第12話 記憶の華園
おれ(有嶺)の自宅の窓で空が見えるのは一つだけ、良く晴れた青空を背景に蔦の葉が涼しそうな風に踊っていた。
これを見ると自分が輝いていると思い込んでいた昔の光景がよく思い返されるのだった。
今回の工作では弓美子の動きが重要になる。
自分の手元に残っていた会社関係の書類は四十年前の、おれの入社直後の資料がほとんどだった。
見れば見るほどあの頃の情景や心情が甦り、胸が一杯になった。
定年後と違って気力充実していた二十年前に見たら同じ資料でも大して感じなかっただろう。
彼女の具体的な顔のイメージはあやふやになっていた。
それで、黄ばんだ古い社内印刷物にごく小さな写真を見つけたときは嬉しかった。
再びあの美しさに会えると思い年甲斐もなく震えた。
ところが拡大してみると印刷された写真は網点の集まりでかなり不鮮明、当時の美貌を何分の一も記録していない。
しかし退職直前頃だが表情に生気が感じられない。
容貌の劣化とは見えない。
不本意な退職だった証拠を見せつけられたように思い愕然とした。
現在も生きているのだ。
まだ面影が残っている年齢だ。
彼女の情報はこれだけだった。
現在こんな怪しい連中の仲間だということは不幸にして波風の多い人生だったのだろう。
あのころ誰かが勇気を出して彼女を誘っていたら彼女は平凡でも幸せな人生を送れただろうか。
いやあの会社で実際に彼女に声を掛けてしかも首尾よく彼女をモノに出来たとしよう。
すると何十人もの若い男の中には悲劇的事件を起こす者が出たか、そこまででなくても人間関係で不可解な差別を受ける可能性が高いと思った。
それはおれが次のような体験をしたからだ。
おれが入社して間もないころ弓美子が偶然美矢子を知っていると判って、美矢子の現在の住所を教えてくれと頼んだ。
恐ろしいほどの美人である弓美子に初めて話しかける時は心臓がドキドキし膝がガクガクし喉がカラカラだった。
弓美子は快く引き受け、手首に〝ミイア〟とメモ書きした。
翌日弓美子は以前美矢子から届いた封筒をおれに渡してくれた。
渡される時近くにいた他のOL達に好奇の目で見られた。
その中で、弓美子の次に美しくて可愛いパイちゃんの表情だけは好意的だった。
差出人住所の所へ手紙を送ると美矢子から返事があり、付き合いの再会は断るが会わないでごくたまに互いの連絡先だけを知らせ合う関係でいたい、とあった。
これがおれと美矢子が何十年間も内容の無い手紙のやりとりをする始まりだった。
そのことを弓美子に報告したとき彼女はカッカッカッと奇怪な笑いをした。
それだけのことだったのにおれが衆人の眼の中で弓美子と関わったことの副作用が待っていた。
それに弓美子が気づいたかどうかは分からない。
弓美子の美貌は常に男性社員たちの眼を惹き付けていたので、弓美子がおれに封筒を渡しているのを遠くから見ていた男がある噂をでっちあげて流した。
おれが弓美子を口説こうとして出した手紙を突き返された、という噂だった。
広まるにつれモテない自覚が無いうえにしつこいおれを弓美子は恐れて出社できなくなったなどと悪質に変化していった。
そのうち面識のない男性社員までもがおれを無言で睨み付けるようになった。
噂を知らない当人のおれが誰に聞いても睨む理由はだれも言わなかった。
やがて毎朝目覚めた途端に睨み付ける眼差しが眼に浮かぶようになり、自分の心が変調してきたことに気づいた。
こんなことで潰されてたまるか、と頑張っているうち二か月過ぎるとさすがに異様な眼差しは消えていった。
そのころになって噂の中身を知り、睨まれた理由がわかった。
弓美子が後にこのことを知ったとすれば、それが彼女の退職に関係したとおれは思っている。
おれが真相を知ったころ何も言わず比良野がちらっとおれを見ては考え込んでいることがあった。
何か気づいたように見えたが何事も隠さない彼にしては珍しいことだった。
弓美子の秘術はすでに初診時の診察室で始まっていたようだ。
よく聞き取れない彼女の独り言は比良野の意識下に妄想を植え付けていた。
後で思い出した比良野から聞いて、そのとき彼女の頭の中にあったのは次のような妄想だったのではないか、と有嶺は推測した。
