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ヘンゼル

 薬売りのヘンゼルがやってくると、普段行商人には全く興味を持たない町中の娘がいっせいに色めき、浮き立つ。彼は山奥でひっそりと暮らしているとは思えないほど美しく優雅だった。

「この前の頭痛薬をいだたけないかしら? おかげで母の偏頭痛もずいぶん良くなったみたい」

「おじいちゃんが腰を痛めてしまったの。何かいい薬を教えてくれない?」

「わたし、最近寝つきが悪くて――」

 自分の周りをとりまき小鳥のようにさえずる娘たちに、ヘンゼルは優しげなほほ笑みを浮かべた。

「いつもありがとうございます。アンナさん、母君の具合が良くなって何よりです。ヒルデさん、痛みに良く効く湿布薬がありますよ。それからレナさん、この薬草を煎じて飲むといい。よく眠れるようになります」

 一人ひとり丁寧に受け答えをしていく柔らかな物腰に、夢中になる娘も少なくはない。

 ドロテアもまた、その中の一人だった。

「ねえ、ヘンゼル。今日の仕事が終わったら、うちで食事でもどうかしら? 父がどうしてもあなたに会いたいって言っているの、膝の湿布薬についてお礼がしたいのだって。それに、今日はとても良い鹿の肉が手に入ったのよ。わたしも味付けを手伝ったのだから!」

 だがドロテアの熱心な誘いに、ヘンゼルは困ったように首をかしげるだけだった。

「申しわけありませんがドロテアさん、家で妹が待っているので」

「あらまあ、それは残念。いつも思っているのだけれど、あなたって随分と妹さん思いなのね」

 妹が待っている。それはヘンゼルの断りの常套句だった。

「本当に申しわけありません。妹は昔から体が弱かったのですが、最近さらに足を悪くしてしまって、一人でいることもままならないのです。一刻も早く帰らないと」

「まあ、それはとてもかわいそうね。残念だけれど仕方ないわ。妹さんに、どうぞよろしく」

 言葉だけはしおらしげに言ってはみるものの、ドロテアの内心は見たこともないヘンゼルの妹に対する嫉妬でいっぱいだった。きっと彼の妹は体が弱いのをいいことに、美しい兄を独り占めしようとわがまま放題に違いない。

 ヘンゼルは、優しすぎる。

「妹だなんて、わかりやすい言い訳よね。ねえ、これはわたしの想像でしかないけれど、ヘンゼルはもしかしたら誰にも言えないような……。そう! 例えば商売女とか、若い未亡人なんかに入れあげているんじゃないかしら」

「えっ、本当?」

「ヘンゼルに限ってまさか、そんな」

「じゃなかったら、ドロテアの誘いを断るわけがないじゃない。知ってる? 彼女、『あの』求婚を断ったのですって」

「まあ! なんてもったいない」

「いいえ、みっともないと言うのが正しいのよ。彼に相手にもされていないくせに」

 ヘンゼルが去った後、くすくすと笑いながら聞こえよがしの噂話をする娘たちに、ドロテアはぎりりと歯を食いしばらせた。

 この一帯を治める領主の息子との縁談を断ったのは事実だ。もちろん両親は、その結婚話を進めようとしていたのだが、それを頑なに拒否したのは彼女自身だった。

 見た目は悪くない。領主の息子とだけあって身のこなしは優雅だし、ドロテアへの接し方は言わずもがな、いつだって紳士的だった。

 だがドロテアはどうしても比べてしまう。


 こんな時、ヘンゼルはなんて言うかしら。ヘンゼルならこんな見え透いたお世辞は言わない、もしヘンゼルなら、ヘンゼルならヘンゼルならヘンゼルなら――。

 彼以上に素敵な人などいるのかしら? 

