終わらない冬
俺の足が砂漠の砂のようなパウダースノーを踏みしめる。風は無く、ブーツが踏みしめたその局所でだけ、さらさらの雪がわずかに舞った。次の一歩で、長らく一色だった視界が開け、俺は鋭い尾根の頂上に到達する。一旦膝に手を置いて息を整え、すがすがしく開けた視界を見渡す。見晴かす空は天頂から地平線にかけて藍色からだんだん薄くなっており、連なる白銀の山々の向こう側が、わずかに白んでいた。
少し上がった呼吸の音がして、リラが俺の横にたどり着いた。リラは雪の上に膝をつき、ほとんど四つん這いのようになって薄い空気をむさぼっていた。リラの顔は火照り、額には薄く汗がにじんでいた。すべての雑音は雪に吸収され、俺たちの呼吸の音だけが白と薄藍の世界に鳴っていた。雪は音を含めそれ以外も空気中のすべてを吸収して浄化し、ただただ世界は透明だった。
だんだん空が明るさを増していく。リラが背負っていたリュックを投げ出し、どさりとその場にあおむけに横たわる。俺がちらりとリラに目くばせをすると、リラは小さく頷き、少しの間背中から雪に体温を吸われていくのを感じた後で起き上がった。リラは登山後のしんどそうな表情から一変し、これからすることに対して真剣に集中した顔つきに変わった。もし魂というものがあるのなら、魂を燃やすような目だった。
リラはリュックの中から古びた楽器のケースを取り出した。厚手の手袋を外し、慣れた手つきで銀色のそれを組み立てていく。リラは軽く息を吹き込み、音を確認する。乾燥したとても寒い環境に一晩中置かれていたというのに、その楽器の音は少しも狂うことはなく、むしろ楽器演奏のためにつくられたどんな音楽ホールで聴く音よりも、美しい音が出ているようにさえ思えた。この楽器、ソラリオンは元々、雪深い山の奥深くが発祥の楽器らしいと俺は昔、リラと一緒に音楽教室に通っていたころ、先生に教わった。ソラリオンが雪山の山頂でこそ最も輝くことは自明なのかもしれない。この楽器は、澄んだ冬の音がする。
ひとつ、矢のように山の端から朝日が差した。ぱっと空が水色になり、黄色の光が当たった雪は、ラメのようにいっせいに輝いた。
リラは立ち上がる。もう息は乱れておらず、浅く安定した息が、白く細い煙になってリラの口から流れていた。世界中をまわるコンサートツアーが終わった直後の疲れた体を鞭打って夜中の登山を決行したリラは、疲れ果てて限界を迎えるぎりぎりというコンディションにも関わらず、その立ち姿は凪の海面のように穏やかに落ち着いていた。海の底のような深い集中が、観客の俺もいっしょに海底へ引きずり込む。ソラリオンの銀色がきらりと反射し、俺の目は眩みそうになる。リラが鋭く息を吸った。俺の身体中に一気に鳥肌が立つ。今から、早朝の山頂で、世界で最も孤独なコンサートが始まる。
ソラリオンは高らかに山々の間に響き渡った。朝日の矢がどんどんリラを刺す。天才奏者のもとで二十余年奏でられ、今日、とうとう本来のステージを与えられた楽器が、ほとんど奏者と一体になるかのようにしてその身体を震わせている。もうリラと楽器の境目もわからなくなって、あまりのまぶしさに俺は音楽の女神と見間違う。
リラは幼いころから才能があった。才能と努力、それを目いっぱいさせて貰える環境と先生に恵まれ、人生を犠牲に捧げて楽器の練習に明け暮れた。史上最年少で世界一の演奏家の名を欲しいままにし、コンサートで世界中を飛び回った。同じ歳で音楽教室に入った凡才の俺は当然、すぐにリラに置いていかれた。リラは時々こう言った。奏者には賞味期限がある。奏者は演奏の質を高めていき、それが頂点で極みに達し、芸術の粋に至った後、そこからはゆるやかに坂を転がり落ちていくだけなのだ、と。俺は中学に上がるときに音楽教室を辞め、リラと見ている世界が違ったから全く理解はできなかったが、それを語る言葉の重さで、リラが真剣に言っていることだけは確かだった。おそらく、彼女以外誰にもその感覚は理解できないのだろう。若くして階段を猛スピードで上ってしまった、孤高の嘆きだった。俺は音楽の世界とは距離があったため、逆に相談しやすかったのだろうと思う。
俺は楽器を辞め、演奏はただの趣味のひとつになったが、演奏を聴くことからは離れられなかった。耳ばかり肥えていくほどに、リラのすさまじさを思い知った。
