エピローグ
榊原による推理劇の後、警察は東京地裁への令状請求を行った上で、関係各所への家宅捜索を実施した。そしてその捜索の結果、城田の自宅からは榊原が推測したように各種爆弾の材料や設計図が見つかったが、それと同時に本人が供述したように道原裕奈が書いたと思しき一冊の日記帳が発見され、後の検査で日記に残された指紋や筆跡から間違いなく本物の道原裕奈の日記である事が立証された。
そして、その日記に記されていた文章は、二年前の世田谷の事件が道原裕奈の犯行である事を立証する有力な証拠になると同時に、事件当時の道原裕奈の心の内に秘められていた狂気をこれ以上ない形で示すものであった。この日記と城田の自供を受け、警察は二年前の世田谷の連続殺人の捜査について再検討を行う事を決定。この再捜査に結果いかんによって、将来的に鬼首塔乃にかけられた容疑が晴らされる可能性が高くなった。
また、大久保忠康の自供で明らかになった二十年前の旭沼事件の真相発覚を受け、大久保に月園和治夫妻の暗殺を指示した政界に巣食う『黒幕』……現衆議院議員の薬師寺光廣への追及が本格化する事となった。もちろん、事件の公訴時効はすでに成立しているため薬師寺を刑事罰に問う事はできない。だが、そもそも薬師寺にとって刑事罰の有無は問題ではない。政界の人間である薬師寺からしてみれば、例え時効が成立していたとしても、事件に関与していた事実が明らかになるだけで己の政治生命は終わってしまうのである。
警察としても時効が成立している旭沼事件を直接捜査するわけにはいかないが、旭沼事件が今回の事件の動機に関わっているため、今回の事件の動機を解明するための捜査の一環という形で間接的に旭沼事件を調べる事ができた。結果、慌てた薬師寺の政治的な妨害工作もむなしく、警視庁は事件から数日後に今回の事件についての詳細を報告する記者会見を行い、その記者会見の中で旭沼事件の真相についても容赦なく暴露。世論による薬師寺への糾弾が激化する事となった。今はまだ抵抗が続いてはいるものの、薬師寺が失脚するのももはや時間の問題というのが大方の専門家の意見である。
そして、同じく大久保の自供から、長年指名手配されていた鯉口征太郎の遺体が埋められている場所が判明し、早速行われた警察の調査により自供通りの場所から白骨が発見される事となった。これにより長年交番に貼られていた彼の手配ポスターは撤去される事となり、鬼首塔乃のポスターと共に、一度に二枚の手配ポスターが社会からその姿を消す事になったという。
この他、月園牧雄と涼が逮捕された事によって『ムーン・ワールド・トレード社』を隠れ蓑に行っていた麻薬密売ルートが発覚し、それをきっかけに勢力を拡大しつつあった某新興暴力団の一斉摘発が行われたりしたのだが、それはこの一連の事件の中では些末な事であろう。とにかくこのように、巴川村で起こった今回の事件は各方面に多大過ぎる影響を与えていく事になるのだが、その影響が本格的に世間を騒がせるようになるには、もうしばらくの時間がかかる事になる……
九月二十八日午後四時。月園家の屋敷内では、月園家の残った三人……武治、信治、奏の三人が膝を突き合わせていた。傍から見ると何とも異色の組み合わせだが、本人たちはそれどころではないらしい。
「お爺様は?」
「疲れたと言って奥で休んでいる。軽く診たけど、問題はないよ。後の事は僕たちで話し合ってくれとも言っていた」
奏の問いかけに、信治は気楽そうな口調でそう答える。が、場の空気はそんな信治の言葉に反して非常に張り詰めたものだった。
「だったら、手早く決着をつけようか。結局、この状況で当主はどうなる?」
神経質そうな武治の言葉に、信治は肩をすくめる。
「さぁ。蘭ちゃんはアイドルを辞める気なんかないし、勝治兄さんは死んで、涼と牧雄さんは当主に就けるような状況じゃない。素直に遺言に従えば、当主になるのは僕か奏のどちらかという事になりますね」
その言葉に、武治は引きつった表情でさらに尋ねる。
「で、お前はそれを受けるつもりなのか?」
「だから、それは最初から何度も言っているでしょう。当主の座に興味はありませんし、そんな面倒事は御免だと。今回の事件に巻き込まれて、ますますその思いは強くなりました。何しろ、文字通り死にかけたわけですからね。当主の座なら喜んで奏に譲りますよ」