 

 ヘンゼルにドロテアが心底夢中なのは誰の目にも明らかなのに、彼女の考えは全く逆だった。彼が、自分(ドロテア)に夢中なのだ。その証拠にヘンゼルに群がっていた娘たちは、彼女が姿を現すと同時に揃って身を引く。

 他のなんの取り柄もない娘たちに対し、ドロテアといえば町一番の美人で家は裕福、しかも権力者から求婚も受けている。当然相手にするわけがないが、町中の男から浴びせられる熱っぽい視線など日常茶飯事だ。誰よりも美しいという絶対的な自信が、ドロテアにはある。

 対するヘンゼルといえば、その美しい容姿や立ち居振る舞いに老若問わず町中の女が群がってはいるものの、実際はただの孤児らしい。彼自らそう言っているのだから真実なのだろう。ドロテアの両親がヘンゼルを娘の結婚相手としてためらう理由もそこにあった。

 けれどそれのどこに問題があるのだ、とドロテアは思う。育ちの違いは、思い合う二人の障害になるどころか、燃え上がらせるための材料でしかない。ヘンゼルはきっと家柄のいいドロテアに対して劣等感を持っているのだ。彼は体の不自由な妹を理由に自ら身を引こうとしている、そう思っていた。

 ヘンゼルが、自分との許されない恋に身を焦がし、それでも諦めきれず苦悩する姿を想像するたび、ドロテアの胸は甘く疼く。自分という存在がありながら、ヘンゼルが商売女なんかに目を向けるわけがない。他の女たちに対するようなそっけない態度も、きっとドロテアを諦めようと必死なのだ。

 ヘンゼルを想えば想うほど、ドロテアのこうであってほしいという願望はこうに違いないという妄信に変わっていく。

 下らない噂を一掃し、娘たちの鼻を明かすにはこの目で事実を確かめるしかないわ。次にヘンゼルがこの町を訪れた時、帰路に着く彼の後を追おう。ドロテアはそう心に決めた。


 後を追うのは意外に簡単だった。

 ヘンゼルの持ってくる薬は大抵、陽が沈まぬうちに売り切れる。貴重な煎じ薬はもちろん、大して要りようのない薬でも、彼と親しくなれるきっかけがつかめればと女性が群がるからだ。

 当然あっという間に薬は売れ、個人的な話ができなかったと気落ちする女たちを尻目に、ヘンゼルは家路へ急ぐ。ドロテアはその後姿をこっそりとついていった。

 険しい山道かと思いきや、頻繁に町へと下りるヘンゼルの足によって踏み慣らされた道は意外と歩きやすく、か弱いドロテアの足でも容易に着いていけた。それでも長い道のりに、上がる息と痛む足を叱咤して、ドロテアはヘンゼルに気づかれないように細心しながら追いかけた。やがてたどり着いた小さな家。ヘンゼルは控えめに二回扉を叩いていた。

 だいぶ時間が経った後、ゆっくりと扉が開かれる。

 遠目ではあるがその時ヘンゼルに浮かんだ表情を、ドロテアは一生忘れることがないだろう。ドロテアは荒れ狂う己の感情に蓋をして、その場から離れ、足早に山を下りた。


 翌日。いつも通り町に姿を現したヘンゼルを確認するや否や、ドロテアはあの家へと急いだ。顔は見えなかったから誰が住んでいるのかは知らない。ヘンゼルの言うように彼の妹かもしれないし、噂好きの娘たちが言っていた商売女、あるいは寡婦なのかもしれないが、そんなことはどうだって良かった。確認すべきなのは、そんな女が存在していたとしたら誰であれ、ヘンゼルの隣に立つに相応しい、ドロテア以上に美しくて高貴な存在であるか否かだった。 

 急ぎ足のドロテアは、前回以上に息を切らしながらようやくあの家の前に立った。まだずいぶんと陽は高い。ヘンゼルは今頃、町の女たちに捕まっていることだろう。

 ドロテアは昨日彼がしていたように、扉を遠慮がちに二回たたいた。しばらく経っても何の反応もなかったが、ドロテアは辛抱強く少し待ってから再び扉を二回たたく。それを数回繰り返した後、やっと扉は開かれた。

