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ある伯爵と猫の話  作者: 秋澤 えで
番外編
14/14

ある悪魔と女の話・後編

 「ベルの調子はどうだい?」

 「ええ、大丈夫そう。起きていられる時間も長くなったし、家の中も少しなら歩けるようになった。一か月もすればたぶんもうよくなるわ。」

 「それで今日は?」

 「森の奥にハナハッカの群生があったでしょ。この時期採れる最後だからそれなりの量を採集するの。」

 「手伝えって?魔女様は悪魔遣いが荒いなあ。」



 ベルを心配するような様子を見せながらわざわざ地面を歩く。動物を仲良くなるには同じ目線に立つことがいい、とどこかで聞いた話だった。

 手伝いなんかをすればきっと彼女はもっと俺に感謝するだろう。この小さな魔女のお願いなど、俺にとっては屁でもない。

 暖かな日差しの中、森の中を並んでエーヴァと歩く。

 なぜだか、いつか天の中をうろついた日のことを思い出した。

 ここは森で、いるのは醜い悪魔と穢れた魔女だけだというのに。

 どうしてか、いつもより呼吸がしやすいような気がしたんだ。


 何か変わったことなんてないのに、どうしてそんな気分になるのか、俺にはわからなかった。



 けれどその時間は唐突に終わった。



 「煙……?」

 どこからか風に乗って黒い煙が流れてきたのだ。

 空気が乾燥しているわけでもなく、極端に激しい日差しがあるわけではない今日、自然発火がおこるはずもなく。

 「何が……、エーヴァ!」

 森全体を見渡せる”目”を使えば、森の中に入ってくるはずのない、人間たちがいた。

 その手には松明を、剣を、弓をもつ。


 「森のどこかが燃えてる!しかも自然発火じゃない、街の人間たちが森に入ってきている。……奴らが何かに火をつけたらしい。」


 何か、なんてわかりきってる。

 奴らが火をつけそうな森の中のもの。そんなのは一つしかない。


 「ベル……!」


 彼女たちの家が、燃えていた。

 大きな四つ足の獣、俺が知る中でもっとも走るのが早い生き物に姿を変える。

 血の気を失った彼女を背に乗せ、できる限りの力で走り抜けた。

 バクバクと彼女の心臓が音を立てるのが、背中越しに伝わってきた。とても、不愉快な音だった。

 走った、全力で走った。

 どれだけのスピードで走ろうとも、間に合わないことを知っていた。


 小さな家は、燃え盛る炎に包まれていた。灰が風に舞い上がり、熱風が頬を撫でる。真っ黒い墨の塊は、捨ててきた故郷を彷彿とさせた。

 「ベルッ!いや、ベル!どこに居るの、返事をしてっ!」

 「エーヴァ駄目ダ!近づいてはいけなイ!君までッ、」

 君まで、死んでしまう。言わなくてもきっとエーヴァはわかっていた。

 もう妹は助からないと。それなのにどうして、彼女は俺を振り切ろうとしてまで燃え盛る、すでに何もない家へ向かっていこうとするのだろう。

 「ディアヴォロッ!助けて!貴方ならできるでしょ!貴方はなんでもできるって、何でも叶うって言った!ベルを、ベルを助けて、お願い!」


 どれだけ縋られようとも、乞われようとも、それはできないことだった。


 「……あるものをなくしたり、変容させたりすることはできル。けれどないものを作ることはできなイ。命は命であり、構成要素を集め作り直すことも消えてしまったものを呼び戻すこともできなイ。」


 きっと、作れないこともないだろう。

 ベルと同じ材料を集めて、同じような記憶をその人間に入れれば、きっと記憶の通りのエーヴァの妹が作り出せる。

 けれどそれはベルではない。所詮はベルに似た何かでしかない。

 同じ記憶を保持し、同じ姿を持つだけの人形だ。

 

 「なんでよっ……、ようやく、」

 ようやく、妹は元気になったのに、だろうか。

 彼女がすべてを投げ捨ててでも救いたかった妹はほんの一瞬、馬鹿馬鹿しい人間たちの正義感によってその命を吹き消された。

 なんとあっけないことだろう。

 怒りに震えるエーヴァを見ながら俺はどうでもよく燃える家を見ていた。

 いつか壊そうと思っていたものだ。それが計画の途中で壊された。それはなかなか不愉快なものだ。けれど大した感慨もない。おもちゃを一つ壊されたところで、俺はそこまで困らない。

