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妹の婚約式で、私の席だけありませんでした。ですので、家門代表の署名もいたしません

作者: Sophia Rose
掲載日:2026/05/25

 春の神殿は、白い花で満ちていた。

 高い天井から光が落ち、床に敷かれた赤絨毯をやわらかく照らしている。祝福に満ちたはずのその場所で、私は入口脇の席次表を見上げていた。

 侯爵家関係者の列は、分かりやすく一番前に配置されている。

 父。妹。婚約者側の伯爵家の面々。

 ――そして、そのどこにも、私の名前はなかった。

 間違いかと思い、もう一度確かめる。指でなぞるように、ゆっくりと。

 けれど結果は同じだった。

 「……やっぱり、ないのですね」

 私の声は、思っていたよりも静かだった。

 驚きも、怒りも、どこか遠くにあるような気がした。

 「何をしている」

 後ろから声をかけられ、振り向く。

 父だった。

 「席次表を確認しておりました」

 「なら分かっただろう。お前は裏方に回れ」

 当然のような口調だった。

 私は少しだけ首をかしげる。

 「裏方、ですか」

 「ああ。今日は祝いの席だ。余計な波風は立てるな。家族なのだから、表に出る必要はない」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが静かに冷えていくのを感じた。

 ――ああ、やはりそういうことなのだ。

 「妹の晴れ舞台ですから」

 私がそう言うと、父は満足げに頷いた。

 「分かっているではないか」

 分かっている。

 ええ、ずっと昔から。

 「お姉様?」

 軽やかな声が耳に届いた。

 振り向けば、白いドレスを纏った妹が立っている。まるでこの場の光すべてを集めたかのように、華やかだった。

 「お姉様、もう来ていらしたのですね」

 その笑顔は、昔から変わらない。

 無邪気で、柔らかくて、そして――どこか人のものを疑わない。

 「席、ご覧になりました?」

 私は静かに問いかける。

 妹はきょとんとした後、少しだけ困ったように笑った。

 「ええ。父様がお決めになったとか」

 「私の名前がなかったことも、ご存じで?」

 「……ええ。でも、その」

 一歩近づき、私の手を取る。

 「お姉様は、どこにいても家族ですもの」

 柔らかい声だった。

 慰めるような、許しを与えるような声音。

 「席がなくても、祝ってくださるでしょう?」

 私は手を引き抜いた。

 「ええ」

 短く答える。

 「家族ですもの」

 その言葉を、妹は疑うことなく受け取った。

 嬉しそうに頷いて、また控え室へと戻っていく。

 神殿の奥で鐘が鳴った。

 式の開始を告げる音だ。

 私は席次表から視線を離し、静かに歩き出す。

 案内役の侍女が戸惑った顔で声をかけてきた。

 「あの……クラリッサ様のお席が」

 「ございませんね」

 微笑んで答える。

 そのまま脇の空いた通路に立った。

 式を妨げるつもりはない。

 ただ、出席者ですらないのなら、座る理由もない。

 誓約の言葉が交わされる。

 祝福の拍手が響く。

 私はそれらを、まるで他人事のように見つめていた。

 やがて神官が一歩前に出た。

 「では、両家の合意をもって、この婚約を正式に記録いたします。家門代表の署名を」

 その言葉に、私は目を伏せた。

 ――そういう流れになりますよね。

 当然のことだ。

 神官は書類を持ち、こちらへ歩いてくる。

 父の前で足を止めた。

 「侯爵閣下、こちらへ」

 父は一瞬だけ言葉に詰まった。

 ほんのわずかな沈黙。

 それを誤魔化すように、父は私の方を見た。

 「クラリッサ」

 低い声だった。

 「出てこい」

 私はゆっくりと顔を上げる。

 「何のことでしょうか」

 「署名だ」

 苛立ちを抑えた声音。

 「お前がやれ」

 神殿の空気が、わずかに揺れた。

 列席者たちの視線が集まってくる。

 当然だ。

 なぜ侯爵本人が署名しないのか、と。

 私は一歩も動かなかった。

 「申し訳ありません」

 静かに告げる。

 「それはできません」

 ざわり、と空気が波立つ。

 父の顔が歪んだ。

 「何を言っている。今は――」

 「本日の席次表によれば」

 私は言葉を重ねた。

 「私は、この式に出席しておりません」

 神官の手にある紙を、一瞬だけ見つめる。

 そして、視線を父へ戻す。

 「出席していない者が、家門代表として署名することはできません」

 場が凍った。

 ほんの一瞬の静寂。

 それが、次の混乱を呼び込む。

 「ばかなことを――!」

 「席など、形式上の――!」

 父の声が荒くなる。

 だが神官は、ゆっくりと首を振った。

 「いいえ、席次は公式記録です。出席者として登録されていない方に、代表署名の資格は認められません」

 冷静な声音だった。

 逃げ道を与えない言い方。

 私はただ、それを聞いている。

 妹が青い顔でこちらを見ていた。

 「お姉様……? どうして……」

 その声は震えていた。

 理解が追いついていないのだろう。

 今まで通り、私が頷くと思っていたのだ。

 ――ええ、今まではそうでしたから。

 「父様、早く……!」

 婚約者側の伯爵が焦った声を上げる。

 「時間が押しております、このままでは――」

 神官が静かに言った。

 「代表署名がなければ、本件の婚約は記録できません」

 つまり。

 今日の式は成立しない。

 父が私を睨みつけた。

 「クラリッサ。……分かっているのだろう、何をしているか」

 「ええ」

 私は小さく頷いた。

 「よく分かっております」

 そして、わずかに笑む。

 「私の席がない式に、私が関わる理由はございません」

 父は言葉を失った。

 怒りでも、威圧でも、どうにもならない領域に入ったことを理解したのだろう。

 私はゆっくりと一礼する。

 神官へ、列席者へ、そして――もう家族とは呼べない人々へ。

 「失礼いたします」

 踵を返した。

 誰も、私を止めなかった。

 神殿の扉を抜ける。

 外の空気は、ひどく静かだった。

 「――お見事でした」

 後ろから声がかかる。

 振り向くと、見知らぬ男性が立っていた。

 神殿の監督官の徽章を胸に付けている。

 「先ほどの判断、極めて正当です」

 私は軽く頭を下げる。

 「書類の規定に従っただけです」

 「ええ。ですが、それを選べる方は多くありません」

 彼は穏やかに笑った。

 「クラリッサ様。よろしければ、別の場所でその才覚をお使いになりませんか」

 その言葉を聞いて、私はほんの少しだけ考える。

 神殿の鐘が、再び鳴り響いた。

 混乱を収めるためのものだろうか。

 私は空を見上げた。

 青く、広い空だった。

 そして、ゆっくりと視線を戻す。

 「……そうですね」

 静かに答える。

 「私の席がある場所へ、参ります」

 それは初めて、自分で選んだ言葉だった。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。


席を用意されなかったクラリッサが、最後に自分の足で歩き出すお話でした。

彼女がこれから向かう先には、きっと誰かに譲らなくてもいい場所が待っているのだと思います。


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