やっぱりメロンソーダ
『果汁0%』の続編。
「やっほー、榊」
後ろから声をかけられて、俺は水道の蛇口を閉め、振り返った。
「見て、これが俺のクラスT」
青田はその場でくるりとターンして、新品のTシャツを見せびらかした。黄色と水色のコントラストが鮮やかな、炭酸飲料のパッケージをパロディしたデザインだった。クラスメイトの名前が原材料表示のように羅列して印刷されている。
「大好きなメロンソーダのデザインじゃなくて残念だったな」
俺は学校指定ジャージの肩口で口元を拭い、空になった水筒に水道水を入れる。真夏の暑さもいくらか和らぎ、空の色も薄くなってきたこの頃だが、晴れた放課後に小一時間ソフトボールをすると、全身から汗がにじみ出す。
「それとなく話し合いの時に意見してみたけど、あのメロンソーダが好きなやつってなかなかいないみたいなんだ。古き良きで俺は好きなんだけど、どうもコマーシャルがウケない。消費者とのコミュニケーションが不器用なんだよね」
青田はあるレトロなメーカーのメロンソーダをこよなく愛していた。最近、そのメロンソーダは果汁比率を変えたことで少しニュースになったが、青田は今も変わらずそのメロンソーダが好きなようだった。曰く、改良前と後で確かに味の違いは見受けられるものの、ゆるぎない本質が貫かれているからいいらしい。正直俺には改良前と後で味の違いがよくわからなかったが、それを好きな人にとっては、小さな違いも拡大して見えるものなのだろう。青田が饒舌にメロンソーダの話を始めたので俺は適当に受け流す。
「ところで、青田は何の種目に出場するんだ?」
俺たちの高校では、ちょうど一か月ほど先にクラスマッチが予定されていた。二日間に渡って開催される体育祭で、クラスごとにいくつかの種目で勝敗を競い合う。二日目の最後の閉会式では、勝ち点のポイントが多いクラスが表彰され、見事名声と打ち上げのための景品が贈呈される。
「俺はフットサルに出るよ。フットサルの雰囲気はゆるめだから、今日は練習無いんだけどね」
もちろん、全ての生徒がスポーツが好きだったり、得意だったりするわけではない。それぞれのクラスの中では、やる気に燃えた人員を集めて全力で勝ちに行く種目と、そこまで熱量や自信のない人を集めた種目というものがある。青田は運動がそこまで得意ではないので、進んでフットサルのメンバーになったのだろう。
「フットサルはたぶん予選落ちだろうけど、うちのクラスはソフトボールが強いからなー。そのへんが頑張ってくれるよ」
青田の視線の先には、俺のクラスが撤収した後のグラウンドを使って、青田のクラスのメンバーが練習を始めていた。
キャーという女子の興奮したような悲鳴が聞こえて俺は目を凝らす。ソフトボールを練習しているグラウンドの傍に、観客の集団がある。
「随分人気だな」
青春には当然恋愛というものがつきものだが、青田のクラスの男子の中に、女子たちの注目を欲しいままにしているやつがいるらしい。
「宗田はモテモテなんだよ。閉会式では大変なことになるかもね」
俺は一年生なので去年までの様子は知らないが、噂によると閉会式は生徒会によって勝ち負けなしに楽しむレクリエーション的なゲームが企画され、ほとんどお祭り騒ぎのようになるらしい。レクリエーションでは、好きな人に告白したりされたりなどといった暗黙のイベントが期待されている。どんなに恋愛方面に縁のない学校生活を送っている俺でもはっきりわかるほど、すでに学内の雰囲気は浮足立っていた。
俺は水筒をバッグに入れて背負った。
クラスメイトにひょいと手を挙げてさよならの合図をすると、青田と共に校庭の端を突っ切るようにして下校する。ソフトボールを見ている女子たちの集団の後ろに通りかかった時、聞き覚えのある声がして、思わず俺は顔をしかめた。
「校則で化粧は禁止されています。近々クラスマッチがあるからといって、それを破っていい理由にはなりません」
見ると、観客の集団に向かって食って掛かる女子が一人いた。長くつやのある黒髪を流し、制服は一切着崩さずにセーラー服のリボンは几帳面に結んである。陶器のように透き通った白い肌と、やや目じりの吊り上がった勝気な目。真宮だった。