 なにより、死んだのエーヴァじゃなくてよかった。

 エーヴァは俺のものだ。決して誰にもやりはしない。

 「おいいたぞ!魔女だ!」

 「まさか本当に魔女だったのとは……!あんな悍ましい使い魔まで連れている!」

 ああ馬鹿な人間たちだ。自分たちはまるで街を救った英雄のつもりの顔をしている。

 この手の人間はどこまでも醜い。これなら笑いながら壊し殺す、地獄の者たちの方がまだ美しい。

 誰かを悪役にしてまで、英雄になりたいのか。

 「魔女の姉妹か。片方を先に殺しておいて正解だった。化け物を二人相手にするのはごめんだ。」

 「伯爵!奴は、」

 「女一人だ。あれは生け捕りにして、見せしめに広場で火刑にしよう。……こんな化け物共が二度とこの領地に踏み入れぬよう。道を誤る者がいないように。」

 まるで見世物のようではないか。

 我々は正しい。間違ったものは殺してやろう、なんて。いつから人間は誰かを裁けるような高尚なものになったのだろう。

 自分たちを英雄にするために、確かでもない情報を掲げ、罪も力もない娘を殺す人間。

 自分の妹を守るために道を誤り、そして静かに暮らそうとする人間。

 どちらが正しいだろう。どちらが美しいだろう。

 人間など十把一絡げに醜く、不正義であり、愚かだ。

 誰もが自分は正しいと思いながら、他者を悪にすることで正義を証明しようとする。なんと醜いことだろう。

 皆皆、汚く、醜い。混沌とした世界らしい。

 けれど彼女は違う。どれほど汚くなろうと、どれほど醜いと謗られようと、彼女はただただ美しい。


 「人でなし……!」


 違う、違うよエーヴァ、彼らは人だ。どこまでも。人だからこそ、こんな馬鹿馬鹿しい真似をしたんだ。

 弱く愚かであるが故に、煽られた不安に負けてしまうのだ。弱いから集団で生きるというのに、人の声に惑わされていては世話ない。


 絞り出される声は、激情だ。今まで見たことがないほど、彼女は今怒っていた。

 魔法や魔術が使えるのに、彼女は使わず、ただ妹を治すためだけに薬の知識だけを使っていた。

 けれど彼女が手を振るえば燃え上がっていた焔は消え去り、熱を奪う雨が降り出す。そして逃げ惑う男たちは吹き飛ばされた。

 彼女は怒っていた。

 もうただの娘ではなかった。

 美しい、魔女だった。


 「お前から生まれる子は、誰も愛さない。実の親であるお前のことも、母親のことも、部下のことも、女のことも、民のことも。その子は誰も愛さない……!」


 ああなんて可愛らしい呪いなんだろう。

 誰も愛さない呪いなんて、大して困ることもないだろうに。

 殺したかったはずだ。この場にいる人間すべてを殺せるだけの力もあるだろう。

 けれどエーヴァは殺さなかった。違う。彼女は殺せなかった。

 美しい愚かな魔女は、人を殺せないのだ。

 きっと彼女にとって”愛”とは命の次に大切なものなのだろう。

 だから彼女はそれを奪った。

 魂も身体も悪魔に売り払ったというのに、彼女はまだ人間のつもりなのだ。

 人を殺してはいけない、そんなくだらなく小さな倫理から逃れられないでいる。

 小さな魔女、美しい俺だけの魔女。

 降りしきる雨の中、俺は確かな満足感を得ていた。


 けれど奪われる体温に比例するように、得体のしれない何かが胸の中を這い上がってきていた。


 血の気の失せた顔で、いまだ燻る家、家だったものをかき分ける。

 ここは台所だった、ここは書庫だった、ここはリビングだった。

 そしてそこは、ベルのベッドがあったはずのところだった。

 そこにはもう黒い何かしか乗っかっていなかった。

 降る雨もそのままに、彼女は泣きながら、妹の名前を呼んでいた。


 俺は間違いに気づいた。


 怒り狂う魔女はきっと人間の街へ復讐に行くだろうと思っていた。

 けれど違う。今の彼女にそんな力はない。いや力はある。けれどもう、気力がない。降りしきる雨は彼女の怒りを鎮め、燻る煙は視界を奪い、そして黒く冷たい亡骸は彼女の心に絶望を注ぎ込んだ。