だが、その奏はと言うと、厳しい表情で二人の兄を睨む。
「信治兄さん、冗談はほどほどに。公安の私が当主になんか就けるわけがないでしょう」
「だろうな。ちなみに、警察を辞める気は?」
「ありません」
取り付く島もない言葉だった。信治は苦笑する。
「お前、本当に性格変わったよな」
「余計なお世話です」
「そういう所だよ」
「し、しかし……それでは……」
武治は唇をかみしめる。本音を言えば自身が当主の座に就きたいのだが、遺言がそれを許さない。しかし、残った候補者の信治と奏に当主の座を継ぐ気はない。非常に困った事になったのは確かだった。
「……誰も当主に就かないという選択肢はないのですね」
不意に、奏がそんな事を言った。武治がすぐにその問いを肯定する。
「あぁ、月園家が存続する以上、誰かは必ず当主の座に就く必要がある」
「では、こうすればどうでしょうか」
奏はそう前置きして自身の案を告げた。
「ひとまず、信治兄さんか私のどちらかが遺言に従って当主の座を引き受けます。ただし、これはあくまで形式的な継承です。お婆様の遺言の効力が適用されるのは誰かが当主の座に就任した瞬間までで、それ以降の束縛は存在しないはず。ならば、新当主が就任してすぐに当主の座を別の人間に譲ったとしても、遺言に反した事にはならないはずです。そこで、当主の座を改めて武治兄さんに譲れば、少なくとも法的な問題は発生しないのでは?」
「それは……」
「もちろん、信治兄さんと私のどちらかが一時的にでも当主になる以上、遺言の規定に従って、月園財閥会長の座は放棄する必要があります。ですが、少なくともこれなら当主不在という状況は回避できるはず。どうですか?」
奏の提案に、武治は少しの間逡巡するような仕草を見せていたが、やがて振り絞るように自身の結論を告げた。
「……わかった、私はそれでいい」
「なら、話は決まった。それで、実際問題としてまずはどっちが当主になる? はっきり言って、建前上でも僕はそういうゴタゴタに巻き込まれたくないんだが」
信治は面白そうに言う。それを見て、奏が無表情のまま言葉を発した。
「……なら、仕方がありませんね。信治兄さんがやりたくないというのならば、必然的に私がやるしかなさそうです。言いだした手前もありますし」
ただし、と奏は言い添えた。
「さっきも言ったように、私は当主なんて面倒なものに固執するつもりはありません。引き受けるのは一週間だけです。一週間経った時点で、私は当主の座と家の財産を武治兄さんに譲る事とします。もちろん二段階の引継ぎになる以上、普通に跡を継ぐより税金絡みが面倒な事になるとは思いますが、それはもう必要経費と割り切ってください。財産がゼロになるよりははるかにましでしょう」
その指摘に武治は一瞬逡巡したようだったが、やがて覚悟を決めたように頷いた。
「……いいだろう。私としては、当主の座を継げればそれでいい」
「では、決まりです」
まさに鶴の一声だった。こうして、今回の事件を複雑にしていた月園家の当主争いは、いともあっけなく決着する事になったのである。
「これで……これで私が……私が当主だ……私こそがこの月園家の……この村の頭になる……はは……」
そんな熱で浮かされたような武治の様子を、信治と奏は逆にどこか冷めた様子で見つめていたが、しかし武治はそれに気付く事なく、ただ一人孤独に引きつった笑みを浮かべ続けていたのだった……。
「上手くやったな、奏」
屋敷の後始末があるという武治を残して屋敷の外に出た所で、信治は隣を歩いていた奏にそう声をかけた。
「何の事でしょうか?」
「とぼけなくてもいい。さっきの提案、名目上でも月園家の当主の肩書を得ておけば、今後の公安の仕事で使えるという打算もあったんだろう。遺言によれば、当主になった時点で名誉職とはいえ月園財閥の役員になれる。もちろん当主を辞めた時点で役員も解任という事になるが、元になったとしてもその肩書きは大企業の内偵調査をする時なんかに役に立つだろうな」
「……」
「月園家当主や月園財閥役員の肩書はほしいが、公安の仕事的にずっとその肩書きに束縛されたくもない。願わくばその座を欲していた武治兄さんに押し付けるのが一番。だからあの提案をした。知らぬは当主の座に固執する武治兄さんただ一人。そうじゃないか?」