「マスカラとリップ、それと香水してますよね。それにその髪も、アイロンで巻いてるんじゃないですか?高校生としてふさわしくないので止めてください」
言われた女子たちはひそひそと言葉を交わし、互いに目くばせしあっていた。
「あんたに何の権限があって私たちに文句言うの?風紀委員だっけ」
ジャージの色からおそらく二年と思われる女子生徒が口を開く。いかにもおしゃれが好きそうな雰囲気で、下級生にいちゃもんを付けられたことにいら立っているようだった。リップなどの軽い化粧は先生たちにも黙認されている風潮がある。
「私は風紀委員ではありません。しかし、この高校のいち生徒として、意見する権利はあります」
「あっそ。嫌なら先生にでもチクれば?たぶん、これくらいのおしゃれで目くじら立てるようなことにはならないと思うけど。あんたもどうせ社会に出たら嫌でもしなくちゃならないんだから、今のうちに化粧の勉強でもしたらどう?」
「今は社会に出たらの話はしていません。ただ私は、」
「おっと、それくらいにしておこうよ、真宮さん」
青田が二人の間に体を割り込ませた。真宮はむっとして口を開こうとしたが、その瞬間、カキーンという小気味よい音とともにヒットが出たので、全員の目はそちらに引き寄せられた。真宮は青田と俺をにらみつけると、すたすたと校門から出ていった。
真宮は、いつもまっすぐだった。曲がったことが我慢できず、正しい方向へと正そうとし、その労力を厭わない。学生運動やデモなんかの極端な思想を掲げる団体に率先して参加していくタイプで、この高校に来てからも「革命部」という部活を勝手に立ち上げ、この学校に革命を起こすべく、一人、賛同者の少ない活動をしていた。
「化粧くらいいいじゃんと思うけどね。かわいい女の子が増えて目に得だし」
青田は身も蓋も無いことを言う。
「俺は化粧してようとしてまいと正直違いがよくわからん。したいやつはすればいいし、したくないならしないで、周りの人のことは放っておけばいいと思うな」
「女の子の小さな変化に気づけないやつはモテないよ」
真宮はそれからというもの、本格的に革命活動を開始した。昼休みに校舎の窓からよく見えるロータリーにプラカードを持って現れ、化粧を止めるように訴えを始めた。先生方は、真宮の主張が校則に乗っ取った正論なので、真宮のするがままにさせていた。おしゃれ好きな女子たちからは当然煙たがられていた。今まで伝統的に黙認されていた校則、誰も気にしていなかった小さな自分磨きを禁止せんとする動きに、反感を覚えていった。
「自分がすっぴんでも十分かわいいからって、調子に乗りすぎだよね」
廊下ですれ違った上級生の会話にこんな嫌味が聞こえてきた。実際、真宮は美少女と言って差し支えない顔の造りをしていた。まっすぐに切りそろえられた、くせのない綺麗な髪も、日焼けを知らないような白い肌も、どこか神聖な美しさを秘めていた。入学早々、革命部とかいう奇抜な活動で有名になっていなければ、今頃告白の一つや二つ受けたことがあっても驚かないだろう。
もともと真宮は、学校生活において一人で行動していることが主だったが、ここ数日で、彼女を見る視線は冷たいものに変わり、明確に避けられているようだった。男子にとって化粧の禁止はダメージにならないので、男子全体の雰囲気としては無関係を装っていたが、頑固なまでに規律を重んじる真宮のやり方に息苦しさを覚えているのは確かだった。
「今日、真宮さんが先輩に呼び出されたらしいよ」
昼休み、焼きそばパンを食べながら青田が言った。
「美しくありたいと思うのは女性の本能みたいなものだし、その制限は目に余るんだろうな」
「榊は心配じゃないの?」
「あいつが始めたことだ。文句を言われることも当然覚悟してるだろう」
「でも、先輩五人に囲まれるのはさすがに怖いんじゃないかな」
「先輩五人?」
真宮と三年生の男女五人は放課後、屋上に集まっていた。
「ソフトボールの人たちには何て言って出てきたのさ」
「先生と話があると言ったらそれ以上は聞かれなかった」