「……兄さん、なの? 今日はずいぶんと早いんですね」

 いらいらと足踏みしながら待つドロテアを迎えたのは、ヘンゼルとよく似た面差しを持つが顔色の悪い痩せた娘だった。

「あの、だ、誰、ですか?」

 娘は目を見開いたかと思えばすぐに視線を泳がせ、怯えたように身を縮めた。

「わたしは」

 ドロテアはただ、名乗ろうとしただけだった、それなのに。

 長い道のりを必死に歩くうち、ほつれてしまった髪の毛をかき上げようとドロテアが腕を上げた瞬間、娘はまるで自分に危害が加えられるとでも言いたげに身を引いたのだ。

「ご、ごめんなさい……」

 娘は両手で頭をかばいながら身をすくめる。その大げさな仕草に、ドロテアは思わず大きな声をあげてしまった。

「何なのよ、別になにもしてないじゃない!」

「す、すみません。ごめんなさい」

 びくびくと体を震わせる娘を前にドロテアの苛立ちはさらに募る。

 随分と痩せてはいるが、ヘンゼルとよく似た整った顔立ち。きっと彼女が彼の言う、病弱な妹なのだろう。確かにひ弱そうだが、この様子では到底気が合いそうにもないとドロテアは思った。

 その証拠に、

「ねえ?」

 ただ一言。そう言っただけなのに、娘は青ざめた顔で後ずさった。

「わたしはドロテアと言うのだけれど。あなたはヘンゼルの妹さんよね? いつも彼から聞いているわ。わたしは――、わたしは。そう、ヘンゼルとは将来を誓いあった仲なの」

 まるで自ら嗜虐心を煽るようなヘンゼルの妹の態度に当てられたのか、ドロテアは思ってもいないことを口走ってしまっていた。

「え……、に、兄さん、の?」

「そうよ、彼はわたしに将来を誓ってくれた。だからあなたにとって姉になるの。入れてくれるでしょう? 大切なお話があるの、他でもないあなたに」 

 こうなってしまってはもう後には引けない。挑むようなドロテアに、だが娘は警戒心をあらわにするだけだった。

「に、兄さんからは何も聞いていないんです、すみません。それに誰も家に入れるなと言われているので……、ご、ごめんなさい。ごめんなさい」

 自らの頭部を両手でかばい上目づかいでこちらを伺う娘の様子は、ドロテアをさらに苛立たせるだけだった。

「あのねえ、さっきから何なのよあなた! わたしは何もしてないでしょう? いいからさっさと家に入れなさいよ!」

「い、いやっ」

 娘が足をもつれさせ転ぶ。その無様な姿にドロテアは悪いことをしてしまったと思う反面、胸のすく思いもした。 

「あら大変! さあ、わたしの腕につかまって?」

 全く気に食わないとは言え、一応これでもヘンゼルの妹なのだ。上辺だけの白々しい気遣いの声をかけ、助け起こそうとドロテアは手を差し伸べるのだが、娘はドロテアの顔を見上げはっと目を見開いた後、思い切り顔を背けた。

「ねえ、いい加減に――」

「グレーテル! 大丈夫?」

 背後から降りかかる声。ドロテアは爆発寸前の怒りに、一気に冷や水をかけられたような気分になる。

 たった今。町で薬を売っているはずのヘンゼルが、ドロテアを押しのけるように彼の妹へと駆け寄っている。

「違うの、これは」

 寸前まで怒りの形相で立ち尽くしていたドロテアと、怯えきった顔で倒れ伏しているヘンゼルの妹。二人の最初からのやり取りを見ていなければ一方的にドロテアに非があるとしか言いようががない。ヘンゼルは彼女に目を向けることなく娘に駆け寄り、助け起こした。

「怪我はない?」

「だ、だ大丈夫、です。あ、あの、今のはわたしが勝手に転んでしまっただけで、本当に何も――」

 娘の視線は、扉の前で立ちすくむドロテアと床を行ったり来たりしていた。暗にこの一連の騒動の犯人はドロテアだと言わんばかりの態度に、ドロテアは精いっぱい気勢を張って、自分が悪くないと訴えるしかなかった。