「……そうかもしれませんし、そうでないかもしれません」
「多分、蘭ちゃん辺りは気付くと思うぞ。魑魅魍魎が跋扈する芸能界で生き抜いているんだ。それくらい敏感でないとやっていけないだろうし、あの子はそれを利用するくらいのしたたかさを持っている。近い将来、あの子が武治兄さんを手玉に取っている姿が見て取れるよ」
「それくらいしてもらわないと困ります。私、あの子のファンですので」
「ん? それ、本当か?」
「えぇ。ですから、あの子には可能な限り長く活躍してほしいものですね。次のコンサートも予約してある事ですし」
平気な顔でそんな事を言う奏に、信治は改めて言葉を送った。
「もう一回だけ言っていいか? お前、本当に昔と性格が変わったな」
「……こんな仕事をしていたら、性格くらい嫌でも変わります」
「そうか」
肩をすくめる信治に、奏はさらにこう続けた。
「話ついでに、信治兄さんには特別にとっておきの情報を教えましょうか?」
「とっておきの情報?」
「えぇ。公安筋の確かな情報です。もちろん他言無用ですが、こちらの思惑を見破ったご褒美という事で」
「……僕は構わんよ」
そんな信治の返事に、奏は少し改まった口調でその『とっておきの情報』を告げる。
「今の東京都知事が、飛地であるこの村の管理を煩わしく思っているようでしてね。行政的にも色々ややこしくなっている上に、事あるごとに埼玉県側との折衝に時間も予算も取られて、頭の痛い問題になっているようなのです。で、最近になって内々に埼玉県知事との極秘の会談を行っていましてね。これが何を示すか、兄さんにはおわかりですか?」
「……まさか」
信治は何かに思い当たったのか奏の顔をまじまじと見やる。
「えぇ。この村の所属を東京都から埼玉県に変更し、その上で埼玉県下のいずれかの市町村に合併させる計画が進行しています。今はまだ極秘の計画段階ですが……おそらく数年後には確実に実現するでしょうし、その流れを止める事はまず不可能でしょう。現状、その流れに反対する勢力は存在していませんので」
「反対する勢力が存在しない?」
「要するに、どの政治家も行政機関も、色々な面でこの村の事を持て余しているという事です。だから、この村の歪な状況が解消されるならそれに越した事はないと思っている。ここまで関係者全員の意見が一致しているなんて、政治の世界だと極めて珍しい話です」
「……もし、その合併が実現したらどうなる?」
信治の問いかけに、奏ははっきり答える。
「村人の生活そのものは、住所が変更される以外に変化はないと思います。ただ、自治体としての『巴川村』は消滅し、先程も言ったように隣接する埼玉県下のいずれかの市町村に吸収される事になるでしょう。当然、村役場は廃止され、恐らく合併先の市町村役場の支所という扱いになると思います。警察も管轄が警視庁から埼玉県警に移るでしょうが、この規模の小ささだとその際に周辺を管轄する他の埼玉県警の所轄署の管轄に編入される事になる可能性が高いでしょうから、その時点で巴川署自体が廃止になる可能性が高いと思います。そうでなくても、こんな悪夢のような事件が起こった警察署を埼玉県警が残そうとは思わないでしょうしね」
奏はそう言って小さく笑う。
「自治体としての『巴川村』がなくなる……という事は」
「はい。残念ですが、武治兄さんがこの先この村の村長になる未来はほぼ閉ざされたという事です。なりたくても役職自体がなくなるのだから当然ですね。それでも権力にしがみつきたいのなら合併先の市町村議会議員に立候補するなりするしかありませんが、武治兄さんがそれで満足できるかどうかはわかりませんし、そもそも当選できるかどうかも未知数です。残念ですがこの村の人口は多いと言えませんので、合併先の市町村の人口次第では落選する可能性さえあります」
「しかも、月園財閥における権威も事実上返上して、名前だけの役員にしかなる事ができない。となると、月園家はこの先『政治的な権威がほとんどない、土地と財産と家名だけの地方の一旧家』になる可能性が高いというわけか」
そう言ってから信治はせせら笑った。
「なるほど、確かにそれならわざわざ月園家の当主になる意味合いは薄い。お前が当主の座を武治兄さんに押し付けようとしたのもよくわかる」