俺と青田は塔屋のドアを細く開け、その様子を覗き見た。屋上は見晴らしが良く、開けてはいるが、人通りがあまりにも少なかった。真宮は自作のプラカードを足元に置いていた。
「あのさ、君が校則についてのキャンペーンをしているのは知ってる。ただ、そういうのは生徒会、特に風紀委員の仕事なんだよ。風紀委員としては、君ほど厳しく化粧を取り締まるつもりはないんだ。とりあえず、クラスマッチが終わるまでは化粧についての訴えは控えてもらえるかな」
三年のおそらく風紀委員の男子生徒が言った。
「いいえ、控えるつもりはありません。毎年、クラスマッチではほとんどの女子が手の込んだメイクやヘアセットをしていて、むしろしていない人の方が少数だと聞きました。私はその風潮は間違っていると思います。クラスマッチはそもそもスポーツを通じてクラスの団結をしたり、運動のすばらしさを感じるイベントであるはずです。メイクをした方が強くなるとかないですよね。化粧を許せば、仮装大会になり果てると思います」
真宮は毅然とした態度で言い放った。
「私たち、最後のクラスマッチなんだよ。できるだけ楽しく、思い出に残るような、例年に乗っ取ったイベントとしてつつがなく行いたいの。これはみんなの民意なの。空気読んでよね」
おそらく本音であろう発言が、三年の女子生徒から出た。体育委員長の男子生徒が進み出る。
「僕たちは例年通りのやり方で楽しみたいだけなんだ。君が風紀委員長とかなら話は別だけど、君はただのいち生徒だから、今までのやり方にあまり口を出して欲しくない。プラカードは没収させてもらう。君が掲示板に貼り付けたポスターもね。本来、あの掲示板は生徒会のものだから、張り紙をするときは連絡しないといけない。君は校則について訴えているけど、君だって校則を破っているんだ」
「私が委員長じゃないのは、私がまだ一年だからです。まだ生徒会選挙にだって参加していない。掲示板については謝りますが、私が今ある環境を変えようと思ったとき、できることはそれだけなんです。私が逆らえない状況から無理やりに押さえつける、これって独裁的な政治的圧力なんじゃないですか」
真宮はなおも食い下がる。強い言葉を使われてむっとしたのか、五人の顔が険しくなる。
「……革命家気取りだか知らないけど、とにかく、止めてもらうから。これは警告だよ。これ以上続けるようなら、私たちにも考えがある」
五人は真宮のプラカードを拾い上げると、塔屋の方へと歩いてきた。俺と青田は慌てて階段を降り、適当な廊下の角に隠れた。五人が去っていった後、一人の女子生徒が屋上への階段を上っていった。
「真宮さん、もういいんです。私のために多くの人を敵にしなくたって」
リボンからして一年の女子が真宮に言った。青田のクラスメイトだ。
「メイクしようがしまいが、最初から宗田君は私なんかに興味ないかもしれないし」
「いいえ、止めない」
真宮はフェンスの向こうの街を鋭い目つきで見つめたまま言った。
「だってそんなの平等じゃない。秋保さんのチャンスが、たかが経済力で諦められていいはずがない。しかも、使うことが許されていない場所で、ルールを破って使ったもので自分を底上げして他人の目をくらますなんてあってはならないわ」
化粧という課金アイテムを使用禁止の場所で使用することで、好きな男子の気を引こうとすることが、ずるいということだろうか。秋保の家庭では経済的に化粧の道具を買ってもらえない事情があるのだろう。そして真宮はそれを見過ごすことができない。真宮はどこまでも平等にこだわり、絶対に自分の芯を曲げないのだ。
「目をくらますなんて……。そもそも、顔どころか内面も大して魅力がない私が、かわいい子から化粧を取り上げて私と同じすっぴんで勝負しようったってスタート地点は同じになんかならないの。最初から勝ち目のない勝負だったんだよ。私は私の劣等感を負けた時の言い訳にしたかっただけ。私が弱いだけだったんだ」
秋保は眼鏡の上から涙を隠すように腕で押さえ、そのまま屋上を後にした。
屋上に取り残された真宮が、夕焼けに照らされていた。長いまつげの陰が、顔に伸びていた。言葉を紡ごうとして少し開いたままの口が、少し震える唇が、俺の脳裏にしばらく残って消えなかった。
