短編21(悪政を布いた女王と最後を看取った男)
愛される妹。
愛されないわたくし。
美しい妹。
美しくないわたくし。
心優しく寛容な妹。
傲慢で狭量なわたくし。
多くの人に囲まれる妹。
たった一人のわたくし。
同じ姉妹でありながら、対極にあるわたくし達。
憎くて憎くて。どうしてと何度叫んだか。何度泣いたか。
たった一人でもいい。誰かわたくしを愛してと。誰か側にいてと。
どれほどの想いを込めて願ったか。
「まだ、いたの」
バルコニーで赤く染まった空を見上げながら赤ワインを口に含む。
置いた丸テーブルも赤。纏うドレスも赤。遠くからでも目を惹く派手な赤。その色が好きだった。そして同時に嫌いだった。
生まれた時から纏っている色。髪も目も赤。でも誰も愛してはくれなかった、わたくしだけが愛する色。誰もが嫌う色。
「はやくもどりなさいな。あなたがほんとうにあいするおんなのもとに」
舌が上手く動かない。もどかしい。本当はもっと叫ぶように言いたかったのに。傲慢なわたくしらしく、誰もが嫌悪するような棘を乗せて。
背後に佇む男は左目に黒の眼帯をしていて。その下にある目が金の色をしていることを知っていた。右目は緑なのに、左は金。この世界で誰も持っていない瞳の色。
だから信じた。誰も持っていない色を持つ男は、それ故に厭われていたから。人から弾かれる者同士なら一緒にいられるのだと思ったから。
でも違った。勘違いだった。思い込み。
男は妹のものだった。
妹に救われたものだった。
誰もが厭う中、妹だけが彼を受け入れた。彼の左目を綺麗だと笑った。だから彼は妹のためにわたくしに近づいた。この国の女王に君臨し、恐怖で治めるわたくしを排除するために。妹を厭い、王都から遠ざけたわたくしから妹を自由にするために。
男だけではない。国民の誰もがそのために立ち上がった。わたくしのに信頼され、わたくしの側に置かれた男は格好の情報源。わたくしを王座から追い落とすための計画に欠かせない重要な役目。
「ほんとうに、むかしからいやなこ。だいっきらいだわ」
誰もが妹に魅了される。誰もが妹を愛する。誰もが妹のためにと動く。
妹は微笑み、妹は悲しむ。妹は誰をも気遣って誰をも愛する。そんな妹だからこそ愛されるのだろう。
わたくしと違って。
背後に立つ男も妹は受け入れて愛して。
人に厭われて生きてきた男にとってそれは一体どれほどの奇跡で。どれほどの歓喜だったのか。
妹を愛するものにとっては憎い相手でしかないわたくしの側に、なんて屈辱に耐えるほどの愛情を抱いて。
「ねえ、まだいるの?なぜ?にげはしないわ。にげばなんてないもの」
どこに逃げたって同じ。妹を愛するものばかりのこの国で、わたくしを嫌うものばかりのこの国で、一体どこに逃げ場があるというの。
「それともあなたがとどめをさすやくめなのかしら?てっきりこうかいしょけいかとおもってたわ。…ああ、それはあのこがとめるかしら。こころやさしいおひさま。あのこがわたくしをころすとはおもえないもの。だからかわりにあなたがころしにきたの?」
大変ね、と笑う。
赤のテーブルに置いたグラスをとって、また赤ワインを口に含む。
嚥下してしばらく、眩暈がした。咄嗟に空いた手で手摺りを掴めば、女王?と不審そうな声。それには答えず残った赤ワインを一気に飲み干す。グラスは赤のテーブルに。けれどそれはできなかった。グラスはテーブルに届かずに落下。床に落ちて割れてしまった。
息を呑む音。赤く染まった空がよく見えない。崩れる体を手摺りを抱くようにして支えれば男が女王!と声を上げた。切羽詰ったように聞こえたのはきっと気のせい。でも駆け寄ってくる気配は本当。
「ちかづかないで!」
男の足が止まった。
ずるずると落ちる体。床に膝をついて、ふう、と手摺りに体を預ける。