「わたしは! ……わたしはただ、一緒にお話ししたいと思っていただけなのだけれど、この状況では信じてはもらえないでしょうね。ごめんなさい。グレーテルさんと言うのね、あなた? 驚かせるつもりはなかったの」

「い、いいえ! わ、わたしが悪いんです。本当に、わたしが……。ごめんなさい、許してください」


 帰り道、ドロテアはみじめな気持でいっぱいだった。

 今頃あの娘は、ドロテアに意地悪されたとヘンゼルに語っているに違いない。もう、ヘンゼルに完全に嫌われてしまった。

 たしかに、ヘンゼルを独り占めしている彼女に対して多少なりとも悪意はあった。でも意図して危害を加えるつもりはなかったのに、あの態度。

 本当に苛々する。どうにかしてやりたいわ。と、ドロテアは思う。

 あの大げさな顔。思い出せば思い出すほどグレーテルとかいう娘は気に入らない。

 どうせもう、ヘンゼルには嫌われてしまったのだから、まずは恥をかき捨てるつもりで、町中の娘たちに今日の出来事を話そう、そうドロテアは決意した。あの妹がどれだけ卑怯でどんな風に自分を陥れたのか。この話とヘンゼルの家への道順を教えたら、きっと少なくない人数の娘たちが押しかけるに違いない。大勢の娘たちから責め立てられる、グレーテルのみじめな姿を想像して悦に入るドロテアを現実に返したのは、思いもよらない声だった。

「待って、ドロテアさん!」

「え……?」

 まさか、さっき逃げるように別れを告げたはずなのに、とドロテアが振り返った先にいたのは、まごうことなきドロテアの想い人だった。

「送るよ」

 あれからすぐに追いかけてきたのだろう、息せき切った様子のヘンゼルは乱れた髪を整えようともせず、ドロテアが来た道とは全く違うところへと導いた。

「え、でもこっちは」

 ドロテアの前には、人の手も入っていないようなけもの道が目に入った。

「いつもの道で帰ったら、陽が暮れてしまう」

 ――これは誰にも秘密の近道なんだ。

 頑なに敬語を崩さなかったヘンゼルが、秘密めかした微笑みを浮かべる様子に、ドロテアはすっかり舞い上がってしまった。

 ヘンゼルは、すぐにドロテアの後を追ってくれた。グレーテルとかいう娘が、あることないこと吹聴する前に。

「まあ、そうなの。誰にも秘密、なのね?」

 物憂げな表情から一転、くすくすと笑いを含んだ声でドロテアは問う。

「そうなんだ、いやそうなんです。ドロテアさん、きみを早くご両親のもとへ送らないといけないといけませんから」

「ねえ、いつも思っていたのだけれど、もう少し。そうね、敬語じゃなくって、さっきみたいに普通に話してほしいってずっと、いえ最初から思っていたのよ。もし、あなたさえ良ければ」

「そう?」

 どことなく照れくさそうに答えるヘンゼルの姿に、ドロテアはますます胸を高鳴らせた。

「そう言ってもらえるとうれしいな。実は敬語はあまり得意ではなくて。気づいていると思うけれど、育ちがあまり良くないから」

「育ちなんて全然関係ないと思うわ。実際、わたしはあなたのことを素晴らしい人間だと思っているのだし。あ、わたしだけではないのよ。両親も友だちも口をそろえて言っているの。あなたの立ち居振る舞いは、まるで貴族みたいだって! それにとても優しい……。こんなひなびた田舎にいるのはもったいないって、いつも思っているの」

