月の王子も帰れない 後編
「どうして、こんなことになったのだ……」
ディアニスは、寝台と家具が揃った一室のふかふかとした椅子に腰掛け呆然と鏡を見つめていた。
鏡の向こうには、いささかやつれたが『月女神の御子』と呼ばれた美貌が憂いを帯びてそこにあった。
ここは、極東に向かう客船の中だ。
窓もないそこは、食事以外の昼と夜の感覚が無くなっているかのようだ。
かつての一室よりもグレードの落ちた、しかし貴賓を迎えるには礼節を欠いていない室内に、ディアニスは押し込められていた。
あの弾劾パーティの後、カグヤは本当にアポロシス王国へと渡ってしまった。
取り戻そうにも、召喚の責任者であるディアニスがボロ雑巾のように捨てたのをパーティの参加者である貴族たちが見ている手前そんな見苦しい真似はできなかった。
(なんだ、愛を与えあうことで奇跡が起きるなど……私は聞いていないぞ!)
ディアニスは読んだ気になっていたが、『月の乙女』の奇跡の発動条件はアルテミシア王国の記録官によりきちんと記録をされていた。
召喚条件などの触りしか見ていなかったため、見落としていたのだ。
(もしその事を知っていれば、アイツに情けぐらいは掛けてやっていた!)
カグヤは既にソルティ王子が貰い受けてしまった。
後悔してももう遅いのだが、ディアニスは膝の上の手を握りしめて悔しがった。
『月の乙女』を他国にやってしまうなど前代未聞のことで、その落とし前をディアニスは付けることとなった。
王位継承権の剥奪と王宮からの追放、それはあまりにも重すぎる処罰であった。
(ヨーリィが居たから良かったものの、あのままだと身一つで放り出されていたのは私だったかもしれない)
拠り所のないディアニスに救いの手を伸ばしてくれたヨーリィは、ディアニスを婿として迎え入れてくれることとなったのだ。
間一髪というところか、彼女には感謝してもし足りない。
「ディアニス様、よろしいでしょうか?」
控えめなノックに応えると、ヨーリイが穏やかに微笑みながら入ってきた。
アルテミシアの文化を取り入れた、異国のドレスが今日もヨーリイによく似合っていた。
「お休み前のお香をお持ちしましたわ」
テーブルの上に、甘い香りの香を置きながら彼女は上機嫌にディアニスの世話を焼く。
「異国には、どれくらいで着きそうなのだ?」
「あと二日もすれば着きますわ」
「そうか」
ヨーリイは王の子であるが、上に兄が何人か居るため王位継承権は低いのだという。
「しばらくは、母方の領地で心穏やかに過ごしていただきますね」
「確か、君が成人してから引き継ぐ領地だったな」
「はい、そうです」
異国では、女が領地を賜っても実際に経営するのはその夫なのだという。
故に、これからディアニスは小領主として生きていくことになるのだ。
(役不足は否めないが、背に腹は代えられないな)
己ほどの有能な人物ならば、いずれは王都にもその名は響くことになるだろう。
そうなれば、彼女の父である王の目に留まるかもしれない。
(異国の地でやり直そう、私は『月女神の御子』なのだから)
勝手に高まる万能感に震えるディアニスに、ヨーリイがそっと手を重ねる。
「私と共に来ていただき、本当に感謝しています」
「シャオリイ」
「その、今宵はお傍に置いて欲しいのです」
指先が、いじらしく絡む。
睫毛に彩られた金の瞳が甘くうるみ、ディアニスの庇護欲と征服欲が掻き立てられる。
(シャオリイの奴め、やっと身体を許す気になったか)
可憐で従順なヨーリイであったが、身持ちは固くディアニスには唇しか許すことは無かった。
ようやく、異国に咲く大輪の花に触れる事ができる。
それはディアニスの心を奮い立たせた。
「おいで、シャオリイ」
「ディアニス様……」
清潔な寝台に、ヨーリイをエスコートする。
はやる気持ちを押さえ、彼女の肩を抱き寄せた。
――カチャン。
「……えっ」
場違いな硬質な音に、ディアニスの動きが止まる。
その首には、銀細工が美しい鎖のついた首輪が嵌っていた。
「ああ、ディアニス様……なんてお美しい」
目の前のヨーリイが、甘い声でそう囁く。
何が起きたのか、すぐには分からなかった。
「え……え?」
両手を戒めるかのように、同じデザインの手錠が掛けられる。
寝台へと軽く突き飛ばされれば、混乱極まった身体は簡単にシーツの海へと沈んだ。
「やっと、やっと手に入れました」
「ヨーリイ……?」
鼓動の音が五月蝿いくらいに響く。
まるで、身の破滅を訴える警鐘のようだ。
「この時を、私はずっと待っていたのです」
ヨーリィが、そっとディアニスを抱きしめる。
腹部に当たった、淑女にあるまじき昂りの存在に、ディアニスはようやく悲鳴じみた声をあげた。
「ディアニス様、私の満月……もう、逃がしませんからね」
恍惚とした金の瞳に宿る獣性に、ディアニスは自分が狩人ではなく餌としてこの船に乗せられたのだと悟ったのであった。
「やめろ、やめ……っ」
ディアニスの悲鳴を覆い隠すように、汽笛が高く音を立てた。
明日からはヨーリィ編です




