嘘を売る旅人
その男は、旅人にしては軽装だった。
「ちょっと、俺の話を聞いてくれないかな。お礼は、今晩の宿一泊分でいい」
真夜中にコンビニにでも行くかのような、Tシャツと短パン、ペラペラのサンダルを履いていた。
「お兄さん、すみませんけど当旅館ではそういう支払いは受け付けてないんですよ」
僕はパソコンに視線を戻しながら言った。少し操作して確認してみたが、今日の予約は無い。僕の家族で経営している小さな旅館は、さびれた山奥で細々と続いていた。ほとんど両親の趣味のような経営だった。
「君、一人で店番してるのかい」
「まあそうですね」
僕はパソコンを閉じる。両親は税務署関係の用事を別の部屋でリモート通話しながらこなしており、その間僕はひとり、フロントに座ってスマホのソシャゲの周回にいそしんでいた。
「手元で仕事しながらでもいい」
男はカウンターに少し体重を預けるような恰好で立つと、今にも話したそうに唇を舐めて湿らせた。
「どうしてこんな山に? 何も面白いものはないと思うんですが。終バスが行ってしまう前に里に下りた方が賢明です」
「観光だよ。面白いか面白くないかは、俺が自分で行ってから見て決める。俺は旅行が好きなんだ」
「ネットで調べなかったんですか? この辺は本当に山しかないですよ。あと、このホテルは基本的に予約なしのお客様を泊めないことも調べればすぐわかります」
僕は少し呆れる。この情報化社会で下調べもせずに旅をする人があろうか。
「山。面白いじゃないか。見渡す限り山しかない場所なんて、君が思うよりも珍しい特色なんだ」
旅について馬鹿にされたと思ったのか、男は力を入れて話す。
「そうですかね。どこにでもある田舎だと思いますけど」
「君のその言葉は、インターネットで見た情報からだろう。君は自分の足で各地に出向いて旅行したことはあるか? 君が家で画面を見ている間に、君の街を一つ残して、世界はすっかり砂漠になってしまっているかもしれないぞ」
「砂が飛んでこないので嘘ですね」
考えてみれば、僕は生まれてから今までこの町を出たことがない。しかし、現代においては科学が発展し、グーグルマップで世界中を疑似的に、しかも安価に旅をすることも、望みさえすればVRや仮想現実によってその街をリアルに歩いている体験もできる。ここ数十年で旅行という産業は急速に廃れた。人は基本的に物理的な移動をしなくなった。移動するのは物だけだ。地球環境への負荷軽減のためにも、人の移動はあまり推奨されておらず、最近では一度も生まれた街を出ずに一生を終える人も少なくない。旅行産業の衰退の代わりに、旅行のリアルな疑似体験ができるデバイスやソフトの販売が充実した。
「この町から二つほど山を越えた場所には湖が広がっている」
「知ってますよ。ワカサギとか釣れるところですよね。VRで行ったことあります」
旅行体験は僕の趣味の一つでもあった。男とは違うが、僕も僕なりに旅が好きだ。家の中でリーズナブルに汗一つかかずにいろいろな場所へ行ったかのような経験が得られるスマートな趣味だ。この趣味が広まったおかげでホテル産業も大きく衰退してしまったのだが、時折この男のような、実際に自分の身体を移動させて旅をする珍しい趣味を持った人を相手に商売をしていた。
「その湖には実はワカサギはいないんだ。湖は一面が緑色の藻で覆われていて、ヘドロみたいな匂いがする」
「そんなバカな。僕はバーチャル釣りもして、郵送されたワカサギを食べたこともあります。隣町の一大産業なんですよ」
「あくまでバーチャルの体験と、郵送だろ。実際に俺は湖を見てきたんだから間違いない。隣町の人に話を聞いたら、近くの川が氾濫によって流れを変えて、そのせいで湖の水質が変わったようだ。急に魚があまり住まなくなった。湖の臭いに我慢できなくなった住人は引っ越した。地域産業を失った住人だが、別に困らなかった。今まで通り綺麗な湖がある振りをすることは簡単だったからな。ワカサギは別の業者から仕入れた物を横流ししているらしい。以前のような天然ものじゃないけど、養殖された魚は管理されているから脂がのっていて、これはこれで美味いと思うぜ」
「バーチャル旅行は、それが本物の現地の様子を誠実に表しているという保証がついているんですよ」
「本物の昔の風景だから別に嘘ではないよな。第一、視聴者はだれも確かめないんだから保証する側はよく考えてないと思うぜ」
男は僕の言葉を一蹴して続けた。