「ありがとう、ドロテアさん」

 そう言いながらヘンゼルは、目の前に生い茂る藪をかき分けて道を作り、ドロテアに先に行くようにうながした。

「町へ下りる近道なんだけど、刈っても刈っても生えてきて。この辺の草花は誰かに似て頑固なのかな。さあ先へどうぞ」

「まあ……!」

 ヘンゼルは冗談めかして言うが、彼の腕を見たドロテアは思わず感極まって、声をあげてしまった。

 彼は何でもないことのように言うが、行く先々を阻む険しい藪のせいで、ヘンゼルの腕には沢山のかすり傷があり、ところどころ血が滲んでいたのだ。

「ヘンゼル、あなた怪我をしているじゃない! わたしなら一人で帰れるから、だからもう――」

 言葉は途中で止まった。

 どん、と強い力で背中を押され、ドロテアはもんどりうって地面に倒れこんだ。突然のことに抵抗することもできず、顔面をひどく打ち付けてしまった。訳のわからないまま、じゃり、と口の中に広がる土と落ち葉のきれはしを、しかめ面で吐き出そうとする。

「なに、いったいなにが」

「別に。ただ突き飛ばしただけだよ。きみが、グレーテルにしたように」

 事もなげに言うヘンゼルの顔にはいつもの微笑みが浮かべられていて、ドロテアは一瞬だけ反論の機会が遅れてしまった。

「ちがうっ、わたしは――。あ、ぃいああああああぁぁぁ!」

 静かな森に、ドロテアの絶叫が響く。彼女の右脛には深々とナイフが刺さっていた。

「違う違わないはどうだっていいんだ。かわいそうなグレーテル。きみが来さえしなければ、決して転ぶことはなかったのに」

 ヘンゼルは悲しそうな顔で鮮血があふれ出す一点、己がナイフを突き刺した、ドロテアの右足を見つめひとりごちる。

「きっとあの子は今夜も一人で泣くんだ、足が痛い痛いって。かわいそうに、グレーテルは何も悪くないのに。ただ生まれつき足が悪いだけなのに。なのに君たちは、この世界は彼女にぜんぜん優しくない。みんながあの子を責め立てる」

 ヘンゼルは無表情で刺したナイフの柄を左右に大きく動かすと同時に、ドロテアの口から一際大きな悲鳴が上がる。

 夕暮れ迫る森の中、羽を休めようとしていた鳥たちが驚いて一斉に飛び立った。

「グレーテルがいったい何をしたというの? あんなに臆病な子が誰に害をなすというんだ。本当にかわいそうなグレーテル。せめて僕だけはあの子を守ってあげないと。たった一人の兄妹(かたわれ)なんだから」

「お願い、ゆるして。もうやめてぇ」

 痛みに支配されたドロテアは、彼の言うことのほとんども聞こえない。できることといえば息を荒らげ、ただただ許しを請うだけだった。

「ああ、ごめんね、痛いかな? でも君に転ばされたグレーテルは、もっと痛かったと思うよ」

 助けを求めてすがりつこうとするドロテアの腕は、無情にも振り払われてしまった。

「さようなら、ドロテアさん」


 そのまま振り返ることもなく、ヘンゼルはその場を後にした。ほとんど消え入りそうな、だが身を振り絞るような叫び声は全く気にならない。

 冬を間近に迎え、飢えた獣たちの咆哮が聞こえる。血の臭いに惹かれてやってきたのだ。

 これから先、ドロテアの遺体が見つかったとして、全身ずたずたに引き裂かれ貪られた無残な姿に、右脛についた些細な刺し傷が問題になる事はまずないだろう。

 いつものことだ。この点について彼が失敗したことはない。

 心配なのは――。

 ヘンゼルは血でべたつく手と汚れた服を洗おうと近くの小川へ足を向きかけて、やめた。このまま帰ったとして、どうせグレーテルはいつものように見ないふり、気づかないふりをするだろう。

 新鮮な肉を求めて、獣たちはいつになく興奮している。遠吠えは家にまで届くに違いない。

 不自由な足ではろくに明かりを灯せない暗い家の中で、怯え、必死で耳をふさぎながら兄の帰りを待っているであろう妹の姿を思い描き、ヘンゼルはうっとりとした微笑みを浮かべ家路へと急いだ。

 


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