【後日談】真夜中の献杯
片付けをしていたら、面白いものを見つけた。
昴が広げたのは、現世からの文である。
「懐かしいな……」
『おいぬさま、上條元彦にございます。先日はありがとうございました。おかげさまで、病院で癌が見つかりましたがごくごく初期です。その素晴らしい嗅覚、まこと恐れ入りました』
二十年以上前の参拝の文だ。咲良の父、元彦からのものである。
咲良の目に昴の姿を見抜かれてしまった運命の日を思い出す。
(あの日以降、あまり現世には近づかないようにしたんだよなぁ)
また咲良に見つかってしまっては困る。ゆえに、あの日以来鳥居から現世を眺めることはやめにした。
粋とおとにも、「昼間は現世の偵察を控えるように」と伝えた。ふたりとも理由を尋ねることはなかった。昴の声色から、言葉にせずとも訳ありなことを察したようだった。
『心からの感謝の気持ちを込めまして、フランスとイタリアのワインをお供えします。先日の発泡ワインと違って、開けるにはソムリエナイフという専用の器具が必要になります。念の為、おふたつお贈りします。使い方を書いた簡単なメモも入れてあります。手書きの汚い字で恐縮ですが、ご参考に開封ください。江戸切子のグラスも同封します。お手元に届くといいのですが……。もし、ワインをすぐに召し上がらない場合、補完する際は地下など温度の安定する場所に置くのがいいようです——』
元彦は、一言で表せば愚直な男である。咲良の生真面目さ、勤勉さはきっと元彦に似たのだろう。
くすりと笑みがこぼれる。
『どうぞこれからも、咲良をよろしくお願いします。また外国の酒をお持ちします』
その時。
(……ん? この足音は……)
昴はふと顔を上げた。
そう、この軽めの足音は……と思った時には、廊下から凛とした声が響く。
「昴さま、お茶をお持ちしました」
「入ってくれ!」
障子が開いて、姿を現したのは咲良だ。
手には盆。湯呑みがふたつ載っている。
すがすがしくも芳しい、煎茶の香りが昴の鼻に届いた。
「またお仕事してたんですか? もう、まだお身体もよくなってないのに……」
半年以上に及ぶ過酷な生活で、体重は落ちたし未だ本調子ではない。
だが、いつまでも療養しているわけにはいかない。
咲良はちゃぶ台に盆を置いて、昴の方に控えめに近寄って、ちまっと隣に腰を下ろしてきた。
茶色い目が、昴を見上げてくる。
(今日もかわいいな……)
「気を遣って茶を淹れてくれたのか? ありがとう、ちょうど喉が渇いていたところだ」
「熱いからもうちょっと待ってくださいね。……あれ、それ」
咲良はふと昴の手元に視線を落とし、元彦の文を覗き込んだ。
「読めるか?」
「え、これ……お父さんからの文ですよね!?」
咲良の目がまんまるに見開かれている。
「ああ。流石に名前くらいはわかるか」
「ですけど、中身は……『お、いぬさま?……上條元彦に、ございます。先……日はありがとうございました』……合ってますか?」
「ああ、合ってる」
(やはりつなげ字はまだまだ難しいよな……)
咲良には、まずは隠世流の文字の読み書きを覚えてもらうことにしている。
社や領事館の仕事に関してはまだまだ教えていないことも多い。まずは読み書きができるようになってから、徐々に学んでほしいと思っていた。
「う〜ん、この先は難しいですね……せっかくお父さんからの参拝の文なのに」
しょげた顔をした咲良の肩をそっと抱く。
「焦る必要はない。ゆっくり読めるようになればいいんだ」
「はい……」
「そういうところもかわいいが、真面目すぎるのも考えものだな。さて、冷めないうちに茶を頂こうか……うん? いつもと違う香りだな。頂き物か?」
さっと咲良の頬に朱が差した。かわいいと言われることに、まだ慣れていないらしい。
「……はい。駿河の方のものだと聞いています」
茶請けにしようと戸棚からお供えの羊羹を取り出せば、咲良はパッと笑顔を見せた。
「干し柿もあるぞ? どちらがいい?」
「羊羹でお願いします!」
「わかった」と昴も笑顔を返した。
***
夜。
昴は酒と徳利、燗銅壺を準備し、そして酒の肴やら猪口をまとめた風呂敷を背に括り、小さなゴザも抱え、そっと鳥居から現世に移動した。
今宵は満月。
吐く息は白く、濃厚な冬の匂いがした。
(明日は雪だな……)
時折通りかかる自動車のヘッドライトに何度か照らされたが、運転手に昴の姿は見えていない。きっちり術が効いている。
「久しいな、元彦」
上條家の墓は、大口真神社から五分ほど歩いた田畑の間にぽつんとあった。
ビニールハウスが並ぶ畑の向こうにはショッピングモールが見える。十五年ほど前、バイパス脇に建てられたそこは人工的な真っ白い灯りを煌々と放っており、昴の目には眩しく映った。
時折漂う排気ガスの匂いが鼻につくが、一昔前と比べると、顔をしかめるほどではない。
大都会に漂う下水の匂いと比べても、はるかにましだ。
「人の暮らしは変化が早いな……近頃はどこの川も綺麗になったし、川の主も以前と比べれば暴れなくなった」
墓の前にゴザを広げた。
墓に、線香立てはない。墓石の頭部は平らではなく、先端が尖った形状だ。
手近な枯れ葉を拾って、鬼火でもって銅壺の炭に火を移す。すると徐々に銅壺の隣の水が温まり、徳利の中の酒に燗をつけることができる。
銅壺の上には網を敷いて、ちょっとした肴を炙ることもできる。
この晩、昴が選んだのはあたりめ。
猪口に酒を注いで、供物用の台へそっと置く。懐紙に火の入ったあたりめを乗せて、それも台の上へ。
猪口を掲げて、「元彦、一献付き合ってくれ」と告げた言葉が、風に溶ける。
凍えるほどの寒さの中、猪口を持った手だけが温かい。
いや、熱いほどだ。
燗をつけたことで匂いたつ酒。口をつければそれは喉を滑り、一足遅れて酒精が鼻に抜ける。
漏れた吐息は、なおのこと白い。
「そのうち……どれくらい後になるかはわからんが、できるだけ先にしようと思うが、顔を突き合わせて酒を飲もう。その時までにワインを覚えておく。そうそう、あのソムリエナイフ、実に役に立っている。今は咲良が愛用していてな——」
言葉は澱みない流水のようにこぼれおちる。
話したいことはたくさんあった。
(いつか、直に礼を言いたい)
咲良には、あの運命の日のことはしばらく黙っていよう。
きっと、驚くはずだ。
幼い頃一度会っていること。それから、元彦の病は昴が嗅ぎ当てたことを知った時、どんな反応をするのだろうか。
「咲良があの文をすらすら読めるようになったら、種明かしをしようと思う」
夜は、静かに更けてゆく。




