オマケ
ハルキとブランコに乗っていた。
ゆーらゆら。キーィ、キーィ、と音を立てて鎖がゆっくりと前後する。
ブランコなんていつぶりに乗るかなあ。思わずくすぐったくて笑ったら、隣で一緒に前に向かって、一緒に後ろに戻っていくハルキもおかしそうに歯を見せた。茶色い髪もふわりと踊る。
次に前に揺れたとき、ポーン! とハルキが飛んで綺麗に着地した。
「ソラちゃんもおいでよ」
キーィと音を鳴らしながら後ろに下がったソラは、ハルキのようにポンと飛びたいけれどすぐにブランコは後ろに戻って、ハルキが遠くなったり近くなったりを繰り返す。
なかなか上手に合わせられずにグラグラとバランスを崩しそうになるソラへ、ハルキはいつもの穏やかな声で首を振った。
「いいんだよ、ゆっくり止まってから降りれば。俺はここにいるよ」
その声を聞いているうちに、さっきまでちっともソラを降ろそうとしなかったブランコは急に大人しくなったみたいに揺れを小さくして呆気なく止まった。
「ハルキくん」
「さあ、行こう」
くしゃりと笑ってハルキが手を伸ばす。
まぶしい笑みに目が丸くなって、ソラはその手に自分の手を伸ばした。
そこで、ふっと目が覚めた。
このところ、よくハルキが夢に出てくる。
なんてことない学校でのやりとりとか、行ったことのない場所でとか、決まりはないけれど。いつもみたいに楽しく話したり、ちょっと気まずくなったりと忙しい。
ホワイトデーの日に、まさかハルキから贈り物をされるとは思ってもみなかった。
赤い顔でそっぽを向いたハルキの顔が頭に浮かんで、ソラの顔まで赤くなる。こんな、奇跡みたいなことがあるのだろうか。
びっくりしすぎてソラはハルキになにも言えていない。
こんなことならあのラッピングされたチョコも渡せばよかったと、ソラは今までとは違う後悔に落ち込んだけれど。
「ソラちゃん、帰ろ」
ソラがリボンのヘアゴムを使い始めてから、ハルキは一緒に帰ろうと誘ってくれるようになった。
朝は起きるの苦手だからごめんね、とへらりと笑ったハルキにソラの顔は赤くなる。
前に本を貸してから、なんとかそれを読み終えたハルキは以来ソラから本を借りて読むことにハマり始めた。今、子猫が住み着いてる話読んでるよと、一昨日貸した短編集のことを話しながら校門を出たところでハルキが右側になった。
それが車道側で、逆側を歩いていたときは毎回変わってくれていたのだと気づいたのは最近だ。
そんな小さなことにも、ソラの心臓は忙しくなる。
ちらりと目を上げてみると、相手はしっかりソラを見ていて視線が合った。慌ててソラは前に目を戻す。
「ねえ、俺なんかしちゃった? 最近ちっともこっち見てくれなくない?」
「だ、だって、は、恥ずかしい」
上擦ってなんとかそう言えば、目を見開いたハルキはなぜか顔を押さえてそっぽを向いた。
唸るような声が聞こえたような気がするが、すぐにえへんと咳払いをしてソラへ目を戻す。
「そんなこと言わないでよ~、ちょっとさみしいじゃん」
そう言われてしまうと言葉に詰まる。ちらりと視線を上げるとなぜか楽しそうなハルキと目が合って、ソラの顔が余計に赤くなった。
ささっと目が足元を映す。
「み、見れないぃ」
「なんでよ~、大丈夫だよ~」
明るい笑い声がソラの周りを踊っているのがくすぐったくて、ソラの頭の中までぐるぐるしだした。
ハルキがこうして笑っているのが好きだ。
そんなのホワイトデーのことがなくたって、もっと前から。チョコを渡せなかったみたいにこの気持ちもソラの中でぐるぐるしていた。
そう、もう、ソラの心なんて待っていなくても決まっているんだ。ソラは息を吐き出す。
「だ、だって、わたしもハルキくん、す、好きだもん」
「ほ、ほんと!?」
ハルキがはっとして目を丸くしているとしても、ソラにはそれを見る余裕なんでなかった。
隣にハルキがいるのに、頭の中にはブランコの向こうで手を差し伸べた姿が思い浮かぶ。
「今日も昨日も、もっと前からも。毎日ハルキくんが夢に出てくるんだよ。心臓が取れちゃいそうで大変なのに、いないとつい目が探しちゃうの」
まだあと少しは隣の席に彼がいる。
学年が変わったあと、この調子ではどうしたらいいんだろう。万が一同じクラスになれたとしても、隣の席になる確率はとても低いとソラにはわかっていた。
ハルキと話せるようになる前みたいに顔が真っ赤になるソラの手を、ハルキがくいと引っ張った。帰路を辿っていたはずの足はとっくに止まっている。