「わ、メイクしてなくてもかわいいね」
廊下ですれ違った、おそらく体育の授業終わりの女子に青田が声をかける。声をかけられた女子はぽかんとした顔をしていた。
「急に何してるんだよ、ナンパか?」
俺は謎に前腕に立った鳥肌をさすって言った。女子とはだれとでも友達程度の付き合いしかなく、それ以上の関係をそこまで欲していなそうだと思っていた青田から、砂糖でも吐きそうなほど甘い言葉が出てきたので俺はぞっとする。
「違うよ。俺なりのキャンペーンさ。あ、君も、メイクなしですごくかわいいね」
次の角を曲がって、別の女子が目に入るなり青田は言う。その言い方が、「おはよう」という挨拶と同じくらいの気軽さと爽やかさを持っているため、言われた側も思考が追い付かずにキツネにつままれたような顔をするしかなく、それを聞いた傍観者も、セリフの違和感に一瞬気付けずにいるという有様だった。
「あ、メイクなしでも、……こんにちは」
年配の女性教員にも同じセリフを吐こうとして、直前で方向転換する。正直俺の目から見ても彼女の化粧は濃い。
「青田、今日はどうしたんだよ、やけに陽気だな」
青田のクラスメイトと思しき男子生徒が少し笑いながら言ってきた。陽気、か。たしかに今日の青田はイタリアの男のように明るく嫌味のない感じになっていた。
「自主活動中なんだ」
青田はごく普通の調子で言った。
一週間が経つ頃には、「メイクなしでかわいいね」は校内で一大ブームになっていた。そのセリフが、言葉自体の意味をどんどん失って、ミームという記号になっていったという感覚の方が近い。 男同士でも女同士でも、ことあるごとに、「おはよう」を言うようなテンションで、さらりとそのセリフを言いあうのが流行だった。特に、男子から女子に言うと盛り上がりがあるため、人気だった。
青田はクラスの中でも目立って率先してブームを作っていくというタイプではなかったが、誰からもほどよく好かれ、良い友人関係を築いていただけあり、青田がなにか面白いことをやっているから便乗してみよう、という男子によって広まったものと思われる。このブームは一年だけではなく、そのうち上級生にも波及し、リップなどを付けているだけでこのセリフを言われ、なんとなく気まずくなって、笑いながら化粧品をポーチにしまうという流れができ始めていた。
真宮は突然のこの流行に戸惑いながらも、自身の目的は達しているため、プラカードやポスターといった大っぴらな活動は縮小していった。
やがてその雰囲気をひきずったままクラスマッチが開催された。一部の女子の中には化粧をしてくる人もいたが、大半はしていなかった。競技が始まってしまえば、自分の容姿などよりも、自分のクラスメイトのプレーを応援するのに夢中になっている生徒がほとんどのように思えた。このように一日目はスポーツの熱狂とともに終わった。
「榊君、話があるんだけど」
二日目の昼、俺のクラスのソフトボールの試合が準々決勝で敗れて終わり、俺が一人で校庭の隅の水道に水を汲みに行ったとき、あまり関わりの無かった同学年の女子三人から声をかけられた。
「なにか?」
俺が振り返ると、三人は顔を見合わせあい、しばし無言で作戦会議した。やがて一人が話し出す。
「あのミーム流したのって、榊君でしょう」
予想外の方向からの言葉だったので俺は戸惑う。
「ミーム?メイクなしでも、のやつか?あれなら俺は関係ない」
「嘘。榊君は真宮さんとつながりがあるよね。真宮さんにあのミームを流行らせるようにってお願いされたんじゃないの?」
「いや、本当に関係ないんだ。むしろ俺は真宮と逆で、化粧したければ勝手にすればいいと思ってる。俺にとっては正直、化粧してようがしてまいが、あんまり違いがわからない。つまり自己満足の領域だ。そんな俺が真宮の活動を応援するわけないだろう」
「女の子の変化に気づけない男はモテないよ」
「よく言われる」
「私たちは、たとえあなたや他の鈍い男たちに自己満足だと言われようが、メイクがしたいの。できるだけかわいくありたいんだよ」
