言わぬが花
10歳で私は交通事故に遭った。両親は即死した。後部座席にいた私は五体満足ではあったが、言葉を失い、何か言おうと口を開くけれど、声が出ない状態がしばらく続いていた。時間が経ち、失語が治りかけて、日常的な会話はスムーズにできるようになり、また学校に通い始める頃の事だった。
「ねえ、少しの間、いっしょにいてもいい?」
病院の外のバス停で、スマホをいじりながらなんとなく、苦しくない死に方一覧を眺めてぼうっとしていると、女の人がやってきた。私はその言い回しが少し引っかかったが、ベンチに座りたいのかと思い、尻をずらして隅に寄った。
女の人は病院に来るにしては小奇麗なワンピースを着ており、ぱっちりとした目が少し緑がかっていて、どこか外国人のように見えた。
ベンチはまだあと3人ほど余裕をもって座れそうには見えたが、女の人はわざわざ私のすぐそばに腰かけた。私は立ち上がるべきか少し悩んだが、立ち上がっても行く場所が無いのでそのまま座っていた。スマホはポケットにしまった。
「言わぬが花、という言葉を知ってる?」
女の人がやさしく私に聞いた。私は頷く。このことわざは漫画で読んだことがあった。国語辞書を引いたら、沈黙は金という類語も紹介されていたのを覚えている。
「はっきりと口に出して言ってしまうと、かえって価値がなくなってしまうこと。この世にはね、言葉にしない方がいいこともあるんだよ」
私はさっきまでのカウンセリングルームを思い出そうとする。この人は私に声を取り戻さんとするカウンセラーの一人だっただろうかと考えるが、記憶にない。いったい誰なんだろうと思いながらも私は適当に頷く。
「あなたは心の中に言葉をためこんでいるように見えるわ。そしてそれを必死に声に出そうとしている」
失語症はこころの問題だから、事故後のショックを癒していくことが最も重要だとカウンセラーは言っていた。そこで私は、こころを癒すために、こころを言語化してまずは紙の上にアウトプットしていくことに取り組んだ。そして徐々に口や舌を動かす練習もしていった。私はこれには精力的に取り組んだ。私を引き取ってくれた祖父母をはじめ、学校の同級生や先生、もちろんカウンセラーも、誰もが喋れなくなった私を心配してくれた。私はただ、いち早く大丈夫だと声に出してその人たちを安心させたかった。なんとか安心させなくてはならない、という半ば脅迫めいた感情に焦らされていた。皆、ずっと心配の顔をしているのもくたびれるだろう。
私はもう、放っておいて欲しかった。両親を失ってできた心の暗い穴を一人で慰めたかった。しかし、焦るほどに言葉は出てこず、長い間唸り声のようなものを出すので精いっぱいだった。「私はもう大丈夫だ」と言いたいだけなのに、言葉にできない。下の先まで出かかった言葉が、喉につかえている。大人たちは「言えば楽になる」と繰り返す。楽になるために言いたいのだ。
ほとんど喋れないまま2年が過ぎ、やがて周囲が私が喋らないのが普通としてすっかり受け入れたころ、私の失語は急に治った。放っておいてもらいたいから頑張っていたのに、そう思っているうちは結果が出ず、いざ人々が自然に私を放っておきはじめた頃、急に治るのはどこか皮肉だった。
祖父母はまた失語がぶり返さないようにとの配慮なのか、私が声を出し始めても、過度に喜んだり騒ぎ立てることはせず、あくまで淡々とその事実を受けとめて様子を見ていた。私は小学6年生なのに4年生の学力で、クラスに友達がいない、おまけに両親もいない、死んだ目の不登校生徒であった。
女の人の手が伸びてきて私の頭に触れた。他人に頭を撫でられるなんて普段なら払いのけるところだったが、不思議とその手は不快ではなく、驚くほど自然に自分がその女の人を受け入れているのがわかった。誰かに撫でられるのは久しぶりだった。
「いつか言葉にできる心もある。言葉にすることで楽になることがあるわ。でも、無理に出さずに一生心の中に仕舞っておくと決めるのも、それでもいいの」
