手が、表紙の上で少しだけ止まる。


「恒ちゃん」


「ん?」


「ちょっと外出よか」


「外?」


「ええ天気やし」


「ちょっと、村歩こか」


俺は返事に迷う。


「行ってきたら?」


仏間から母の声がした。


「……ええの?」


「片付けはぼちぼちでええから」


未咲が軽く頷く。


「ほないこ」


俺は未咲と一緒に玄関へ向かう。


外へ出ると、用水路を流れる水の音が聞こえた。


遠くでは草刈り機の音が響き、夏の匂いを含んだ風がゆっくりと吹き抜ける。


軒先では風鈴が小さく鳴っていた。


坂道を下りながら、未咲はふと立ち止まった。


「……ここ、覚えてる?」


俺は首を横に振った。


「そっか」


未咲はそれ以上、何も聞かなかった。


何か言いかけて。


やっぱり、やめた。


何とも言えない沈黙だけが続く。


話題を探そうと口を開きかけた、その時だった。


「恒ちゃん、仕事どうなん?」


「急やな」


「聞いてなかったから」


「まぁ、ぼちぼち」


「美幸おばちゃんから、なんとなくは聞いてたけど」


「エンジニアやっけ?」


「まぁ、そんな感じ」


「何してるん?」


「説明難しいな」


「へぇ、そうなん?」


「……簡単に言うと、パソコンとにらめっこして文句言う仕事」


未咲が吹き出した。


「あははっ!何それ〜」


「ほんまの事やで」


「ふふっ、恒ちゃんらしいね」


「どこがや」


「なんとなく~」


未咲はそう言って笑った。


俺も笑った。


いつの間にか、肩の力が抜けていた。


そして気付けば、高台を下りきった辺りまで来ていた。


目の前には田んぼが広がり、その向こうには役場や商店の屋根が見える。


「おーい!」


前の方から声がした。


坂を上ってくる夏奈絵が、大きく手を振っていた。


ゆるめの白いTシャツに細身のジーンズ。


スーパーの袋を揺らしながら、息ひとつ切らさず坂を登ってくる。


「え、二人で何してんの?」


「恒ちゃんに村案内してんの」


「ふ〜ん」


夏奈絵は意味ありげに二人を見比べた。


「……なるほどなぁ」


「何がよ?」


夏奈絵はにやりと口角を上げる。


「それってつまり、デートってことやね」


「相変わらずやね夏奈絵は」


「あ、否定せーへんねや」


「はいはい」


「否定せんわけやね〜」


夏奈絵はにやにやしながら笑っている。


「はい好きにして」


そのやり取りに、思わず俺は笑ってしまう。


「夏奈絵…は何してんの?」


「買い出し。昨日バタバタしとったからな」


袋の中には日用品がいくつか入っていた。


「なるほど」


「で、恒一は村案内されとるん?」


「まあ、そんな感じ」


「うちも混ぜてや」


「なんでや」


「え、暇やから」


「理由が雑い」


「ええやん〜」


「どうせ未咲だけやったら、恒ちゃん甘やかすやろ」


「えぇ〜?」


「だって未咲やん」


「甘やかしてないですぅ〜」


夏奈絵はけらけらと笑った。


未咲も笑い出した。


昨日も明るい人だとは思った。


夏奈絵がいると、場が勝手に賑やかになる。


その笑顔のまま、夏奈絵は俺を指差した。


「せやから、うちが厳しい担当」


「なんやそれ」


「恒一くんを甘やかしません」


「昔のこと覚えてへんねやろ?」


「……まぁ」


「ほな恥ずかしい過去、いっぱい教えたろ!」


「やめろや」


「くくっ、残念でした」


「何がや」


「本人覚えてへんから反論できませーん」


「ぐっ……」


「卑怯やろ?」


「自分で言うな」


夏奈絵は満足そうに笑いながら先へ歩く。


用水路の水音が、三人の笑い声に混じって流れていく。


気づけば、夏奈絵は俺の隣へ並んでいた。


「せやけど、うちのことぐらい覚えときや」


「悪かったな」


「ほんま傷付くわー」


「すごい棒読み」


夏奈絵はけらけらと笑った。


「でも」


「ん?」


夏奈絵は俺の顔を覗き込み、少しだけ目を細める。


「なんか安心した」


「何が」


「知らん」


「知らんのかい」


「何やろなぁ……」


夏奈絵は少しだけ俺を見つめた。


「……恒一やな」


「何やそれ」


「知らん」


夏奈絵はにやりと笑う。


「便利やろ?」


「お前が言うな」


未咲は「また始まった」とでも言いたげに笑っていた。


俺も思わず笑う。


二人の事は覚えていない。


それなのに。


その笑い声だけは、昔から知っていたような気がした。

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