「化粧しさえすれば無条件にかわいくなれるのか」
「もちろん」
「かわいくありたいっていうことはわかったけど、俺に何をしろって言うんだ。真宮に関しては本当に関係ないし」
「あなたに、真宮さんを止めてほしいの」
女子生徒は言い放った。あまりに無茶な要求に、はぁ?という言葉が喉から出そうになる。
「真宮さんと中学が同じだったんでしょ?じゃあ友達だよね。真宮さんを説得して、ミームも止めさせて、それで私たちが堂々とメイクをして閉会式を楽しめるようにしてほしいの」
俺は頭を抱える。真宮も相当面倒くさい人間だが、目の前の三人も負けず劣らずに厄介だ。
「暴論だ。俺と真宮は関係ないって話したばかりじゃないか。突然一方的に要求してくるなんて、やってること強盗に近いぞ」
「見返りがあればいいわけ?」
「なんでそんなに上からものを言えるのかわからないが、まあ、見返りは欲しいかな」
「じゃああなたにメイクの威力ってものを教えてあげる。メイクでどれくらい人が変わるのか、その目に見せる。自己満足だなんて思ってるその価値観をすっかり変えてあげる」
なんてエゴだ。即座に断る言葉が舌先まで出かかったが、俺は吞み込んだ。
「いいだろう。まず、その超変化ってのをしっかり見せてもらおう。それで俺が納得したら真宮に話をしにいく。それでいいか?」
簡単な話だ。俺が納得しなければいいだけの話だ。面倒なことからなんとかうまく逃避しようとばかり考えている、打算的な俺の思考を知ってか知らずか、女子生徒は試合開始前の握手よろしく、頷きながら俺の手をしっかりと握った。
「うわぁ!榊!見てないで助けて!」
目の前で青田が女子に拘束され、顔面にいろいろなものを塗りたくられている。彼女たちが求めていた、ミームを流行らせた張本人がそいつだということを黙っていることで許してほしいものだ。一年生は上級生との体格差もあり、ほとんどのクラスが昼頃までで敗退し、特に応援する試合もなく、自分たちのクラスでのんびり過ごしていた。夕方の閉会式まではまだ時間がたっぷりあった。
すっかり女子たちの玩具になって、かわいらしく変身させられた青田は鏡で自分の顔を見て驚愕する。
「俺じゃないみたいだ」
「どう?ちんちくりんの男でも、メイクするだけでこんなにかわいく変わったでしょ?」
俺は神妙な顔をして、首を振る。
「いや、よくわからないな」
女子たちは舌打ちを隠すこともせず、青田を放り出し、そのへんにいる他の男子を捕まえてきた。その男子もあれよあれよという間に変身させられていく。当然こいつの出来も却下だ。認める訳にはいかない。女子たちは躍起になってそのクラスにいた男子全てに化粧を施し終えると、他のクラスにも新たな顔面を求めて出動していった。そして、化粧をした男の顔面を俺の前に次々に突き出していくというカオスな空間が展開された。
化粧された男たちは俺と女子の攻防など気にも留めず、お互いの顔を見合わせて大笑いし、記念写真を撮ることに興じていた。
「ええい、もう男子はやめましょ」
女子たちはやがて自分の顔に化粧を始め、化粧ポーチを持っていない女子にも化粧を施しあった。秋保の顔が目の前に突き出されたときにだけ、一瞬首を縦に振りかけたが、すんでのところで持ち直した。
突然、ガラッと勢いよくドアが開き、教室にいた全員がそちらを振り返った。そこにはクラスTシャツを着た真宮が立っていた。普段、全く気崩すことなく制服を着ている姿が印象に強く残っていたせいで、一瞬それが誰かわからなかった。
「何してるんですか。こんなに大勢で」
真宮は言った。教室が鎮まる。おしゃべりの声は止み、ぴりっと緊張が走る。
「いいところに来た。真宮も化粧してもらえよ」
俺は言った。真宮が次の言葉を言う前に、秋保が動いた。真宮の手を取って、女子たちが固まって座っている場所まで連れてきた。女子たちは一瞬、お互いを伺いあうように目を合わせあったが、真宮をその中心に座らせた。部屋の緊張が解ける。少し心臓がうるさかった。俺は組んでいた足を組み替えた。真宮の狙いは秋保の不平等を是正すること。秋保がみんなと同じ顔面レベルを手に入れた今、もう化粧の撤廃にこだわる理由は消えていた。
