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十二になるまで世話をしてくれたメイドの名を呼ぶことなく、リオウは訊いた。正直言って彼女の名前は忘れている。この世界に長くいるリオウは、名を覚えることがいかに無意味なことか知っているからだ。出会う人間はほとんどが数分後にはもう二度と言葉を交わすことができなくなる。名を呼んでも返事が来ることはない。それなのに名を覚えて何になるのだ。
しかしレンだけは矢張り特別なようだ。記憶の奥底にレンとの思い出が残っていたとしか考えられない。そうでなければレンの名を呼ぶことはできなかっただろう。
「事故死として片付けられたけど、母の死顔はそんなものではなかったことを語っていたわ。そして<ブルー=ムーン>の一員に訊いたら殺したのはあの男だと、あっさり肯定したの」
「調べたの?」
「必死でね」
「どうやって」
「……」
何気なく訊いたリオウの膝に跨り、レンはリオウの首にその細くしなやかな腕を絡ませた。レンの体温を服越しに感じる。人の体とは、こんなにも熱いものだったのかとリオウは思う。
「こうやって」
そのまま顔を近づけようとするレンの腕を掴んで止め、リオウはレンが跨る足をよけるようにソファから立ち上がった。レンは表情を変えずにリオウの膝から降りる。
「……レンは、変わったね」
「変わらなくちゃいきていけないもの。貴方こそ、変わったわ」
「俺が?」
別のソファに移動して腰を下ろし、リオウは頬杖をつく。レンから離れなければリオウの心音が届いて聞こえてしまいそうな気がしたからだ。
らしくもない、とリオウは思いながらもどんな小さな可能性も排除する暗殺者の癖で行動に移す。
レンはリオウがそのようなことを考えているとは知らないまま、リオウが座っていたソファに座り直して目を閉じる。
「貴方は、何も見なくなった」
「……」
レンの言葉の意味を考えるリオウにレンは微笑した。それは十二年前の面影を残していた。十歳のレンが、二十二になっているであろうレンと重なり、リオウは目を細めた。
「貴方は少しの情報で多くのことを知ってしまうような人だから。本当は誰よりも繊細なのに長くこの世界にいすぎて心がマヒしてるから、自分じゃ解ってない。それで無意識のうちに――ううん、必然的に――闇を見つめたの。全て真っ黒になるならどうせそれが何であったかも判らないと」
不意に、レンの言葉が紡ぎ終わるのを待っていたかのように部屋の明かりが消えた。元々キャンドルのみの明かりだったため、あまり先ほどと変わらない。
暗闇の中、レンが動く気配がした。金具が擦れ合う音がして部屋の窓を覆っていたカーテンがレンの手で開かれる。
すっかり闇の帳が降りた外には夜の街を彩るネオンが広がっており、宝石箱を引っくり返したかのような夜景があった。リオウが高層マンションの一室に住んでいるため、その美しさがレンの目に飛び込んでくる。空には深い藍の中で小さな星たちが互いに談笑するかのように輝いている。
そして街のネオンにも引けを取らないほどに輝く大きな丸い月。此処に住んでもう数か月になるリオウですら、この部屋から見える月には未だ目を瞠ってしまうのだ。レンにしてみれば、初めて見る光景かもしれない。
レンはその瞳に月を映して何を考えているのだろう。父親である男のこと、失った母親のこと、レン自身のこと。そのどれをも確認することはできず、リオウもその場から月を見上げた。
月は青白い光を真っ直ぐにリオウの部屋の中へと差し込ませている。二人は月の光を浴びてその月を見上げていた。
あの月でさえいつか闇に呑み込まれる日が来るなら、いっそ見なくても良いとリオウは思う。
なくなるかもしれないものを、なくしてしまったものをいつまでも見ていたって、悲しくなるだけなのだから。
だが失ったと思っていたものが自分の傍に戻って来たならば。その時に本来の姿を思い出せないとすると。
きっと、もっと悲しくなる。
レンはそう言ったのだろうか。
リオウは思わず抱き寄せたくなるレンの肩に伸ばそうとする片手を抑え付けて目を閉じた。
だがレンは、またこうしてリオウの前に現れた。失ってなどいなかった。それは想いを伝えてみても良いということではないのだろうか。いつか別れる時が来るとしても、暗殺者と生涯を共にすることはできないとしても、ほんの少しでも傍にいて欲しいと願うことはいけないことだろうか。
リオウの心は繊細だと、血と闇に呑まれたリオウの内側を見てくれたのは彼女が初めてだったのだから。
「あの男の名前がブルー=ムーンなんかじゃなかったら、あの月を綺麗だと思えるのかもしれないけど……」
ぎゅっと自分の服の裾をレンが握る。幼子のようなそれに、痛々しくなるほど力を込めている様子に、リオウは同時に愛おしくなる。レンは裾を掴みながら月からリオウへと視線を移した。
「リオウはあの月をどう思う?」
リオウは目を開いてレンを見てから月を見上げた。青というよりは白銀に輝くその月は、何所か秘密を持っていそうで、何所か哀しそうにも見えて、全てを語らない、まるでレンのようだとリオウは思う。しかし、そう言えばレンは父親と月の繋がりがあると顔をしかめるだろう。
もう一度目を閉じてリオウはレンの問いの答えを唇に乗せた。
「とても綺麗だと思うよ」
レンのように――。
そうリオウが言った後、レンが、そう、と笑んだ気配をリオウは感じた。
「貴方がそう言うなら、私もそう思うことにするわ」
恐らくは笑んだまま、レンは呟いた。