 彼女はもう、動けない。


 忘れていたんだ。

 小さな菫の花は、力加減を間違えただけで簡単に壊れてしまうことを。


 どこだ、どこだ。

 生唾を飲み込んだ。降りしきる雨が、俺の胸の中に冷たくて恐ろしい何かを注ぎ込む。

 俺はどこで間違えた。


 彼女を傷つける人間たちを先に殺しておくべきだったか?

 彼女の大切なものを全部先に守っておくべきだったか?

 森の中を常に見渡しておくべきだったか?

 二人をすっかり隠してしまうべきだったか?


 ふ、と思い立った。

 俺は彼女が欲しかっただけじゃないのか。

 手の中にあの美しい花を閉じ込めてみたいと、傍に置いてみたいと思っていたんじゃないのか。


 違っていた。否、変わっていた。

 俺はあの花を傍において、それから、笑い合いたかったのだ。何でもないことを、彼女と二人でしたかったのだ。

 二人で森を歩くとき、二人で薬草を摘み取るとき、二人で空を見上げるとき。

 馬鹿なことに、この醜い悪魔は幸福を確かに感じていた。


 全部遅かった。

 俺は彼女を大切にしたかったのだ。彼女のとの何でもない日常を。

 きっと最初から全部間違ってた。気が付くのがあまりにも遅かった。


 彼女が欲しかったならせめて、奪うのではなく与えればよかったのだ。

 放っておいてもきっと彼女は何かに困っていた。その困っていることを、手助けしてやればよかったのだ。

 魂も身体も全部ほしいなんて願わなければよかった。

 俺は彼女からもらえる日常が、掌の中に納まるような幸福が、何よりも好きだったのに。


 彼女が今悲しんでいるのは。

 彼女が今泣いているのは。

 彼女が今絶望に身を浸しているのは。


 「……エーヴァ。」


 全部全部、俺のせいだ。

 大切にしなきゃいけないって、あれが幸福というものだってことに、馬鹿な俺は気が付けなかった。


 「……ごめン。」


 彼女から奪い去ったのは、俺だ。


 「……違う、貴方は悪くない。」


 エーヴァは何も知らない。

 俺が母親に病気をかけて殺したことも、父親を森で迷わせて殺したことも、妹を病気にしたことも。

 彼女は何も知らない。


 そして、全部全部俺のせいだった、と言えない俺は、結局どこまでも愚かで醜い悪魔だった。


 「……エーヴァ、行こウ。もっと森の奥へ。ここに居たら奴らはきっとまた来ル。」

 ごめん、ごめんエーヴァ。

 「ええ……、行きましょう。恐ろしい人間たちが来ないところへ。」 


 気高く美しい菫の花。

 俺が馬鹿なばっかりに全部台無しにしてしまった。


 ほんのひと時、手に入った小さな幸福を、俺が握りつぶしてしまった。


 もういい、なんでもいい。


 神だろうと仏だろうと悪魔だろうと人間だろうとかまわない。

 どうか彼女を救ってくれ。


 悪魔の俺は馬鹿だから、壊すことしか彼女にできない。


 墓の前に座り込んだ魔女を見た。


 怒りも悲しみも、どうすることもできない彼女は、感情を殺すように過ごしていた。

 もし俺が、本当のことを言えば、彼女の怒りはすべて俺に向くことだろう。それで解決するなら、俺はそれに耐えて見せよう。

 けれどそれじゃだめだ。怒って俺を追い出したら、今度こそ彼女は一人になってしまう。誰もいない森の奥で一人、生き続けるなんて、きっと彼女にはできないから。


 どうか誰か、彼女に再び笑顔を授けてくれ。


 そのためなら俺は、きっとなんだってなげうって見せるから。


 薄暗い曇り空が森に覆う。

 あの木漏れ日を歩いた日を、ひっかくような痛みとともに思い出せる。

 あのささやかな幸福を、今でも抱えている。


 ああもし俺が、つまらない人間の一人だったなら。

 俺は彼女と幸福の道を歩けただろうか。

読了ありがとうございました!

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