女の人は私の目を覗き込んだ。
「あなたに魔法を譲ってあげる。あなたが魔法を手放す準備ができたら、その時は他の人に譲ってあげてね」
私はその深い緑色に吸い込まれそうになる。数秒の後、いや、数十秒経っていたのかもしれないし、5分以上だったかもよくわからない。女の人は微笑んで、それから立ち上がって去っていった。つむじ風よりも一瞬の出来事だった。
その時から、私は花が見えるようになった。
初めて花を見たのは、同級生の葬式だった。いじめられて校舎の屋上から飛んだあの子の身体から、棘のある花が皮膚も死に装束も突き破って伸びていた。真っ白な葬式の中で、その花だけが棺桶から宙に凛と伸びていた。遺体にこんな風に花を供えるものではないことくらいは、両親の葬式を経験しているのでよくわかっていた。線香を上げるとき、誰もその花を見ない。その会場で、私だけがその花を見ていた。
次に見たのは、祖母だった。末期のがんで、最後は呼吸器をつけて苦しそうに死んだ。祖父はその手を最後まで握りしめていた。私と祖父の二人に見送られ、間延びした電子音が最後を告げた時、私は呼吸器の中に花を見た。美しい一輪の花が祖母の口から吐かれていた。
どうやら、花は死と言葉に関係があるらしいと私は考えた。言いたかったけれど呑み込んで秘めた言葉、言いたかったけれど言えずに残った言葉、それらが死後、花になって私の目に映っているらしい。葬式場の傍を通ると、いつも多かれ少なかれ花の匂いがした。供えられている花の匂いなのか、魔法による私だけに嗅ぎ分けられる花の匂いなのか、もう判断がつかなくなっていた。なぜあの女の人は私にこの魔法をくれたのだろうと私はよく考えるようになった。あれから何度か同じバス停に行ったが、もう二度と女の人と会うことはなかった。私の頭の中でその人の顔や背格好がどんどんぼやけてきて、もうあの印象的な緑色の瞳以外、ほとんど思い出せなくなっていた。
それから15年が経ったある日のことだった。その人は花の匂いがしていた。コンクリートの防波堤に寄りかかり、海を一人で見ている背中から、強い花の匂いがして、思わず私は立ち止まってしまった。一瞬香水かと思ったが、海風の強さにその考えを打ち消した。私はバス停で同じ匂いをさせていたに違いなかった。
「どうかしました?」
その人が突っ立っている私を振り返った。その人は少しよれたスーツを着ていて、ハイヒールを脱いで手にぶら下げていた。緩めに巻いた髪が風に靡く。
「ああ、えっと、波を見るのって、落ち着きますよね」
私はとっさにそう言った。
「ええ。でもずっと見ていると思わず入っていきたくなるので危ないですね」
「入りたいんですか?」
答えを知っているくせに私はそう聞く。目の前には曇り空を映して灰色の波が寄せては返していた。
「私、海好きなんですよ」
その人はそう言って海に向き直る。私は横に立って同じように海を眺めた。別に美しい光景ではなかった。盗み見たその人の横顔は、灰色っぽい背景の中で、ぼうと白く浮かび上がって、絵画の主題のようだった。どこを見るともなく細められた切れ長のまなじりから目が離せなくなる。憂いが滲む横顔は、言葉を飲み込み、我慢し続けた人生が垣間見れるような気がした。
しばらく私たちは何も言わずに並んで立っていた。
「昨日、失恋したんですよね」
ふと、その人がぽつりと言った。
「最初から、抱いてはいけない恋心だということは理解していたんです。でも、どうしても私のもとにいてほしくて。でも最後は、相手の幸せを願っちゃうんですよ。だって愛していたから。私らしく生きるより、あの人らしく生きてほしい。私の自己満足的幸せなんて、あの人の大切な人生を前にしたら明らかに一番どうでもいいことじゃないですか。だけど……」
その人は少しひび割れた唇を噛む。言葉を探している。血をにじませるようにして心を声にしようとする。
