第42話 危機
咲良はぼんやりと目を開けた。
視界はうっすらぼやけている。目を擦っても、それは変わらなかった。
頭の奥がずきずきと痛んだ。ゆっくりと身を起こしたが、ひどく身体がだるい。
ここはどこだろう。自室に戻って硯箱を開け、文字の書き取りをしていたところまでは覚えているのだが、猛烈な眠気に襲われて、その後のことは記憶にない。
嫌な予感がした。もしや、何か変な薬でも盛られてかどわかされたのか?
咲良は慌てて自分の身体をまさぐった。服は着ている。何かされたような感じもない。
「わたしがいることに気づきもしないのね? 何もできない人間を見初めるなんて、昴さまに正気に戻ってもらわなきゃ」
咲良は己の耳を疑った。ばっと振り向く。
そこにいたのはあやめだった。あの、錦屋で働いていた狐のあやめ。
「あ……あやめさん……」
「昴さまの匂いがべったりね。抱かれたの?」
彼は順番は間違えないと言った通りで、キスやハグ、それから添い寝以上のことは絶対にしてこなかった。しかし、それを教えてやる義理はない。
霞む目で彼女を睨みつけた。
「あの嘘が本当だったら見逃してやろうと思ってたのに……計画通りにいきましょう」
あの嘘。つまり、咲良と昴が婚約しているという嘘だろう。そう考えた瞬間、咲良は後ろから何者かに羽交い締めにされた。
***
橋の上に、何者かがいた。
こちらが風上なので、においでは判別できない。
目を凝らせば、手首を縛られた咲良が欄干に繋がれている。
「咲良……!」
昴は橋の手前で変化を解いた。おとと粋、それから隆爺と要もそれにならう。
昴は、山犬のにおいに混じって狐のにおいに気づいた。
「あやめ……お前か」
彼は唸るように言った。
目の前には河原から現れた、見知った山犬の男たちがずらりと並ぶ。
その後ろにあやめがいた。男のひとりが言う。
「見損ないましたよ、人間なんかに籠絡されちまうなんて」
「おれは人間嫌いだなんて一言も言ったことがない。お前らが勝手に勘違いしたんだろうが!」
志乃には、会いに行った折にはたまに三味線を挽いてもらう。どんな芸者の三味線も唄も下手に思えるくらい、彼女のそれは極上だ。
彼女をこれだけ家族として好いているのだから、人間嫌いなわけがない。
昴たちは刀を抜いた。こうなるのはわかっており、全員袴姿である。
要はただひとり、槍を構える。
「返してもらおう」
振りかぶってきた男の一太刀を受け止めた昴は、一瞬でその男を蹴りで弾き飛ばし、つづいて切りかかってきた男の刀をするりと避けた。腰を落とし、即座に体重移動をしたのだ。
すかさずふたり目を刀の柄で打って昏倒させ、懲りずに切り掛かってきたはじめの男の刀を己の刀で受け流すと、返す刀で男の足の腱を断ち切った。武器を取り上げ、河に放り投げる。
「おれを誰だと思ってる? 歯ごたえのない奴らだな」
図らずも、地から這うような声が出た。
おとと粋、それから隆爺に要はすでに周りの男たちを伸した後だった。
要を連れてきて正解だった。この男、意外と戦闘能力が高いのである。
残るは、あやめただひとり。
「山犬……意外と使えないわね」
「山犬だとしても、誰もが強いわけじゃない」
昴がそう言うと、彼女は背中を見せて咲良の元に走り始めた。
(しまった……!)
すかさず。
要が槍を投擲した。
槍はあやめの背中にまっすぐ飛んで行く。
よしやった、昴がそう思った瞬間。彼女は、狐に変化して紙一重のところで避けてみせた。
「なっ!」
槍は橋に突き立った。
あやめは変化を解いて、帯に挟んでいた短刀を抜いた。迷いのない動作で咲良を欄干に繋いでいた縄を切ると、咲良を人質にとって短刀を構えた。
「昴さま!」
咲良の悲痛な声が届いた。
だめだ、それだけは。
昴は声を絞り出した。
「あやめ……やめてくれ」
「昴さまが悪いんですよ、こんな人間の娘なんかに……」
「頼むから、頼むからよしてくれ!」
昴がその場に膝をついた時だ、咲良が「昴さま……」と震える唇で昴を呼んだ。あやめの目の色が変わった。
「あやめ、やめなさい……あやめ!」
おとが叫んだ瞬間、短剣は柄まで咲良の脇腹に突き立てられた。
「咲良!」
昴は彼女の元に駆け出した。
あやめは刺した短刀を鍵をひねるようにぐるりと回転させて、咲良を河に突き飛ばした。