『体育委員会です。ただいま、結果の集計が終わりました。閉会式を執り行いますので、クラスごと校庭に集合してください』
放送が入った。皆、席を立って教室を後にした。
『優勝は3年4組!おめでとうございます!』
表彰と景品の授与、集合写真の撮影が済むと、あたりはもう夕暮れだった。俺のクラスではフットサルで3位に入賞し、小ぢんまりとした景品をもらっていたようだったが、準決勝の試合を応援していたわけではなかったので、同じクラスながらもあまり実感が湧かなかった。
『さて、これからはレクリエーションの時間になります!クラスの垣根を超え、大いに楽しんでください』
放送が入り、体育委員会の会員によって何かが個人に配られ始める。
「え、何これ?」
あちこちで困惑した声が上がり始める。俺は体育委員長から涼しい顔でそれを両手に受け取り、彼にひょいと会釈をした。
『今年のレクリエーションはパイ投げです!上級生、下級生、クラス、何にも関係ないので、思いっきりパイを投げ合いましょう!』
その号令と同時に、あちこちから悲鳴や興奮した笑い声が聞こえた。誰も彼もがぐちゃぐちゃで、クリームと黄昏の時間のせいで、誰が誰かなんて大して判別できなかった。
前から走って来た誰かに思い切りパイをぶつけられ、視界が一瞬消える。
「榊、もしかしてこれ、全部計画のうちだったのかい?」
目を拭うと、目の前にはすでにぐちゃぐちゃの顔になった青田が立っていた。炭酸飲料を模したクラスTシャツも汚れきっている。近くでは女子がせっかくメイクしたのに、と嘆く声がしていた。しかし、その声は楽しそうに笑っていた。女子はさきほどせっかく作った顔面を守ろうと逃げまどい、男子が笑って追いかける。すでに顔面が汚れた女子もその集団に加わっていた。
「さあな。ただ、高校生活に必要なものは高価な化粧品なんかじゃなくて、スポーツとエンターテイメントなんじゃないかと思っただけさ」
俺は体育委員長に直談判をし、今年のクラスマッチ閉会式のレクリエーションの企画について提案を行った。委員長は俺の提案を聞き入れ、実現してくれた。見た目よりも楽しい思い出を重視する彼とは意見が一致していたことが大きかったと思う。これが毎年の新たな慣習になれば、そのうち化粧に熱を入れるのが馬鹿馬鹿しいと気づく人も多くなっていくだろう。そうなればもうこんな議論や争いも必要ない。俺の将来の学生生活はさらに平穏になっていくというわけだ。
「自主活動だ。確かに青春には汗と笑いしか必要ない」
青田はうれしそうに言って、もうあまりクリームの残っていない紙皿を俺の頭にこすりつけた。
「まさに革命だね」
ヒューウ、という長い口笛と拍手、にわかに背後で盛り上がりがあり、俺たちは振り返った。秋保と宗田が向かい合って立っていた。顔を真っ赤にした秋保の口が少し動く。宗田が頷いて、二人はおずおずとぎこちなく歩み寄り、握手をした。拍手が大きくなり、観衆が二人にパイを持ってとびかかる。気づくと隣にいたはずの青田が俺の左手のパイを奪って、宗田の顔に押し付けに行っていた。
「榊君」
声をかけられて振り返る。思わず俺は息を呑む。さっきまで俺に理不尽な要求をしてきた女子に謝らないとな、と俺はぼんやり思う。放送が入るまでの短い間に施された化粧だから、ごくごく簡単なもののはずなのに、真宮はまるで別人みたいだった。
少し俯いた真宮の顔はまだ誰のパイでも汚れていなくて、頬に差した紅が輝いているように見えた。普段と同じようにきっと結んだ唇も、薄桃色に色づいて、誰も寄せ付けないような雰囲気はいくらか丸くなっていた。長いまつげの隙間から上目遣いに俺を見る。
「あのさ、」
小さい声で言う。笑いだしたいくらい不器用なコミュニケーション。どんなに見た目が変わったって、真宮の本質は何も変わらない。いつまでもまっすぐそこにあり続けるんだ。俺は俺の自主活動がそれを守ったことを確信して頷いた。すっかり満足した俺は、もうこれ以上真宮の口から言葉なんかいらなかった。
「わかったよ」
俺は真宮の顔に右手に残ったパイを思い切り押し付けた。