「人聞きの悪い事を言わないでください」
「悪い、悪い。ところで、鎌崎村長はこの事を?」
「少なくとも、裏でそんな動きがある事は知っているはずです。あぁ見えても長年この村を治めてきた村長ですから」
「にもかかわらず助役の武治兄さんにその話を教えなかったのか?」
「教えれば武治兄さんは間違いなく反対するでしょうからね。皆が賛成の方向で一致しているのに、余計な反対論で合併話がなくなるの嫌がったんでしょう。多分、もう引き返せない所まで来たところで打ち明ける算段だとは思いますが」
「……知ってはいたが、あの村長もなかなか狸だな。今回の探偵さんへの依頼もそうだし、合併話を知っていながら助役の武治兄さんにあの態度が取れるとは。いやはや、怖い、怖い」
信治は呆れたように首を振る。と、奏は足を止めて信治の方を見やった。
「話は以上です。では兄さん、私はこれで。次に会うのは何年後になるかわかりませんが、くれぐれも私の正体については他言無用でお願いします」
「あぁ、わかってるよ。せいぜい、元気でやってくれ」
奏は一礼し、その場を去っていく。信治はそれを見送ると、大きく伸びをして言葉を漏らしたのだった。
「さて、診療所に戻って仕事でもするか。とにかくこんな面倒事は、僕はもう二度と御免だ」
同時刻、瑞穂は蘭たちと一緒に村長宅で帰宅準備を進めていた。事件が解決し、警察が後を引き継いだ以上、もう榊原たちがこの場に残ってできる事はない。一通りの手続きも終わり、ようやく村を出る許可が出た事もあって、急いで荷物をまとめているところだった。他の警察官たちは橋本の指示の下で捜査に動いており、瑞穂たちに構っている余裕はないようである。
「何とか、学校が始まるまでには帰れそうだね」
瑞穂はどこかホッとした風に愛美子に話しかけた。
「うん、何ていうか……深町さん、ありがとうね」
急に愛美子にそんな事を言われて、瑞穂は目を丸くする。
「どうしたの急に?」
「あの時、深町さんが私の頼みを聞いてくれなかったら、こんな終わり方にはならなかったと思って……。今思うと、あれが凄い英断だったんだなぁって思えてきて」
「あー、なるほど」
確かにあの時愛美子が瑞穂に榊原への依頼を頼まなければ、榊原がこの事件に介入する事はなく、事件は全く別の様子を見せていたかもしれない。そう考えると、愛美子の言う事もよくわかるというものだった。
「蘭さんはこの後、どうするんですか?」
「また、アイドル活動に戻るだけです。当主を正式に蹴った以上、もう後には退けませんので」
蘭は決然とした表情でそんな事を言う。
「応援しています!」
「ありがとう。また愛美ちゃんと一緒にコンサートに来てください」
「もちろんです!」
ちなみに、「護衛の依頼を受けた以上は最後まで全うするべきじゃないですか?」という瑞穂の意見で、このまま蘭も榊原の車で東京まで戻る事になっている。榊原はなぜか苦笑していたが、瑞穂の提案を拒否する事はなかった。また、この家の主である鎌崎村長は役場の業務が忙しくてこの場にはいないが、それでも出発の際には見送りに来てくれると約束してくれている。
「そう言えば、榊原さんは? さっきから姿が見えないみたいだけど」
愛美子が周囲を見回しながら聞く。
「何か、一つやり残したことがあるから、先に車の所で待っていてほしいって言ってたよ」
「やり残した事?」
「うん。私にもよくわからないけど、大した事じゃないとは言っていたかな」
「……深町さん、よくあの探偵さんと対等に付き合えるよね。私には無理かなぁ」
「それ、どういう意味?」
「別に大した意味はないけど……」
と、そんな事を話していた時、突然三人の携帯が同時に着信音を鳴り響かせた。
「あ、やっと電波が届くようになったみたい」
どうやら携帯の基地局が復旧したらしく、届かないでいたメールが一気に送られてきたようだった。が、瑞穂が肝心のメールを確認すると、そこには部活のあの後輩ちゃんからこんなメールが届いていた。
『お疲れ様です、先輩! 先輩が二週間連続で土日の部活を休んでる間に、時間もなかったので例の合同討論会の課題図書を決めておきました! 激論の結果、満場一致で近松門左衛門の『女殺油地獄』に決定です(パンパカパーン)! 先方の竹富高校ミステリー研究会にはもう伝えてありますので、先輩も当日までに購入よろしくお願いしまーす! ではでは!』