床に飛び散ったグラスの破片に目を落とす。どれが本当の破片なのか、虚像の破片なのか分からない。二重にも三重にもなって、徐々に擦れていって。
ふふっと笑って目を閉じる。
「ま、さか、先程のワイン…」
「よかったわね?あなたのてをよごさずにすむわ」
「何を…っ」
妹のためとはいえ姉であるわたくしを殺せば心に残るものがあるだろう。
心優しい妹は非道な姉の死に悲しむだろうか。そうしたならば直接手を下した男は妹の側にはいられないのではないだろうか。妹を悲しませたことが男の心に影を落とすだろうから。
「ふふっ」
馬鹿だ。
わたくしを騙していた男なのに。他の人間と何も変わらないわたくしを憎む男なのに。
なのにわたくしはこの男を愛しているのだ。
「もっとはやく、こうすればよかった」
「女王」
「きたいなんて、せずに」
「女王」
一人でもいい。愛してほしかった。側にいてほしかった。
父も母も愛してくれなかった。妹ばかりを見ていた。愛していた。誰もがそうだった。美しくはないわたくしは、色ばかりが派手で。誰も見てはくれなかった。
だから傲慢に振る舞うことにした。そうすれば見てくれた。でもそれは決して望んだ視線ではなくて。望んだ感情ではなくて。
でもわたくしは傲慢であり続けた。きっとわたくしを愛してくれない全てが憎かったから。だから嘲ることで見下すことで復讐として。同時に孤独から身を守ろうとして。
それでも期待して。いつか誰かが愛してくれないかと期待なんてして。
「あら、もんがひらかれたおとがするわ。とうぜんね、みんなわたくしをころしたいんですもの」
でも残念。嗤う。
「ころされてなんてあげないわ」
ずるっと体が落ちる。倒れる先は床。グラスの破片が落ちているかどうかは知らない。
痛いかしら。
舌も手も足も体も麻痺しているから感じないかもしれない。でも破片が落ちていたら顔に傷はつく。ついても誰も困らない傷が。
「セリカ…!!」
聞こえたのはわたくしの名前。
でもきっと気のせいだわ。だって誰もわたくしの名前なんて呼ばないもの。もうずっとずっと誰も呼ばないもの。
*
「セリカ!セリカ!!」
倒れる前に受け止めた体は冷たい。
嘘だと思った。死ぬなんて嘘だ。
「セリ、カ…!」
揺さぶっても瞼は開かない。頬を叩いても同じ。
心臓を掴まれたような心地を味あわせる女はぴくりとも動かない。
「ち、がう。違う!」
違うんだ。いや、違わないけれど、違う。
女王の妹が好きだった。彼女は誰もが厭う左目を綺麗だと笑ってくれた。誰もが厭ったこの身に触れてくれた。側に在ることを許してくれた。
でも俺が側にいることは彼女にとっていいこととは思えなくて。だから側に寄らないようにしていた。そうしたら察した彼女はこっそりと会いにきてくれた。これならいいでしょう?と笑って。
好きだった。彼女にとって俺は唯一ではないけれど。彼女は誰もを愛していて、その中の一人なのだと分かっていたけれど。それでも好きだった。
だから彼女の姉が憎かった。こんなにも心優しい人の姉でありながら、彼女の優しさも愛情も注がれているだろうに民に恐怖を与え、彼女を悲しませ、そして彼女を王都から追放して。
憎くて憎くて許せなかった。だから彼女のためにと恐怖政治を強いる女王を追い落とさんとする組織に身を寄せた。左目は隠して。
そうして近づいた女王。
傲慢で狭量な女王に追従するのは苦痛だった。初めは。
ある日左目を女王に晒す事態になったことがあった。
驚いた顔の女王は、けれどすぐに、ふうん、と呟いた。そして隠すなら隠しなさいな、と何もなかったように止めた作業を再開させた。
女王は彼女のように微笑まなかった。綺麗ねと言わなかった。隠した左目を見た彼女が言ったように、隠すなんてもったいないわと言わなかった。彼女に感じたような温かいものを与えなかった。