だから、俺にはわかる。この演奏が頂点だ。膨大な時間と努力をつぎ込んだ技術の粋のはずなのに、それら全てを軽やかに手放し、その泥臭い鍛錬を一切感じさせない。ただ、この瞬間に生まれた音が、澄んだ空気を震わせて、何の執着もなく次の瞬間には無に消えていく。
太陽が山の端から顔を出す。空のグラデーションは弱くなり、水色の朝の空に塗り替わっていく。短い夜明けの時間が過ぎ去った。
演奏が終わる。リラはそっと唇を楽器から離した。途端にその指も唇も震えだす。リラは泣いていた。
「へ、へへ」
気の抜けた声がリラの喉から出る。人生で最高の演奏をした最高の瞬間に、その瞬間が最高の幸せであるがゆえに泣いているのだ。これから転がり落ちる未来を誰よりも知っていて、その不幸に絶望している。山に上ったら必ず下りてこなくてはならないように、人生のピークもそういうふうにできているらしい。
「これから、どうしよっか」
山に行こう、と言ったのはリラだった。どこのコンサートでもなく、雪山の朝日の中での演奏を人生のピークに合わせた。世界中にいる大勢のファンや記録映像の機械の前でなく、俺たった一人しか観客がいない場所を選んだ。顔を濡らしながら立ち尽くすリラからは、先ほどまでの全て飲み込むような圧倒的なオーラは消え、俺の前に立つのは、ただ不安そうに立ち尽くす無垢な少女だった。まるで、凡人のすべてのしがらみから離れた、異次元から来たような底抜けの透明感だけがそこにあった。もし演奏中のリラが音楽の女神だとしたら、今の彼女はまるで、生まれたての天使のようだった。音楽以外を知らず、音楽の粋を見てしまった後の天使。
「どうしたらいい? 私、もうわかんなくなっちゃった。これからどうやって生きたらいいの」
リラの涙はこの山の空気のように透明だ。俺はそれを拭おうとして手を伸ばした。思えば俺はずっと前から、リラの涙をこうして拭う役をやりたかったのだった。リラから音楽を取り払い、その肌に触れたかった。しかし、俺とリラの二人きりの銀世界という二度と望めないほどに美しい舞台に置かれ、この待ちわびた瞬間を迎えた時、俺は急にそうするのが嫌になった。リラの頬に指先が触れる直前にぴたりと止める。リラの首が少し傾げられる。
「ソラリオンを吹けよ。それしかないよ」
俺はポケットに両手を突っ込み、尾根にそって歩き出した。リラは俺の答えが意外だったのか、目を大きく開いてぽかんとしていた。
「私の演奏、どうだった?」
リラの言葉が追いかけてくる。少し心配そうな色が滲んでいて、いつ何時でも、誰の目から見ても最高の演奏をした後でさえ、その当たり前のようにクオリティの上昇を目指す習慣が健気だった。プロの演奏家としての染み付いた性か、もしくはその完成度への誠実さが彼女を今日まで連れて来たのかもしれない。
「最高だったよ」
俺はリラの涙を拭わない。ずっと泣き続けさせる。彼女が泣いている間は、彼女が最高の瞬間にいるということが保存され、持続する。幸せの淵で不幸を覗き込む、そのぎりぎりの最高に閉じ込める。音楽を超越した天使の手に、音楽という重りをもう一度抱かせる。
「吹け! もっと吹け! もっともっと、ずっと吹け!」
俺は山々に向かって叫んだ。いくら喚こうとも、どこまでも静かな雪の世界はこだまを飲み込んで、俺の声は響かない。
俺は天使のようなリラに、悪魔のような呪いをかける。不幸に閉じ込めることによって幸せをいつまでだって継続させる。
俺は鋭い尾根の上を走り始める。後ろからリラが、あわただしく楽器をケースに仕舞い、リュックを掴んでよたよたと走ってくる足音がしている。緊張から解き放たれ、溜まっていた疲労と忘れていた寒さがリバウンドのように一気に彼女を襲い、足をもつれさせているのだろうということはわかっていたが、俺は振り返らなかった。ただ朝の光の中を走っていく。全力疾走をしたのは何年ぶりだろうか。空気が薄くてすぐに息が上がる。
「待ってよ! ねえ! 置いていかないで!」
俺はただ走った。冷たい冬の風が喉を裂いても止まらない。止まってやるものか。天使よ凍れ。今ここで、終わらない冬に凍ってしまえ。滲んだままの視界で走り続ける。振り返ってこのぐしゃぐしゃの顔を見せてしまったら、この呪いは解けてしまうような気がしていた。




