9
ざわめきは、戻っていた。
何事もなかったかのように。
人は動き、声が交わされ、時間が流れている。
「……本当に、便利なものね」
ぽつりと呟く。
“修正”。
それは、世界そのものをなかったことにする力。
「お嬢様……先ほどの件、本当に……」
セリーヌが、不安げに問いかける。
「ええ」
軽く頷く。
「少し、“外”を見てきただけ」
「外……」
彼女は言葉を失う。
無理もない。
「でも、大丈夫よ」
微笑む。
「戻ってこれることは分かったから」
重要なのはそこだ。
閉じ込められるわけではない。
――なら。
「次は、こちらから行ける」
視線を上げる。
見えない天井。
その向こう。
「ねえ」
小さく、呼びかける。
「さっきは楽しかったわ」
返事はない。
けれど。
“いる”。
はっきりと、分かる。
「あなた、退屈していたのでしょう?」
歩き出す。
ゆっくりと。
大広間の中央へ。
「決められた流れを、なぞるだけの世界」
一歩。
「決められた台詞」
一歩。
「決められた結末」
足を止める。
「つまらないわよね」
沈黙。
だが。
空気が、わずかに揺れる。
「だから、触った」
視線を、上へ。
「少し崩してみた」
そして――
「面白くなってきた」
くすりと笑う。
「違う?」
その瞬間。
――ザ、と。
ほんのわずか。
空間が“歪んだ”。
他の誰も気づかない程度の、微細な変化。
「やっぱり」
目を細める。
「反応するのね」
理解した。
これは単なる干渉者じゃない。
「“観ている”だけじゃ満足できない存在」
つまり――
「“参加したい”のよね」
その言葉に。
わずかに、空気が強く震えた。
「ふふ」
笑みが深くなる。
「図星」
確信に変わる。
「あなた、“物語の外側”にいる」
そして。
「本来は、触れられない」
だからこそ――
「こんな歪な方法で、入り込んでいる」
時間を戻し。
流れを修正し。
人を誘導する。
「でも、それって」
首を傾げる。
「“制限付き”でしょう?」
沈黙。
けれど。
今度は、はっきりと。
“圧”が、かかった。
「……怒った?」
軽く笑う。
「図星を突かれると、そうなるのね」
一歩、踏み出す。
「ねえ」
声を落とす。
「あなた、“名前”は?」
当然、返事はない。
けれど。
「持っていないのか」
それとも。
「持てないのか」
視線を逸らさない。
「どちらでもいいわ」
息を吸う。
そして――
「なら、私が付けてあげる」
空気が、張り詰める。
「“観測者”なんて、つまらない呼び方じゃなくて」
少し考えるふりをして。
「そうね」
微笑む。
「“観客”でいいわ」
その瞬間。
――バチッ!
空気が、弾けた。
明確な“拒絶”。
「気に入らない?」
肩をすくめる。
「でも、ぴったりよ」
見ているだけでは足りない。
触れたくて仕方ない。
「舞台に上がれない観客」
その言葉に。
今度は、はっきりとした“怒り”が伝わってきた。
「……怖い顔してるわよ」
くすくすと笑う。
「見えないけど」
そして。
「でもね」
表情を、消す。
「あなた、勘違いしてる」
空気が、ぴたりと止まる。
「これは、“あなたの物語”じゃない」
静かに、告げる。
「私の物語よ」
その瞬間。
――歪みが、広がる。
広間全体が、軋む。
人々の動きが、わずかに遅れる。
時間が、引き伸ばされるように。
「……強引ね」
けれど。
一歩も引かない。
「奪うつもり?」
視線を、まっすぐに上へ。
「やってみなさいよ」
沈黙。
そして――
“声”がした。
直接ではない。
頭の奥に、響くような。
言葉にならない、意思。
けれど――
「……ああ」
小さく、頷く。
「なるほど」
理解した。
「あなた、“選びたい”のね」
物語を。
結末を。
登場人物の運命を。
「神様ごっこ、かしら」
その瞬間。
空気が、凍りつく。
「でも」
ゆっくりと、息を吐く。
「残念ね」
微笑む。
「相手が悪かったわ」
三回目。
ただの繰り返しではない。
「私はもう、“筋書きの外側”にいる」
だから。
「あなたの思い通りにはならない」
静寂。
長い、長い沈黙。
やがて。
すべてが、元に戻る。
ざわめき。
人の動き。
時間。
何事もなかったかのように。
「……お嬢様?」
セリーヌの声。
「何でもないわ」
軽く手を振る。
けれど。
心の中では、はっきりとしていた。
「あと一歩」
正体は、掴んだも同然。
名前はない。
姿もない。
けれど。
「性質は分かった」
なら――
「勝てる」
視線を、わずかに上げる。
「次で、終わらせる」
小さく、呟く。
「覚悟はいい?」
返事はない。
けれど。
確かに、“見ている”。
その存在に向けて。
私は、静かに笑った。