女王が与えたものは当たり前だということ。左目が人と違っていても興味がないとばかりに振る舞うということ。
何も言わなかった。人とは違うこの目に何も言わなかった。だから隠してるのか、それぐらいしか思わなかったようで。特別な思いをこの目に与えなかった。好意も悪意も何も。他の人が他の人の目に対して何も感想を抱かないのと同じように。
それが嬉しかった。何も可笑しくはないのだと言われているようで。何も人とは違わないのだと言われているようで。
女王は傲慢で狭量。
その意識を払って見てみれば、女王は悲しい人だった。寂しい人だった。愛されたいと願う人だった。
父にも母にも愛されず、誰からも愛されず、ただ存在するだけ。それが悲しくて、寂しくて、愛してほしくて。そうして間違った方法で愛を求めて、厭われて。女王自身もそれに気づいているのに修正を加えなかった。見てもらうための武器が心を守るための盾に変化していたからだ。
それを憐れに思って。
けれど女王がしていることを許せるわけでもなくて。
女王の側にきた目的を果たし続けて。情報を流して流して流して。
女王が笑ってくれるようになれば、心を許してくれるようになれば、どうしてこんなことをしているのかと叫びたくなった。女王のせいだと、女王が恐怖政治なんて布かなければこんな思いせずにすんだのにと恨み言を言いたくなった。
久しぶりに彼女に会った。
偶然だったけれど会った。
姉の元にいることを知っているらしい彼女は俺に元気かと微笑んでくれて。世間話をして笑って、そして別れた。
与えられた優しさに温かさにその時は気づかなかったけれど、女王が庭を歩いているのを目に止めて気づいた。
彼女は女王のことを何も聞かなかった。
両親に愛されなかった女王。周りに愛されなかった女王。けれど彼女だけは愛したはずだ。誰にも優しく誰をも愛する彼女だけは。そうずっと思っていた。孤独な女王に、どうしてそれに気づかないんだと思っていた。けれどもしかしたら。
その考えは冷水を頭からかけられたようだった。
女王は妹である彼女にすら愛されなかったのではないか、なんて。
「セリカ、セリカ!」
動かない女王。冷たい女王。抱きしめて呼ぶ。誰も呼ばない名前。それを呼ぶ。
どうしても彼女が女王を愛していないだなんて信じたくなくて、それ故に役割をがむしゃらに果たして。その結果が今腕の中にある。
彼女ならきっと女王を殺さない。そう思っていた。女王が己で命を絶つなんて思っていなかった。
女王が飲んでいた赤ワイン。あれに何を仕込んでいたのだ。分からないけれど、彼女の命を絶つもので。
「セリカ!!」
女王の城を攻める。そう決まった時、彼女は危ないことはしないでと言った。お姉様はとても恐ろしい人。私は誰も失いたくはないわと言った。
彼女の目に女王は見えていない。誰をも愛する彼女は、どうしてか姉のことは愛さなかったのだ。厭っていたわけではない。嫌っていたわけではない。ただ愛するという行為を女王に向けなかったのだ。
だから女王は孤独だった。誰もを愛する彼女が愛してくれさえすれば女王は孤独ではなかったのに。傲慢で狭量な女王になんてならなかったのに。恐怖政治なんて布かなかったのに。
「セリ、カ…っ」
抱きしめる。
強く強く抱きしめる。
冷たい体温と酷く弱々しい、今にも止まりそうな鼓動に溢れる涙は止まる術もなく。
死ぬなと叫ぶ心が。女王の妹を責める心が。己を責める心がせめぎ合って。もう何が一番強い思いなのかも分からなくなって。
足音が聞こえる。
大勢の足音。駆けてくる、足音。
もう脈の音が聞こえない。
女王を抱き上げて、部屋の奥の扉を見る。
もうすぐあの扉は開く。女王を捕えるために。捕えてどうするだろう。女王の妹は女王を殺さない。けれど女王はもう息絶えている。
彼女は泣くだろうか。以前なら泣くだろうと言えたけれど、今はもう分からない。だから。
