花園の誓いと、忍び寄る不穏の影
レナードの手へそっと添えられたマリンの手は、緊張でほんの少し震えていた。
白磁の壁が連なる煌びやかな王宮の廊下を進むと、絢爛豪華な扉が開かれ、待っていた人々が二人を出迎えた。
アーツ王国の国王と王妃、そしてレナードの兄である第一王子であった。
彼らの眼差しは、スウィーム帝国の冷酷な王族たちとはまるで異なっていた。温かく、心から二人を歓迎する慈愛に満ちていたのだ。
「よくぞ参られた、マリン殿。レナードから話は聞いている。辛い過去を乗り越え、よくぞ我が国へ来てくれた」
国王が温かな声をかけると、王妃も優しくマリンの手を取った。
「本当に愛らしい方……。レナードが自国へ戻り、不毛な争いを収めてまであなたを迎えに行きたいと言った理由がよく分かりますわ。我が家へようこそ、マリン」
「陛下……王妃様……あ、ありがとうございます……っ」
冷たい悪意に晒され続けていたマリンの胸に、じんわりと温かな感動が広がっていく。
ハーツウェル公爵夫妻だけでなく、このアーツ王国の王家もまた、マリンという一人の人間を温かく受け入れてくれたのだ。
謁見を終えた後、レナードはマリンを王宮の裏手に広がる広大なプライベートガーデンへと連れて行った。
そこは色とりどりの珍しい花々が咲き誇り、中央には透き通った水が湧き出る美しい噴水があった。
「ここは、私が子供の頃から一番好きだった場所なのです。あなたに真っ先に見せたかった」
「すごく綺麗……! まるで絵本の中の世界みたいです」
目を輝かせるマリンの横顔を、レナードは愛おしそうに見つめた。
二人きりになった庭園。風が優しく吹き抜け、マリンの美しい純白の髪を揺らす。
「……マリン」
「はい、レナード様――あっ」
「レナード様」と言いかけたマリンの唇を、レナードの長い指先が優しく制した。
彼はいたずらっぽく微笑むと、マリンの顔を覗き込む。
「さっきの約束、覚えていますか? ふたりきりの時は……?」
マリンの頬が一気に熱くなる。
耳たぶまで真っ赤になりながら、消え入りそうな声で口を開いた。
「……っ、れ、レン……さん……」
その可愛らしい声に、レナードの瞳が甘く揺れた。
彼は耐えきれなくなったようにマリンの華奢な腰を抱き寄せ、ぐっと己の胸の中へと引き寄せた。
「ひゃっ……!?」
間一髪で触れ合う鼻先。呼吸すら重なるほどの至近距離に、マリンの心臓は破裂しそうなほど激しく鐘を打つ。
「レン……さん……近いです……っ!」
「ダメです。平民の街では、あなたに遠慮してばかりでしたから。ずっと、こうして抱きしめたかった……」
レナードはマリンの首筋に顔を埋め、深く、愛おしそうに息を吐き出した。
王子としての重責を脱ぎ捨て、ただのマリンを愛する男としての甘い体温。マリンの手もゆっくりと伸び、彼の背中にそっと回された。
「私も……ずっと、レンさんに逢いたかった……です」
素直な胸の内を明かすと、レナードは幸せそうに目を細め、マリンの額に優しく、そして愛を確かめるように熱い接吻を落とした。甘くて、じれったくて、胸が苦しくなるほどの幸福感が二人を包み込んでいく。
――だが。
その夢のような一刻の裏で、遠く離れたスウィーム帝国の暗く湿った地下牢に、底知れぬ悪意が渦巻いていた。
重労働の末に汚にまみれ、怨嗟の声を上げる女――アーリィ・グレイ。
「許さない……許さないわマリン……! 私からすべてを奪って、自分だけ幸せになるなんて……っ! 殺してやる、殺してやる……!」
血が滲むほど指先を地面に打ち付け、呪詛を吐き散らすアーリィ。
その強烈な「負の感情」に反応するように、地下牢の空間がぐにゃりと歪んだ。
『――クックック……素晴らしい憎悪だ、人間よ』
暗闇の中から立ち現れたのは、赤く光る怪異な瞳と、おぞましい漆黒の輪郭を持つ「悪魔」であった。
『お前のその黒い怨念、我が糧としよう。マリンという女をどん底へ突き落とし、すべてを破壊する絶大な力を望むか?』
「あぁ……! 望むわ! 力頂戴……! マリンを、あいつの大切なものを全部、ぐちゃぐちゃに引き裂いてやる……!!」
アーリィは迷うことなく、自らの魂と引き換えに悪魔との恐ろしい契約を交わしたのだった。
その瞳が怪しい赤紫色の光を放ち、おぞましい笑みが不気味に浮かび上がる。
アーツ王国で育まれ始めた甘い愛と、闇の底で産声を上げた恐ろしい復讐の影。
二人の運命を揺るがす波乱の足音が、静かに、しかし確実に近づいていた――。