「な……」
何というかかなり個性的で、この場の空気を一切読まない文面のメールではあったが、瑞穂としてはそんな事に突っ込む気力もないようだった。確かに、事件のせいで部活の事はすっかり忘れていたが、どうやら自分がいない間にとんでもない事になってしまったようだ。
「っていうか、あれって推理小説だっけ? いや、確かに作中で殺人は起こるけど……一体何をどういう議論をしたら満場一致でこれになるのよ……」
とはいえ、ずっと重苦しい事件の渦中にいただけあって、どこか気分がホッとする内容のメールだった。見ると、他の二人もそれぞれのメールを見て、どこか安堵したような表情を浮かべている。
「……ま、日常に戻してくれたって意味じゃ、ありがたいのかもしれないけど」
そう言いつつ、瑞穂は後輩ちゃんに対する返信を手早く打ち込んで送信する。それは以下のような内容だった。
『明日の放課後、全員お説教ね!』
事件は終わった。非日常は日常へと戻ろうとしていた。
……『その人物』は、巴川の堤防の一角から水没している巴川署の廃墟を見つめていた。夕刻に近づいている事もあってすでに捜索隊は引き揚げており、建物は再び不気味な静けさに包まれているのがここからでもよくわかる。
と、不意に『その人物』の後ろから草を踏み分ける足音がし、『その人物』が振り返ると、そこにはくたびれたスーツに黒のアタッシュケースをぶら下げた男……私立探偵・榊原恵一が立っていた。
「どうも。こんな所にいたんですね」
そう言いながら、榊原は『その人物』の横に並び、一緒に目の前の光景を眺める。しばしの間、両者とも無言のまま時間が流れたが、やがて耐えきれなくなったのか『その人物』が榊原に声をかけた。
「何か御用ですか?」
「いえ、実は最後に一つ、あなたに確認しておきたい事が残っていましてね。探偵の性という奴ですが、よろしいですか?」
口調こそゆったりしているが、その目の奥から発せられている鋭い眼差しは全く衰えていない。それを実感しながら、『その人物』は榊原の言葉に応じた。
「事件はもう終わったはずでは?」
「えぇ、もちろん。これは単に、私の好奇心という奴です」
「……」
『その人物』は黙ったまま、肯定も否定もしなかった。が、榊原はその沈黙を肯定と解釈したのか、しばらくして一方的に話し始めた。
「気になったのは、歌峰巡査が手紙を送ったという彼女の『友人』についてでしてね。歌峰巡査が情報を託した点と、奏さんがすぐにその手紙の情報を掴んだところから見て、恐らくその人物も奏さんと同じく公安部の人間。もしかしたら奏さんの同僚か、もしくは部下なのかもしれませんね。結局、その人物の情報はわかっていませんが、果たして誰なのだろうと、こう思ったわけです」
「……」
「それで、何か手懸りはないかと今回の事件を思い返していたわけですが、そう考えると一つ気になる事がありました。他でもない、鬼首塔乃の証拠の隠し場所です。なるほど、確かに車に置かれたCDというのは盲点でした。仮に警察が車内を確認しても、CDの中に本当に音楽が記録されているかどうかまではなかなか調べませんからね」
そう前置きしてから、榊原はさらに踏み込んで論理を組み立てていく。
「ですが、冷静に考えるとこの証拠の隠し場所はいささか不自然とも言えます。確かにうまい隠し場所ではありますが、自分の人生を左右するかもしれないそんな重要な証拠をあの状況下で鬼首塔乃が車の中に置き去りにできるとはどうしても思えないのです。何しろ、いつ誰に持ち去られてもおかしくないわけですからね。しかも、彼女は城田が自分をはめた犯人だとわかっていました。だったら警察官である城田が捜査にかこつけて車内を調べるかもしれないという事は予測できたはずです。にもかかわらず、偽装してあるとはいえ証拠を丸裸で車内に放置するというのは、どうにも考えにくい話なのです」
「……」
「となると、彼女は本当は証拠をどうしたのか。私は、素直に自身の体のどこかに隠していたと思っています。逮捕した警察官が二人とも男性であった以上、塔乃が女性であるからにはその場で身体検査はできません。ならばひとまず、服の内側にでも隠しておけばばれる心配はないわけです」
