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「もう大丈夫なようね」
アシュリーが声をかけると、はじかれたように顔を上げた。緑色の瞳がアシュリーを映す。
「アシュリー…?」
「気安くわたくしの名前を呼ばないで」
「ご、ごめん…ね」
ついいつもの口調で言えば、セシルは怯えた目をして謝った。
「…その名前は、忘れなさい」
「…え? 」
アシュリーは罪人だ。
もう公爵家の名前を使っても、どんな嘘を重ねても、きっと覆らない。
それならばそんな相手とは縁を切るのが、社交界で生き残る方法だ。
もちろん、そんなこと教えてあげないけど。
セシルが無事に起きたのだから、これでアシュリーの役目は終わりだ。
振り返ると、少し無防備な表情のカーティス達がいた。
「これで良いでしょうか?」
声をかけるとそちらも我に返ったように、アシュリーを見た。
「あ、あぁ。…見事だった」
「…おほめに預かり光栄ですわ」
ドレス姿ならきちんとスカートの裾を摘まんで礼をしたところだが、生憎今は違う。
そっと頭だけ下げるにとどめる。
魔力は回復しても、体の衰弱は治っていない。本格的な治療はこれからだ。
治療の邪魔にならないよう アシュリーとカーティス、護衛の二人と看守、五人は救護室を出た。
「アシュリー・ラウドルップ、改めて礼を。そなたの魔術は、我々をも癒してくれた」
聞けばあの舞い散らした花びらに触れた者は、魔力を吸収出来たらしい。
「まぁ、そうでしたのね」
「あぁ、救護室にいた他の患者にも効いただろう」
「わたくし、お役に立てまして?」
「もちろんだ」
「でしたら…」
相手に気付かれように、呼吸を整える。
そう、ここからが本番だ。
「わたくし、殿下にお願いしたいことがございます」
そのために、大嫌いなセシルに魔力を分け与えたのだ。
「お前、少し殿下にお褒めの言葉をいただいたからと、図々しい」
ダニエルが怒ってアシュリーに詰め寄ろうとしたが、カーティスが手でそれを制した。
「話は聞こう」
「ありがとうございます」
僅かに手が震えた。
今までアシュリーはたくさんの物をねだってきたし、そのほとんどが叶えられてきた。叶わないかもしれない、と不安になるのは初めてだ。
「…わたくしの入れられていた牢の、隣の牢に入っている者の手当てをしてほしいのです」
「何?」
アシュリーの言葉が予想外だったのだろう。カーティスが聞き返した。
「そなたではなく、隣の…?」
「はい。わたくしはこの通り無傷です。ですが、隣の者が蛇に噛まれてしまいました」
「その者の名は」
「名前…」
この時、初めて名前を訊いていなかったことにアシュリーは気付いた。
あんなに話していたのに!
「名を知らないのか? あの地下牢に入れられていたのなら、なんの罪を犯した?」
「……」
それもわからない。
アシュリーが知っているのは、アシュリーよりも先に牢に入っていたことと、看守をからかって、食事を抜かれたこと。毛玉の魔術が使えることだけだ。
「…知りません…。ずっとわたくしは、わたくしの話しかしておりませんでした…」
アシュリーにとって、自分より身分が低いものは自分に仕える者がほとんどだった。
だから、名前を知らなくても済むし、個人的な話をアシュリーから訊くことはあまりない。
彼は、わたくしの使用人ではなかったのに…。
助けてあげると言っても、余計なお世話だと彼は言うだろうか。
「…ですが、わたくしが騒いだせいで蛇は狂暴化し、怪我を。それに、牢での生活の仕方を教えてもらいました。わたくしの恩人なのです」
彼がいなかったら、アシュリーはずっと自分の無罪を主張し続けていた。
セシルへ魔力を分け与えていたかどうか。
「殿下。わたくしの裁判の口添えと引き換えで構いません。どうか、一度医師の診察を」
囚人でも、理由があれば簡易な手当てはしてもらえるだろうが、彼の場合もっと傷が酷い。そのうえ、看守の心証は最悪だ。王子という立場の人が手配した、上級の医師に見てもらいたい。
「裁判の口添えは要らないと?」
「はい」
アシュリーが即答すると、カーティスは悩んだようだ。
「…逃亡の恐れがあるから、牢から出すことは出来ない。医師をその牢に派遣しよう。手当てや治療は私の名のもとに出来る限りのものを約束する。それで良いか?」
「はい。殿下、ありがとうございます」
アシュリーは頭を下げた。
今まで カーティスが約束すると断言したとき、その約束はどんな些細なものでも絶対守ってくれた。
…そんなところが好きだった。
「殿下、そろそろ」
ずっと側に控えていた看守が前に出る。
「あぁ、…他になにかあるか?」
カーティスに訊かれ、アシュリーは目を丸くした。
「沢山ありますわ。本当に沢山。ですが、もうわたくし疲れてしまいました」
ここまでる来るときすれ違った人々は、アシュリーに気付くと、身分あるものは睨み付け、看護師やメイドなどの今回の事件をよく知らないものは、手枷を嵌められた囚人を好奇心一杯の目で見た。
きっと、わたくしも笑っていた…。
そんな他人の目はどうでもいいが、綺麗に磨かれた大理石、壁に掛けられた大きな鏡、飾られた銀細工の壺、それらにカーティスの隣にいる惨めな自分の姿が映る度、泣きたくなった。
「ずっと地下にいたからか、ここは何だか眩しくて」
窓の外を見る。久しぶりに青空を見た。
「そうか」
「はい」
カーティスも執務があるだろう。
だから、ここでお別れだ。
それでも、アシュリーは罪人だ。罪人を護送するのに看守一人だけではいけないらしく、護衛の一人を置いていった。
カーティスが去るのを見送り、牢へと向かう。
なるべく早く医師が来てくださるといいけれど…。
看守と護衛に挟まれる形で歩きだす。
牢に帰りたくなる日が来るとは、思わなかった。
それなのに。
「…あら?」
アシュリーが再び地下牢に入ることはなかった。