扉に向けて足を動かす。
勢いよく開かれる扉から現われた武装した集団。一人が腕に彼女を抱いている。彼女はこちらを見て、よかった、無事なのねと微笑んだ。そして腕の中の女王を見て、お姉様と呟いた。
「生きてるのか?」
「いや。自ら命を絶たれた」
瞬間、城を震わすほど大きな歓声。
誰もが喜ぶ。女王の死を。その中で彼女がぽつりと洩らした言葉が何故か耳に届く。
「何故死を選ばれたのですか。命を奪うつもりなどありませんでしたのに。自らの罪を償っていただきたかっただけだというのに」
目を伏せた彼女の頬に涙はつたうことはない。
悲しそうな表情だ。悲しそうな声だ。周りはこんな女王の死も悲しまれるのかと、その優しさに感極まっているようだが、男はもうそうは思わない。
確かに女王は罪を犯した。それを償わずに死を選んだ。
けれどその原因を彼女は考えたことがあるのだろうか。彼女の孤独を、悲しみを、願いを、叫びを考えたことがあるのだろうか。
男は何も言わずに女王を抱いたまま部屋を出る。不思議そうに呼んでくる彼女に振り向かずに、どこに行くのだと、女王の死を民に知らせねばならないのだから亡骸を寄越せという声に何も返さず。
追いかけてくる足音。それを意にも返さず辿りついた場所。後ろで息を呑む音。
「お姉様は確かに罪を犯しました。ですがこの谷に投げ捨てるのはおやめください」
彼女が言う。
女王が罪人に下した処刑方法のひとつ。底が見えない谷。どこまで続いているのか分からない、底がどうなっているのかも分からない。そこに突き落とす。先が見えない恐怖と共に。
「生前どのような罪を犯したとしても、死者を冒涜することはおやめください」
「それだけか?」
「え?」
「…そうか。それだけ、なんだな」
「何を…?」
優しい彼女。
誰をも愛する彼女。
けれど女王だけはその優しさも愛情も触れることがなかった。
「あなたにとって女王とは何だった?」
「お姉様はお姉様よ?女王としてこの国を支配し、国民を恐怖で縛り付けたわたくしのお姉様。そしてとても残酷な方。とても聡い方なのに、どうしてあのような政治を敷かれたのかしら。やり方さえ間違わなければ賢君と慕われたでしょうに」
「…愛していた?」
「嫌いではなかったわ。お姉様はわたくしを厭っていらっしゃったけれど、わたくしは嫌えなかったわ」
」
「……そう」
彼女は女王を見ていなかったのだ。女王を認識してはいても、ちゃんと見ていなかったのだ。女王が両親に愛されなかったことも。孤独だったことも。愛情を求めていたことも。全部全部彼女は見ていない。誰をも愛する彼女は、愛情を求めるものを見逃さずに手を差し伸べる彼女は、己の姉のそれを見ようとはしなかったのだ。
「愛されているから?それとも近すぎて見えなかった?」
「え?」
「今分かったところで、もうあなたは戻らないのだから、突き詰めて考える必要はない、か」
「何を言っているの?」
ぎゅっと女王を抱きしめる力を強くする。近づいた女王の顔をじっと見つめて、セリカ。囁く。
女王がしたことは悪政だ。許されるものではない。ひたすらに恐怖で国を支配した。それが女王の孤独からきたものでも。女王の叫びだったとしても。それでも許される段階を超えたものだ。
それでも。
「あなたを守れるのは俺だけだったのに。あなたを救えるのも俺だけだったのに」
なのに守れなかった。死を選ばせた。孤独のまま、絶望させたまま女王は人生を終わらせた。
「もう俺とは会いたくないでしょうね。けれど俺はあなたに会いたい。もう一度側に在りたい。許されるのなら、もう一度笑いかけてほしい。そして」
零れる涙。
女王の頬に落ちて。谷へと落ちて。
「だめ!!」
彼女の声。
それを背に、女王を抱きしめたまま暗い暗い谷の底へと身を投げた。
―――あなたに愛していると伝えたい。