「そんなことより、俺は隣の町の魅力的なところに気づいたんだ。隣の町を山に登って見下ろすと、その緑色になった湖を見下ろせる。その緑は上から見るとまるでエメラルドみたいにきれいなんだ。周りに建物がなく、白い石の岸辺だから、まるで巨人の落としたブローチみたいだ。俺は数日その山を歩き回って、綺麗に湖が見れる場所を探した。そして俺は最高のスポットを見つけた。そのスポットは老木が倒れて洞穴になったようなものが崖の上にあって、その穴の中に座って崖の下を見下ろす。近くに花畑があるから、時々顔を撫でるそよ風に交じって、やわらかい花の匂いがする」
男はよく滑る舌ですらすらと情景を話す。まるで物語を語るかのような見事な語り口で、僕は思わず夢中になっている自分に気づく。
「写真とかあるんですか?」
僕はその情景を想像しながら思わず聞いていた。見たことのない美しい風景を見てみたい。これは時代がどれだけ移ろっても変わらない人間の性であり、バーチャル旅行が流行した背景なのかもしれない。
「あるよ」
男は短パンの尻ポケットからアナログに印刷された写真を一枚出して僕に手渡した。崖を背にして撮られた木の洞窟の写真。老木の背景には白い花の花畑が見える美しい風景だった。木の枝が地面に立っていて、そこに青いハンカチが結び付けられていた。男はポケットからハンカチを取り出して見せる。
「本当にあるんだ」
「信じなかったのか? バーチャルに映し出されるものだけを信じているようじゃだめだ。俺が旅をする理由がわかったかい」
僕はパソコンでその湖や山のことを調べたが、情報は出てこなかった。
「そりゃ出てこないよ。秘境だからな」
「その写真、もらってもいいですか? そしたら今晩泊めてあげてもいいですよ」
「よかった。もちろんあげるよ」
僕は男のために部屋を用意した。僕はその晩、その写真をずっと眺めていた。僕が認識している世界、つまりバーチャルな画面を通した世界と、現実は違うのかもしれない。情報化社会に染まっていると忘れがちな当たり前のことに気づかされたようだった。
「ふわぁ、よく眠れた。ありがとう」
男は翌朝、フロントにやって来た。相変わらず、軽装備である。寝ぐせの立った髪をかきながらあくびをする。
「こちらこそ、素敵な写真をありがとうございました。世界には本当はこんなに素晴らしい場所があることを、あなたと僕だけが知っているなんて、とても嬉しいです」
「そうか。そんなに喜んでくれるとは」
「そういえば、この写真には湖が映っていませんよね。エメラルドのブローチみたいな綺麗な湖、もしその写真も持っていたら最後に見せてもらえませんか」
男はしばらく僕の顔を見つめ、それから言った。
「無いよ。湖の写真は持ってない。だって湖は枯れてしまっていて、ちっとも美しくないからな」
「えっ」
僕は混乱する。
「いやだって、昨日話してくれたじゃないですか。美しいんだって」
「信じたのか? 人から差し出されるものだけを信じているようじゃだめだ。俺が旅を続けられる理由がわかったかい」
男はひらひらと手をふって旅館を出ていこうとする。
「まさか、この写真はAI生成の写真とかですか」
「そうかもな」
「じゃあ詐欺じゃないですか。湖にワカサギはいるんですか? 藻に覆われてるんですか? それとも枯れているんですか? 嘘なんて最低だ。やっぱり宿泊費を置いて行ってくださいよ」
男は振り返る。
「嘘が最低? 何が嘘かも自分でわからないのに? 現時点、君に出来るのはどちらの情報を真実と信じるかだよ。君は旅人ではないんだから。情報と現実は常にどこかズレている。真の旅人はそのズレを楽しんでいる。バーチャルな旅で満足している君はただ、美しいものを見たいだけの偽の旅人さ。君は昨日、美しい湖を信じたんだろ? それで結構じゃないか。俺は、美しいものだけを信じていることも幸せだと思うけどな」
僕は理解する。軽装備で何とかなるのは、この情報化社会に飼いならされた人たちをだましながら各地を転々としているからだ。きっと、宿も、服も、食べ物も全てその良く回る口と小細工じみた合成写真で煙に巻いてきたのだろう。
「俺は話しでみんなを幸せにしているのさ。今はもう過去の娯楽と称される、小説家とでも呼んでもらおうか。昨晩は君とおしゃべりができて楽しかったよ」
男は旅館を出ていった。手の中に残る合成写真は、まるで現実に実在するかのようにリアルで、本当にあってほしいと願うほど美しい風景だった。
僕は追いかけようとして、やはりやめた。家から出ない僕には到底追いつけそうもないような気がした。男は嘘を売る旅人だった。
嘘を愛したっていいじゃないか。創作と真実の境界が曖昧になったら、虚実の判定から目を逸らし、自分の美しいと思うものを愛でるしかない。