「でも、実際に問題のCDは塔乃の車の中から見つかっているはずですが」
『その人物』のささやかな反論に、榊原は頷きを返す。
「確かに。しかし、心理的にそれがおかしい事も事実。となると、今までの論理のどこかに欺瞞があるという話になります」
「欺瞞?」
「えぇ。彼女は確かに問題のCDを車内から持ち出し、そのまま逮捕された。そして、最寄りの巴川署に連行され、そこで身体検査を受けて留置されたわけです。その時点で彼女がCDを持っていない事は明白。ならば簡単でしょう。この時に身体検査をした『誰か』が鬼首塔乃に協力していた。その人物は身体検査をするふりをして彼女からCDを受け取り、そして巴川署から救助された後で、私が推理をする直前にガレージに押収された車にCDを戻しておいたのです。恐らく、当初の予定ではその協力者がそのままCDを持ち出してしかるべき場所に届ける算段になっていたのでしょうが、今回の事件が起こって予定が狂い、今説明したように計画を修正したという所でしょう」
「……」
「つまり、鬼首塔乃が自身の所持していた証拠を隠すのに協力した人間がいる事になる。そして、その人物こそが逃亡する鬼首を支援していた公安の人間だと考えているわけでしてね」
「公安が指名手配犯を支援、ですか」
「えぇ。というより、私は公安が最初から鬼首塔乃を何らかの形で支援し続けていたと考えています。思えば、鬼首塔乃の行動には民間人としては色々不自然な点がありました。二年前の事件で、仮にもプロである捜査員の目を出し抜いて自宅からの逃走を成功させている点。生命保険会社の元調査員という経歴があるとはいえ、警察から逃走しながらこれだけの証拠をそろえられたという点。しかし、これらの疑問は公安が彼女を支援していたと考えれば全てに説明がつく話でもあります」
「なぜ公安が彼女の逃走に協力を?」
『その人物』の無感動な問いかけに、榊原は気にする様子もなく答えた。
「それはすでに奏さんが答えてくれています。血闘軍リーダーの娘である彼女が殺人犯として逮捕され、その事実が公になれば治安維持の側面からただでは済まない。もちろん、彼女が本当に連続殺人鬼だとすればさすがの公安も逮捕を許諾したと思いますが、今回の彼女は冤罪です。ならば、公安が自身の利益を優先するために、裏で極秘裏に彼女に手を貸したとしても不思議ではない」
「……もしそれが本当だとしても、その事実を公にする事はできませんね。鬼首本人も、本当のことを言うとは思えませんし」
『その人物』の指摘に、榊原も頷く。
「でしょうね。まぁ、とにかく、鬼首塔乃には公安の協力者がいた可能性が高い。その人物は鬼首塔乃が署に到着した際に行われた身体検査を担当して彼女が持っていた証拠を隠し、さらに歌峰巡査の手紙が確認されて以降に巴川署に潜り込んだと思われます。さて、そんな人間は一人しか思い浮かばないわけなのですが、あなたはどう思われますか?」
榊原の言葉に対し、『その人物』は身じろぎもしなかった。そして、榊原に対してそんな態度を取れること自体が、榊原の推理が的を射ている事の何よりもの証明になっている事にも気付いていた。
「まぁ、最初に言ったようにこれはあくまで私の推測です。証拠もないので正しいかどうかを問いただすつもりはありませんし、その必要もないと思っています。ただ最初に言ったように、探偵として一応すべての謎に答えを出しておかないと気が済まないものでしてね。本当に、因果な性分です」
そう言いながら榊原は『その人物』に鋭い視線を向けるが、『その人物』は何も答えない。その反応を見て榊原はこれ以上は無駄だと判断したのか、首を振りながらその場で静かに一礼した。
「では、今度こそ私はこれで失礼します。またどこかでお会いできる事を楽しみにしていますよ……広山紗江巡査」
榊原のその最後の言葉に対し、『その人物』……広山紗江巡査は振り返る事なく、榊原の足音が遠ざかっていくまでジッと巴川署の方を見つめ続けていた。その視線の先で、明かりのない巴川署の建物はゆっくりと夕闇の中にその姿を消していき、やがてその姿はまるで闇に飲み込まれるかのように完全に見えなくなってしまう。そしてその瞬間、紗江は本当の意味でこの事件が完全に終わったと、ようやく実感する事ができたのだった……




