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2. 引けば、逃げる

 返事をしないまま、朝が来る――――。


 返事をしないと決めたわけではない。決められないまま、足のほうが先に王宮の裏門をくぐった。


 王宮の厩は競走場よりも静かで、藁の匂いが濃い。


 水を運ぶ音と、桶を置く音。それきり、誰も喋らない。


 高い窓から、光が斜めに落ちている。埃が、その帯の中だけで動いている。


 昨日の泥は、爪の間にまだ残っている。落としきれないまま、ここへ来た。


 いちばん奥の馬房の前に、人が三人立っている。三人とも、曳き綱を持ったまま動かない。


 その馬房の扉にだけ、閂が二本渡してある。


 外した跡が、扉の木に二本ぶん白く残っている。


「……はぁ。お嬢。ようこそ、と申し上げるべきなのですが」


 厩務長のハーゲンが、目を一度閉じてから息を吐く。


「二年、誰も乗せておりません」


「曳くだけで、自分を入れて三人がかりです」


「毎朝、曳き運動だけはさせております。走らせたことは、二年、ございません」


「アルゲントは……、二年前まで一番速い馬でしたが……」


「いまは、速さを見せる場所がございません」


 三人の曳き手が、綱を握り直す。


「では、曳かずにおきましょう」


「へっ?」


 ハーゲンがパチクリと目を見開き――――首をかしげながら、閂を外してくれる。


 馬房の戸を開けて、中へ入る。葦毛は尻を向けていて、耳だけがこちらを向いている。


 藁を踏む音を隠さずに歩く。隠して歩くと、馬は首を上げる。


 首から肩へ掌を滑らせる。


 汗はない。毛は乾いている。


 毛づやは悪くない。世話は行き届いている。


 二年ぶん、行き届きすぎている。


 誰にも乗られず、毎朝きれいにされて、この馬はここに立ちつづけてきた。


 磨かれて、閂を二本かけられて、走らせてはもらえない。


 速かった馬が、ここに立っている。速さは、もうこの馬の側には残っていない。


 右前の蹄に触れる。温みは、左とほとんど変わらない。


 顎の下で脈を取る。速くはない。


 人の手を拒む動きも出ない。


 それでも、誰も近づけない馬と呼ばれている。


 それから、唇に指をかける。


「……失礼します」


 口の左側。(くつわ)の当たる位置の粘膜が、白く盛り上がって潰れている。


 古い傷だ。塞がっては、また擦れている。


 指の腹に、硬いものと柔らかいものが交互に当たる。


 傷は左側にだけある。引かれるとき、いつも同じほうへ力がかかったのだ。


 指が勝手に止まる。


 声は出さない。出せば、この馬が驚く。


 止めた指に、少しだけ力が入ったらしい。葦毛が首を上げる。急いで、力を抜く。


 腹を立てても、この傷は戻らない。二年、誰の指もここへ届かなかっただけだ。


「これは?」


「二年前からです。……はぁ。蹄より先に口を診てくれと、何度申し上げたか」


 わたくしは、傷の縁をもう一度なぞる。


「引けば、ここに当たります」


「……うーん。当たるから逃げると?」


「はい。逃げるしかありません」


 逃げる、と人は言う。この馬は、痛いところから離れているだけだ。


 可哀想だとは思わない。可哀想だと思う手は、たいてい引く。


 この馬に要るのは、同情ではなく、引かない手だ。


 葦毛が、指の先を確かめるように鼻を寄せてくる。


 耳は倒れない。倒れるのは、綱が張ったときだけだ。


 張らなければ、この馬はただの八歳の牡である。


 通路のほうで、長靴の音が止まる。黒い外套。右の手袋だけが新しい。


「なぜお前の声だけで止まる?」


 わたくしの背中に向かって、王太子が訊く。


「おはようございます殿下……。わたくしの声だからではありません。馬に合わせたからです」


「馬に合わせたから……?」


 その語を、男が口の中でもう一度なぞる。


「五百二十斤が来ます。誰でも力で解決しようとします。でも、馬は心ある生き物です。馬に合わせただけ……。競争でもわたくしは十二回、馬に合わせました」


 十二回。数えたのはわたくしではなく、賭け札を買った人たちのほうだ。


「……はぁ。十二回、と仰いましたか?」


「はい。十二戦、馬を思いました」


 ハーゲンの喉が鳴って、それから言葉になりそこねる。


「引く者が悪いのではありません。馬に寄り添う者が、いないだけです」


 鞭を打たずにいられたのは、勝つ気がなかったからではない。


 打てば壊してしまう馬に、十二回、乗ってきただけだ。


 それを十二回続けると、人は最下位令嬢と呼ぶ。呼ばれても、直しようがない。


 厩の入口から、黒鹿毛(くろかげ)が一頭、曳かれて入ってくる。


 汗を流している。稽古の帰りだ。


 曳いているのは、帽子を後ろ前に被った小柄な騎手だった。


「ねえ。キミ、昨日の人?」


「……はい」


「どうやって止めたの?」


「馬に合わせただけです」


 帽子のつばが、くるりと回る。


「ふうん」


 騎手はハーゲンたちの様子を見て首を傾げた。


「ねえ、その口の傷。キミが見つけたの?」


「痛がっていたので」


「ふうん。痛みをわかる人が、いなかっただけかあ」


 この男ヨルンは答えを待たずに、次を訊く。


「ねえ。キミ、明日も来るの?」


「……はい」


 来る、と自分で言ってから、まだ返事をしていないことを思い出す。


 ハーゲンが咳払いをする。


「……はぁ。稽古は、終わったのですか?」


「終わってなかったら、ここにいると思う?」


 ハーゲンが目を閉じる。息を吐くまでが、いつもより長い。


「ねえ、厩務長。この馬、王国杯に出るの?」


「……はぁ。殿下がそう仰るなら、出ます」


 ヨルンは黒鹿毛の首を叩いて、通路の奥へ曳いていく。


 去り際に一度だけ、こちらの手のあたりを見ていった。


 見ていったのは、鞭でも成績でもない。手のほうだ。


 誰も、わたくしの手を見たことがない。見るとしたら、成績のほうだ。


 王太子が、馬房のほうへ半歩だけ進むが――それ以上は来ない。


 外套の脇で、右の手袋が小さく震えている。


 握り込もうとして、握れていない。指の付け根のところで、革が細かく動く。


 止めようとして、止まらないから、脇へ押し込んでいるようだ。


 誰も、それを見ていない。


 わたくしも、見なかったことにする。


 見られていると分かった手は、もっと震える。馬の脚と同じだ。


 葦毛が藁を鼻先で押しのけて、水を飲みはじめる。飲む音だけが、厩に響く。


 梁の上を、雀が二羽、行ったり来たりしている。


「……はぁ。お嬢……明日、検量室へお願いします。そのお身体では背荷(せに)が足りませんので」

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