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1. 十二度目の、止まれ

 泥が跳ねて、頬に当たる――――。


 第二の曲がり。手綱(たづな)を握る左の掌に、脚の運びの狂いが伝わってくる。


 一完歩(かんぽ)ごとに、左の前が地面に長く乗らない。踏むのではなく、置いて、すぐ抜いている。


 馬の背は、走っているあいだじゅう波打っているが、四つに割れたその拍の、ひとつだけが浅い。


 十二頭のいちばん後ろ。上枠千六百歩の道中で、わたくしはもう順位のほうを見ていない。


 見ているのは、掌の中の乱れだけだ。


 今日の板には〈泥〉が出ている。夜のうちに降って、砂に水が残っている。


 水を含んだ砂は、脚を吸う。抜くたびに、腱の一本ぶんだけ余計に伸びる。


 前を行く尻が遠ざかって、泥の礫が続けざまに飛んでくる。


「行け、そのまま行け!」


 観客席の声は、いつも後ろから追いかけてくる。


 頬が痛い。目を細めても、砂の粒は瞼の際に入ってくる。


 ここで抑えれば、十二戦十二敗になる。抑えなければ、この脚は今日で終わる。


 どちらを選ぶかは、いつも一拍で決まる。決めたあとに、長い一日が来るだけだ。


 手綱を緩めて、抑えて、抑えて、速度を落としていく。


 (らち)の内側で止めて、鞍を降りる。膝の高さまで泥が跳ね上がった――。


 左の掌を、左前の浅屈腱(せんくつけん)の上に置く。


 熱い。右と比べるまでもない。


 指の腹が、脈に押し返される。腱の輪郭が、朝より一回り太い。


「あなた、よく走りました。……もう、走らせません」


 ベルダが鼻を鳴らして、首を下げる。掌の下で、脈が速いまま落ちてこない。


 間に合った。間に合ったはずだと、毎回そう思う。


 観客席から、声が降ってくる。


「また止めた。あの娘、また止めたぞ」


「これで十二連敗だ。十二連敗だぞ」


「三金だぞ。三金! 返してくれ!」


「またミルテかよ……。あの娘はいつも止める」


 賭け札の売り場は観客席の裏にあって、罵声はいつもそこから飛んでくる。


「頼むから、最後まで走ってくれ!」


 走らせれば、この脚は戻らない。戻らなくなった脚を、わたくしは幾つか知っている。


 わたくしが止めた馬のうち何頭かは、そのあと別の騎手の下で壊れた。


 止めた意味は、どこにあったのか。二年、その答えが出ない。


 止めた馬の馬主は、二度とわたくしに乗せない。回ってくる馬は、年ごとに悪くなる。


 泥の中を、(ひづめ)の音だけ聞きながら曳いて帰る。


 厩の者が通路の口で待っている。


「ミルテ様。お預かりします」


「……お願いします。左の前を、冷やしてください」


 通路は狭い。すれ違う者が、みな半歩ぶん余計に避けていく。


 誰も、止めた理由を訊かない。訊かれたことは、この二年で一度もない。


 訊かれないので、答える文もできない。


 検量室の前で、父とすれ違う。


「セルマ。……セルマ」


「はい」


「泥だな。ひどい泥だ」


 父の外套は、裏地が擦り切れて糸が垂れている。


 その糸を指で押し込んでさしあげたいのに、手が動かない。


「馬は……馬は、無事か?」


「連れて帰れます」


 連れて帰れる、という言い方しか、わたくしは持っていない。


「そうか。……そうか。無理をするな。無理だけは、するな」


「はい」


 それだけ言って、父は二度うなずく。叱らない人で、叱れる立場でもない。


 この人が二度言うのは、一度目で足りていないと自分で分かっているからだ。


       ◇


 貴賓席のあたりで、声の質が変わる。


「大変だ!! 白馬が(らち)を越えたぞ!」


「誰か押さえろ、頭を押さえるんだ!」


 曳き手を振り切った葦毛(あしげ)が、埒を越えて観客席の前を横切っていく。


 キャアアアア! うわぁぁぁぁ!


