第二話
帝都の隅に純和風の屋敷を構える薬師寺家の夕餉は、鴇が湯呑を投げつけられることから始まる。
それさえなければ他の名家と変わりはない。
「まずいのよ! 淹れ直して!」
湯飲みが目の前に叩きつけられる。
淹れたてのお茶が鴇の顔や胸を濡らしながら畳へと広がった。
鴇は熱さに呻きそうになったが、唇を噛み締めて堪える。
声を上げるとまた別の体罰が襲いくるのを知っていたからだ。
傍に控えている使用人達もまたかと目を背けるだけで、誰も口を開こうとしない。
父も、義母も我関せずといった態度で箸を進めている。
みすぼらしいお仕着せ姿で平伏する姉を、華やかな愛嬌のある妹が蔑む光景を、誰も異常だとは思っていないのだろう。
樹の許嫁となった後はこのような事も無くなっていたが、彼があやかしとの戦へと赴いてからまた始まってしまった。
畳に額を擦り付け、鴇は謝罪を口にした。
「申し訳ありません。万葉様」
「まったく、使えないんだから。まぁ許してあげる。今日はとっても気分がいいもの」
「……ありがとうございます」
「あ、でも罰としてこの着物はもらうわね」
鴇の持ち物に万葉を満足させられる物はすでにない。
すべて彼女の物になったはずだと疑問が浮かぶ。
鴇が目線だけを上げれば、万葉が女中から浅葱色の着物を受け取った。
見せつけるように着物を合わせる万葉に血の気が引いていく。
その着物は、万葉の西洋人形をそのまま大きくしたような容姿にとても似合っていた。
鴇はかけられたお茶の熱さも忘れて万葉に縋るように立ち上がる。
「っ、その着物だけはご容赦を……!」
「はぁ? これは樹様からいただいたものでしょ? ならもうあたしの物だわ。昨日樹様から聞いたでしょう?」
「本当に……懐妊されて……?」
樹が戦に向かう前、万葉が彼と二人きりで会った事実はないはずだ。
出立前に逢瀬を重ねていたのは鴇なのだから。
万葉が会う時間はない。
「ばっかじゃないの。違うに決まっているじゃない。あたしは、あんたの腹にいる子をもらうわ」
「っ!?」
鴇は咄嗟に腹を庇うように身を竦めた。
その様子に万葉がにたりと笑う。
「やっぱり身ごもっているのね。阿婆摺だったとは思わなかったわ」
「どうして……」
「あたし、知ってるのよ。夜な夜なあんたが家を抜け出して樹様と会っていたこと」
「!」
驚きに息を呑む。鴇の黒曜石のような瞳が零れんばかりに見開かれた。
(いつからバレていたの……?)
事実、樹が戦へと赴く前、鴇は誰にも見つからないようこっそりと家を抜け出していた。
よくないことだと頭では理解していても、どうしても一目会いたいと願ってしまった。
朝まで続いた逢瀬に、慌てて家に帰ったことは記憶に新しい。
誰にも露見していないと思っていたが、そうではなかったようだ。
「でも残念ねぇ。樹様、記憶を無くしてしまったみたいじゃない」
「それは……」
「だからその子、産んだ後は私が育ててあげる。光栄に思いなさい」
「っ」
「そもそも異能も使えないあんたに樹様は不釣り合いだったのよ。だからあたしが樹様の妻になるの。異能の家系をとりまとめる当主様だもの。憧れよね」
「……」
「なに睨んでるのよ。ほら早くお茶を淹れ直してきて。じゃないとこの着物、引き裂くわよ」
「……っ、お茶を淹れ直して参ります」
万葉の命令に、鴇は息を呑む。
よろよろと立ち上がり、逃げるようにその場を離れた。
この国には古来より異形が出る。外見は様々だが、それらはあやかしと呼ばれ、人々に害をなした。
これの討伐を担っているのが、特殊な家系の異能者達だ。
異形は異能者達にしか見えず、異能を用いた攻撃でのみ滅することができる。
彼らはその特殊性から帝にも重宝されていた。
薬師寺家もそのうちの一つだ。
歴史ある名家として名を連ねていたが、その栄光も過去のものとなりつつあった。
それを助けたのが鴇の実母の家らしい。
しかし、実母は鴇が産んですぐに儚くなってしまった。
物心つくまでは丁寧に育てられたと聞き及んでいるが、それも五歳頃までだ。
七五三と称して連れられた異能測定で、鴇は異能なしの烙印を押されてしまう。
その日から、鴇の地獄は始まった。
父が新たに娶った継母からは蔑まれ、万葉が産まれる頃には自室が母屋から物置に変わっていた。
息苦しい生活に疲弊し、夜中に家を抜け出したことで鴇の運命は変わり始める。
大木の下で知り合った樹と夜ごとに語らい、親睦を深めたある日。
異能者達を取り纏める月宮家から縁談の話が舞い込んできた。
両親の喜びようは計り知れず、当主が訪れる日は万葉をこれでもかと飾り立てた。
しかし、当主が求めていたのは鴇だ。
薬師寺家に訪れた当主――樹の顔を見て、鴇は心臓が止まるかと思うほど驚いたことを、今でも昨日のことのように思い出せる。
彼は月宮家へと迎え入れる準備もしていたが、あやかしとの大きな戦があったため先送りになってしまった。
樹が戦から帰ってくるまでの辛抱。そう思っていた、はずだった。
記憶を失ったと聞くまでは。
「お待たせいたしました」
淹れ直したお茶を万葉の膳に置く。彼女は鼻を鳴らすだけで、何も言わなかった。
父や義母、異母妹の食事が終わり、片付けが全て終わったのは日がとっぷりと暮れた頃だった。