「ごめんなさい、初対面なのに人の暗い話なんか聞きたくないですよね」
その人はまた呑み込んだ。
「いいえ、私で良ければ聞かせてください」
私は、その人の言葉を聞きたかった。その人の身体にあふれんばかりに詰め込まれている花を全て吐き出せば、漂う死の香りも消えるのではないかと想像した。この魔法は、花の匂いのする誰かを救うためのものかもしれない。救済こそが、この魔法を持つ者の使命なのかもしれないとようやく思い至った。
私たちは灰色の空がすっかり暗くなるまで海を眺めていた。その日の後も、数日に一度、同じ場所にその人はいた。会うたびにその人は私にぽつりぽつりと話をした。元想い人の仕草、口癖、笑い方。会ったことも無い人の断片が言葉に編み出されて、私の耳から入ってくる。私の頭の中のイメージは、なぜか私の母に似ていた。
記憶を言葉にするのは、喉の奥で織物を織るかのようだ。花を編んで加工し、聞き手に届く形にする。時折、口の端から編み切れなかった花弁が飛んで、風に舞っていった。私はその花弁をじっと目で追っていた。
「いつも話を聞いてくれてありがとう。他に頼める人もいないし、私が死んだら灰をここから海に撒くのをお願いしようかな」
その人は笑って言った。
「死ぬなんて。縁起でもないことを」
返す私の声は少しかすれた。その人の灰をここから撒いたら、私はきっと花の雨を見るのだろうと思った。話しても話しても、花の匂いは消えない。依然、その人の身体中、花でいっぱいだった。きっと、胸を開けば心臓にも花が満ちている。その人は少しも癒されてはいないのだった。私はその人を救うことで救われたいと思っていた。でも、どれほど心を言葉に変換しても、変換することでは苦しみは癒えない。言葉にしたら、言葉にした瞬間、全く別のものになってしまう。花を編んだ織物は、花でできているけれど花と同じではない。良くてよくできたレプリカだ。全ては言葉で語り表せない。語るに落ちるのだった。
「だってさ、ね、……わかるでしょ?」
私たちの間を遮る波の音が急に大きく感じる。どんなに言葉を交わしても、どんなに長く時をともに過ごしても、どんなに近くに立っていたって、私たちの心の中は、実は別の宇宙のように遠く不可侵で無関係だった。
私は単なる観測者で、ただ花を知っているだけ。墓に咲く花を、灰に混じる花弁をただ見ているだけ。魔法は、たちどころに苦しむ人を救うものではない。そんなこと、私が魔法を譲り受けた時からわかりきっていたことだった。
ふと私はバス停にいた女の人を思い出していた。
「ねえ、魔法をあなたにあげる」
私はそう言っていた。私は今まで、心を吐き出さなかった。吐き出さずにためこんで、死んだ目で生きてきた。私もあの日のバス停の私と同じように花の匂いがするのだろう。でも、生きていた。人の死に咲く花を見て、その香りを嗅ぎ、なんとか今まで生きている。この魔法は、遠い宇宙を眺めるための望遠鏡なのかもしれなかった。決して手は触れられないが、光は確かにそこに見える。あのバス停で譲り受けた魔法は、今日まで私を連れて来た。
私はその人の目を覗き込む。やり方なんてわからないが、なぜか自然に身体が動く。その人は私の目の奥を見て、少し目を見張る。耳の中に響く波の音がだんだん遠くなって、何秒経ったのか、それとも何分も見つめあっていたのかわからない。そして魔法は譲られた。
「あなたの瞳って、深緑色だったんだ。初めて気づいたよ」
私はその人にさよならを言って、海を後にした。それ以上のやり取りはいらなかった。その人は、私の背中に花の香りを知るだろう。
「寂しい」とはなんて陳腐なレプリカだろう。失語の時、私は本当の心を言葉に変えなかった。変えなくていいのだ。「寂しい」なんて言葉でこの感情が表せていいものか。死者に言葉は伝わらない。言葉にしてもどうしようもない。だから、言わぬが花。
私はこの花束を胸に抱いて死ぬまで生きていく。あの人もきっとそうだったらいいと願いながら。