 観客が段を駆け上がり、売り場の札が風に散る。


 白いものが泥を跳ね上げて走ると、それだけで人は声を上げる。


 厩の者が三人、順に前へ出る。


 一人目が手綱に手を伸ばして、引くが――――葦毛は首を跳ね上げ、人を吹き飛ばして逃げる。


「回り込め! そっちから回り込め!」


 二人目も同じように引いて、同じように弾かれる。


「綱を短く持て。短く持つんだ!」


 三人目は引きずられ、泥に膝をつく。


「無理だ、こいつは止まらん!」


「どいてどいて! 危ない!」


 三人とも、同じことをしている。手綱を引いて、手を上げている。


 引かれた馬が逃げるのは、たいてい口のどこかが痛いからだ。


 わたくしは、すっと埒の中へ入る。


 入ってから、自分が入ったことに気づく。


 三十歩。


 葦毛が向きを変えて、こちらを見る。耳が後ろへ寝て、鼻の穴が開いている。


 右の前だけ、着地が浅い。乗っていなくても、それは見える。


 手綱は取らない。


 にっこりとほほ笑み、落ち着いた声で話しかける。


「あなた、右の前が痛いのですね。……いま、下ろします」


 上げていた手を、腿の横まで下ろす。体重は、後ろの足に置いたまま動かさない。


 五百二十斤が、興奮したまままっすぐこちらへ来る。


 怖くないわけがない。手は、上げようとして震える。


 上げれば逃げる。逃げれば、あの脚が終わる。


 だから、下げたままでいる。


 一完歩。二完歩。


 三完歩、四完歩。


 目が動いて、わたくしの手のあたりで止まる。


 六完歩で、止まる。


 ぶふぅと鼻息が、襟にかかる。わたくしは、まだ手を上げない。


 汗と、藁と、鉄の匂い。息は熱くて、湿っている。


 背後の観客席が、凍ったように静かになる。


 泥に膝をついた者が、立ち上がるのも忘れてこちらを見ている。


「……止まった。あの馬が、止まったぞ」


「待て。近づくな。いま近づけば、また逃げる」


 誰も動かない。動けるのは、綱を持っていない者だけだ。


「どうどうどう……。もう大丈夫よ?」


 わたくしは低い声でゆっくりと話しかけながら、優しく首筋をなでた――――。


 ぶふぅ! ぶふぅ……。


 葦毛は徐々に落ち着きを取り戻していく。


「よしよし……」


 貴賓席から、黒い外套の男が降りてきた。


 右の手袋だけが新しい。左は、革が飴色になっている。


「お前が、十二戦十二敗のミルテか?」


「……はい」


「この馬に、いま何をした?」


「見立てを、申し上げただけです」


 男の靴が、泥の手前で止まる。


「脚が痛んでいるのか?」


「はい。右の前が」


「この馬の脚を、いつから見ている?」


「いま、初めて見ました」


 男はわたくしの手のほうを見ている。馬のほうは、見ない。


「二年のあいだ、この馬は誰にも止まらなかった」


「引いたからです」


「引かなければ、止まると?」


「止まる馬なら、止まります」


 風が、白木の埒を鳴らしていく。


「王国杯に、この馬で出ろ。三十日後だ」


 男はニヤリと笑みを浮かべた。


「……あの、わたくしは」


「ただし、勝つな」


 言い方は、伯爵令嬢への頼み方ではない。


 そう、彼は王太子だった。三十日後の王国杯は、六年に一度の選定の年に当たっている。


 勝つな、と言われたのは初めてだ。勝て、とも言われたことがない。


 この人は、馬の手前で足を止めている。それより先へは、一歩も出てこない。


 右の手袋は、外套の脇に押し込まれたままだ。


 泥がゆっくり乾いて、頬の上で突っ張りはじめる。


「任せたぞ」


 貴賓席へ戻っていく背中を、厩の者たちが立ったまま目で追っている。


「王国杯だとよ。あの馬で、あの娘が」


「王太子様直々の依頼……。大変なことになったな」


 命じられたことの意味が、何ひとつ分からず困惑するばかり。


 わたくしは、返事をしていない。

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