妹の婚約式で、私の席だけありませんでした。ですので、家門代表の署名もいたしません
春の神殿は、白い花で満ちていた。
高い天井から光が落ち、床に敷かれた赤絨毯をやわらかく照らしている。祝福に満ちたはずのその場所で、私は入口脇の席次表を見上げていた。
侯爵家関係者の列は、分かりやすく一番前に配置されている。
父。妹。婚約者側の伯爵家の面々。
――そして、そのどこにも、私の名前はなかった。
間違いかと思い、もう一度確かめる。指でなぞるように、ゆっくりと。
けれど結果は同じだった。
「……やっぱり、ないのですね」
私の声は、思っていたよりも静かだった。
驚きも、怒りも、どこか遠くにあるような気がした。
「何をしている」
後ろから声をかけられ、振り向く。
父だった。
「席次表を確認しておりました」
「なら分かっただろう。お前は裏方に回れ」
当然のような口調だった。
私は少しだけ首をかしげる。
「裏方、ですか」
「ああ。今日は祝いの席だ。余計な波風は立てるな。家族なのだから、表に出る必要はない」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが静かに冷えていくのを感じた。
――ああ、やはりそういうことなのだ。
「妹の晴れ舞台ですから」
私がそう言うと、父は満足げに頷いた。
「分かっているではないか」
分かっている。
ええ、ずっと昔から。
「お姉様?」
軽やかな声が耳に届いた。
振り向けば、白いドレスを纏った妹が立っている。まるでこの場の光すべてを集めたかのように、華やかだった。
「お姉様、もう来ていらしたのですね」
その笑顔は、昔から変わらない。
無邪気で、柔らかくて、そして――どこか人のものを疑わない。
「席、ご覧になりました?」
私は静かに問いかける。
妹はきょとんとした後、少しだけ困ったように笑った。
「ええ。父様がお決めになったとか」
「私の名前がなかったことも、ご存じで?」
「……ええ。でも、その」
一歩近づき、私の手を取る。
「お姉様は、どこにいても家族ですもの」
柔らかい声だった。
慰めるような、許しを与えるような声音。
「席がなくても、祝ってくださるでしょう?」
私は手を引き抜いた。
「ええ」
短く答える。
「家族ですもの」
その言葉を、妹は疑うことなく受け取った。
嬉しそうに頷いて、また控え室へと戻っていく。
神殿の奥で鐘が鳴った。
式の開始を告げる音だ。
私は席次表から視線を離し、静かに歩き出す。
案内役の侍女が戸惑った顔で声をかけてきた。
「あの……クラリッサ様のお席が」
「ございませんね」
微笑んで答える。
そのまま脇の空いた通路に立った。
式を妨げるつもりはない。
ただ、出席者ですらないのなら、座る理由もない。
誓約の言葉が交わされる。
祝福の拍手が響く。
私はそれらを、まるで他人事のように見つめていた。
やがて神官が一歩前に出た。
「では、両家の合意をもって、この婚約を正式に記録いたします。家門代表の署名を」
その言葉に、私は目を伏せた。
――そういう流れになりますよね。
当然のことだ。
神官は書類を持ち、こちらへ歩いてくる。
父の前で足を止めた。
「侯爵閣下、こちらへ」
父は一瞬だけ言葉に詰まった。
ほんのわずかな沈黙。
それを誤魔化すように、父は私の方を見た。
「クラリッサ」
低い声だった。
「出てこい」
私はゆっくりと顔を上げる。
「何のことでしょうか」
「署名だ」
苛立ちを抑えた声音。
「お前がやれ」
神殿の空気が、わずかに揺れた。
列席者たちの視線が集まってくる。
当然だ。
なぜ侯爵本人が署名しないのか、と。
私は一歩も動かなかった。
「申し訳ありません」
静かに告げる。
「それはできません」
ざわり、と空気が波立つ。
父の顔が歪んだ。
「何を言っている。今は――」
「本日の席次表によれば」
私は言葉を重ねた。
「私は、この式に出席しておりません」
神官の手にある紙を、一瞬だけ見つめる。
そして、視線を父へ戻す。
「出席していない者が、家門代表として署名することはできません」
場が凍った。
ほんの一瞬の静寂。
それが、次の混乱を呼び込む。
「ばかなことを――!」
「席など、形式上の――!」
父の声が荒くなる。
だが神官は、ゆっくりと首を振った。
「いいえ、席次は公式記録です。出席者として登録されていない方に、代表署名の資格は認められません」
冷静な声音だった。
逃げ道を与えない言い方。
私はただ、それを聞いている。
妹が青い顔でこちらを見ていた。
「お姉様……? どうして……」
その声は震えていた。
理解が追いついていないのだろう。
今まで通り、私が頷くと思っていたのだ。
――ええ、今まではそうでしたから。
「父様、早く……!」
婚約者側の伯爵が焦った声を上げる。
「時間が押しております、このままでは――」
神官が静かに言った。
「代表署名がなければ、本件の婚約は記録できません」
つまり。
今日の式は成立しない。
父が私を睨みつけた。
「クラリッサ。……分かっているのだろう、何をしているか」
「ええ」
私は小さく頷いた。
「よく分かっております」
そして、わずかに笑む。
「私の席がない式に、私が関わる理由はございません」
父は言葉を失った。
怒りでも、威圧でも、どうにもならない領域に入ったことを理解したのだろう。
私はゆっくりと一礼する。
神官へ、列席者へ、そして――もう家族とは呼べない人々へ。
「失礼いたします」
踵を返した。
誰も、私を止めなかった。
神殿の扉を抜ける。
外の空気は、ひどく静かだった。
「――お見事でした」
後ろから声がかかる。
振り向くと、見知らぬ男性が立っていた。
神殿の監督官の徽章を胸に付けている。
「先ほどの判断、極めて正当です」
私は軽く頭を下げる。
「書類の規定に従っただけです」
「ええ。ですが、それを選べる方は多くありません」
彼は穏やかに笑った。
「クラリッサ様。よろしければ、別の場所でその才覚をお使いになりませんか」
その言葉を聞いて、私はほんの少しだけ考える。
神殿の鐘が、再び鳴り響いた。
混乱を収めるためのものだろうか。
私は空を見上げた。
青く、広い空だった。
そして、ゆっくりと視線を戻す。
「……そうですね」
静かに答える。
「私の席がある場所へ、参ります」
それは初めて、自分で選んだ言葉だった。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
席を用意されなかったクラリッサが、最後に自分の足で歩き出すお話でした。
彼女がこれから向かう先には、きっと誰かに譲らなくてもいい場所が待っているのだと思います。
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