満月の初デート 2
お風呂に入ったあとはアミーには下がってもらった。本当はお風呂の付き添いも不要なのだが、侍女として必要な事なので練習台になる事にする。いずれ慣れるとは思うが、正直気恥ずかしい。
貴族に仕えるならこれから夜番もあるのだが、今はアミー一人だし追々にする事にした。正直これもソフィアリアには不要なのだが、今後の予定を考えればやってもらった方がいいのかもしれない。
立派な侍女を育成したら、いずれは貴族のお屋敷がやっているように、紹介状を書いて実力を保証出来ればと思っている。
ここはある日突然雇用を打ち切る事になりかねない。そうなる行動を起こす人が悪いのは百も承知だが、本人に非がなくても身内がやらかしてしまったりなどやむを得ない事情がある人も、中には居たかもしれない。
そんな時に紹介状があれば、他のお屋敷でも再就職しやすいと思ったのだ。平民が多いので高位貴族は難しくても、下位貴族ならある程度考慮してもらえる筈だ。
ここの紹介状を持つ使用人希望者は質がいいと評判になれば、なお素晴らしいではないか。長い年月が必要になりそうだが、いずれはそれを目指していた。
そんな事を考えつつ今日の分の日記を付け終わっても寝るにはまだ早い時間だったので、大鳥に関する本をもう少しだけ読もうと立ち上がり、本棚に向かう途中、何の気なしに窓の外を見たら、見知った人影を見つけた。
しばらくぼんやりその姿を眺めていたが、踵を返して簡単に着られるドレスに着替えると、籠にタオルと水差しとカップを入れて外へと向かう。
少々お行儀が悪いと思いつつ早足で廊下と階段を突っ切り、庭に出た。
お目当ての人物は休憩中なのか、ベンチに腰掛けて空を眺めていたが、足音に気が付いたのかこちらを向き、ソフィアリアの姿を見ると驚いたように目を見張る。
「訓練お疲れ様でした、代行人様。よろしければどうぞ」
ソフィアリアは微笑み、持ってきた籠を渡す。代行人は動揺しながら、おずおずと受け取った。
「あ、りがとう……。どうして、ここに?」
「部屋の窓から見させていただいておりました。昼間の王鳥様とやり合った時にも思いましたが、とても見事な槍捌きですね」
部屋から窓の外を見ると、槍を振るう代行人の姿を見つけたのだ。武芸に心得がないので詳しい事は分からないが、決まった型があるのか、月明かりに照らされながら一心不乱に励むその姿と真剣な表情がカッコよくて、つい見入ってしまっていた。
代行人は恥ずかしいのかそっぽを向き、乱暴にタオルで汗を拭う。タオルの隙間から見える耳が真っ赤だった。
「そうでもない。王から武術の能力は授かっていないから、私なんてまだまだだ。身体能力が上がっているからフィーには勝てるが、ロムにはコテンパンにやられる」
「まあ! ご自身の努力だけで身に付けられたのですね。努力家なんですね、代行人様…………」
ふと昼間気になっていた事を思い出し、唇に指を当てて俯き、考えた。言葉を中途半端に止めたからか、代行人は首を傾げている。
「……セイド嬢?」
それを聞いて顔を上げ、笑みを浮かべて手を差し出す。
月明かりに照らされたその姿に神々しさを感じて代行人が息を呑んだ事には気付かなかった。
「――はじめまして。わたくしはソフィアリア。ねぇ、あなたのお名前、教えてもらえる?」
首を傾げてそう言うと、急な自己紹介に混乱しているのか、目を白黒させていた。
「……え?」
「もうっ! ひどいわ。代行人様にもお名前があるのに教えてくれないだなんて。わたくし、フィーギス殿下に『リム』って呼ばれて婚約証書に何か名前を書いていた事、知っているのよ? なのに婚約者であるわたくしには、役職名で呼ばせて何も思わないなんて……寂しいわ」
わざとらしくおどけて、子供のようにぷくりと頬を膨らませながら拗ねてみせる。
とても淑女のやる事ではないが、ここには今日正式に婚約したばかりの二人しかいないのだ。誰にも見咎められる事はない。
言葉と突然子供っぽい事をし出したソフィアリアにパニックになってあわあわしている代行人をしばらくじっと見ていたが、やがてふっと吹き出した。そのままくすくすと、笑いが止まらなくなってしまう。
そんな事をすれば慌てるかと思ったら案の定だった。とりあえず、引かれなくてよかったと思う。
「……セイド嬢」
「ふふっ、ごめんなさい。なんだか可愛いと思ってしまって。いつもツンって澄ましている代行人様が表情を崩す姿がわたくし、好きみたいなの」
好きみたい、という言葉に過剰反応してまた真っ赤になってしまった。そういう顔がやはり好きだと思ったが、話が進まないので黙っている事にする。
後ろで手を組み、下から覗き込むように傾向姿勢で気持ちを口にする。少し恥ずかしくて、頬が染まっている気がした。
「婚約者なのにずっと他人行儀なのはおかしいわよね。わたくしも敬語はやめて、あなたの事を名前で呼びたいわ。だから代行人様ももっと楽に話して、ソフィ……いえ、『フィア』って呼んでくれないかしら?」
気取って自分の事を『私』と呼ぶ彼が崩れてくると『俺』になり、言葉遣いも少し乱雑になる事なんて、もう見抜いているのだ。今後は隣で寄り添うソフィアリアの前でまで、気取る必要なんてない。
「フィ、ア?」
「ええ。小さな頃からみんなにソフィって呼ばれていたのだけれど、代行人様は旦那様になる方だもの。特別な呼び名で呼ばれたいわ」
「特別……」
何やら俯いて口元をモゴモゴさせているのは、照れているのだろうか。そのままじっと待つ。
やがて意を決したように顔を上げ、ソフィアリアの目をまっすぐ見つめて、躊躇いがちに、でもはっきりと、宝物を愛でるかのように優しい声音で、待望の言葉を口にした。
「……フィア」
ギュッと心が掴まれたようだ。嬉しくて言葉が詰まり、一瞬泣きそうになりながら、ソフィアリアは柔らかく微笑みを返す。
「なあに?」
「オーリム。オーリム……アウィスレックス。孤児時代は名無しで、代行人になってから貰った俺の名だ。『オー』だと『王』と紛らわしいから、みんなと同じで悪いけど『リム』って呼んでくれ」
そう言って照れたように笑う顔のあどけなさにドキドキして、赤くなった耳を隠すように右の髪を掻き上げながら、ソフィアリアからも大事な宝物を、彼に返した。
「ええ、よろしくね。リム様」
――これは満月の下で始まった二人の恋の、まだほんの一ページ目のお話。