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外来診察室の弓美子は老女だったが、呪文をかける前に顔が若返り張りが出てきた。
心は夢見る文学少女のように瑞々しくなった。
そして彼女は独白した。
「若い時に別れても想いはなかなか醒めず、もう二度と逢えないものと自分に言い聞かせて人生を送ってきましたの。こうしてあなたに再会できて天にも昇る心地。ああ……昔を思い出しますわ。ご一緒に働いていたことが運命のように思われますの。私は紺の制服で、近くの席には背広をきりっと着用されたあなたがいて」
弓美子は比良野を無視するように少し顔をそらして遠くを見ながらせかされるように早口になり低い声で息継ぎもせず独り言を続けた。
このとき比良野は紹介状に添付されていた書類に没頭して聞いていなかった。
「毎日ミニスカートからむき出た私の足があなたによく見えるようにして座っていた。ああ、あの頃の私をあの頃のあなたが検査なさるような気がしきりにしますわ。あの頃生涯で一番きれいだった私はりりしいあなたに……でも当時私たちは話をしたことも無かった。だから過ぎてしまった時間を今からでも取り返したくって……あぁっ! あの頃」
ここで彼女は一息ついて早口で一気にしゃべった。
「あなたはいきなり私を事務室の机の上に寝かせ、制服のスカートをめくり上げて下着をおろす! 私は熟柿のように柔らかい すきなようにして! ああ……きもちいい~っ! なにひっぱっているの? フンギャーイタッ! 毛をむしらないでよ……妄想から覚めた私は眼を閉じて天を仰いで手を合わせた」
比良野は書類に没頭していたが彼の無意識にこれの断片が記憶されていた。
これを聞いて思い出された有嶺の記憶の中に、彼女が事務室で天を仰いで手を合わせる場面があった。
そのときは宗教的な祈りかと思っていた。
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パイちゃんの不鮮明な写真もあった。
彼女は同じ事務所のOLの中でもきわめて美人で、しかも珍しく有嶺を嫌悪せず仲間のように扱ってくれた。
昼休み、机の上に乗っておしゃべりする彼女の小尻が可愛かった。
しかし有嶺は彼女の心に気付かなかった。
有嶺は本気で彼女に近づかなかったし、ここで名簿を見るまで三階堂妃代という本名も忘れていた。
新入社員だった有嶺は当時、先輩男性社員達に美人OLとの仲を疑われるのをひどく恐れていた。
彼女が退職挨拶に来たとき寂しそうでしばらく去らなかった。
退職後すぐ亡くなったとき有嶺は周囲からの冷たい視線を感じた。
今思い出すと彼女に申し訳ない気持ちで一杯になった。
死因はどういうわけか老衰と聞いた。
二十歳過ぎで?
猫じゃあるまいし。
その後、有嶺は田舎の母の世話で見合い結婚をした。
美人ではなかったが容姿に関わる話題はタブーだった。
いつも不機嫌そうな妻は婿選びに失敗したと思っているフシがあった。
そのうち不機嫌そうに見えるのは単に彼女の表情の癖だとわかった。
頭がいいことは確かだった。
ところが中年のころ子も無いまま妻は病死してしまった。
十年連れ添った妻が不憫で、亡くなった直後には近づく蚊の羽音が妻の声に聞こえ、どうしても叩き潰すことが出来なかった。
再び有嶺は独身になり、そのまま長い後半生を過ごすことになった。
亡くなって数年後、久しぶりに妻の夢を見た。
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建国初期の唐人になっているおれは商売に成功して大金持ちになっていた。
ある時亡妻が夢に現れ、極楽はつまんないから迎えに来てくれ、といった。
大金をはたいて全国の寺院から菩薩達を雇い、極楽行をした。
極楽では歓迎の宴会が開かれ、妻を連れて帰った。
それから時が過ぎおれたちは友白髪の高砂夫婦になっていた。
そして再び旅立つときがきた。
「最後に教えてくれ。君は何者だ?」
瀕死の女は突然若い娘に変わった。
「私はミーヤよ」
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ミーヤが演出した夢は終わった。
昔から時々幻影で見る謎の少女の名前がこのとき初めて判った。