慌てて振り返ると、思いのほか真剣なハルキがいて。
彼はゆっくりと息を吐き出してから、ソラをまっすぐと見つめた。
「ソラちゃん。俺はソラちゃんが好きで、ソラちゃんも俺を好きならもう付き合うしかないよ。好き同士だもん、付き合わないのはおかしいよ」
「そ、そうかなあ」
「そうだよ! そうなの!」
お付き合いなんて、自分がしてもいいんだろうか。
こんなに優しくて素敵な人と自分が。
でも、ハルキがそう言うのならいいのかもしれない。ハルキも、ソラのことを好きでいてくれるなんて、そんなことがあるんだ。夢じゃなくて、本当の話で。
ふわふわした気持ちがなんだか形を持った気がしてソラは思わず吐息をこぼした。
「お願いお願い! 嫌だなんて言わないで」
ハルキの必死な声に、ソラはまた赤い顔のままなんとか唇を動かした。
「よ、よろしく、お願いします……」
こくりと頷いて蚊の鳴く声で答えるが早く、やったー! とまぶしい笑顔のハルキが勢いよくぎゅっとソラを抱きしめた。
喉から変な声が飛び出て固まるソラへハルキはごめん! と慌てて離れたけれど、二人して真っ赤な顔であわあわしてしまう。
そのままそっぽを向いたり、赤くなって笑ったりしながらソラの家まで歩いていくと、もっと家が遠かったらいいなあと思った。
ソラの家から駅までは歩いて十五分くらい。
電車通学のハルキは遠回りなのに送ってくれて、悪いなと思うけれどこの日もやっぱり家の前で手を振ることになった。
「ありがとう。ハルキくん気をつけてね」
「うん。またね~」
弾けるように笑ったハルキがバイバイと来た道を戻っていく。
その背中をソラは角を曲がるまで見送ろうとしていると、ハルキがちらっと振り返った。
手を振ると、手を振り返してくれる。
「冷えるから早く入りなよー」
そう投げられた声に急かされて、渋々ソラは玄関を開けた。
寒いはずの夕方なのに、指先までほかほかしている。やっぱりこの冬はカイロの出番は少なかったなあとソラは頬を赤くしながらぼんやり思った。
***
春休みになって、登校日はもちろんだがそれ以外でも図書館に行こうとか、勉強はお休みして遊ぼうと買い物行ったりだとか、映画なんかも見てしまった。
ハルキはマメに連絡もくれるから毎日なんだかんだとメッセージもやり取りし、会わない日も他愛のない会話が続く。
そうして春休みが終わった新学期。
ソラの予想どおりハルキとはクラスが分かれてしまった。
ソラが二組でハルキが五組。ハルキを介して仲良くなったクラスメイトが何人か一緒で少しほっとする。
「ソラちゃん、隣の席誰だった? また担任鈴木でしょ、席替えないじゃん」
「まだあんまり話せてないけど、女の子だったからそんなに緊張しないかも。昼休みにグミもらったよ」
「そっかあ」
帰りは一緒にと約束していた。
教室の前まで来てくれたハルキに駆け寄ると、彼はよかったねと笑う。ハルキのほうは月に一度席替えをする担任らしい。
心配しなくてもハルキは誰とでと打ち解けてしまうから、クラス替えも席替えもあまり気にしなくてよさそうだ。
「そういえば、一組に転校生がきたらしいね。ソラちゃん見た?」
「ううん。まだ――」
見ていなくて、と続くはずだった言葉はそこで途切れることになる。
三年生で転校してくるってめずらしいよねとクラスでも話題になっていた人は、どうやら男子で、部活の事情かなにかで学校が変わることになったとかなんとか。教室で漏れ聞こえてきた言葉をつなぎ合わせたソラが知っているのはそれくらいだった。
言いながら動かした視線の先には話題の一組。
わいわいと賑やかなのはその転校生がいるからなのか。ソラの目はそのざわめきの真ん中で動くことを忘れてしまった。
体が大きくて、坊主で、明るくて大きな笑い声。
「あれ? お前、ソラじゃん!」
響く声は低くて聞き慣れないのに。
もうずっと会っていないのに。
誰かすぐにわかって、ソラの肩はびくりと跳ねる。会うなんて、思ってもみなかった。動かしたくても動かなくなった体は、そういうことだけはしっかり反応するんだ。
「……タカヤくん」
こぼれた声は口の中で小さく小さく響いただけ。
廊下の床に縫い付けられたソラのところへ、大股に歩いた相手はあのころの面影を残した顔でにっかりと笑った。
「久しぶりだな~小学生以来か? お前ここの学校だったんだな」
声が出なかった。
喉は言葉を出すのを、足は踏み出すことを、全部忘れてしまったみたいにソラはただ馬鹿みたいにそこにいるだけ。
どうしよう、どうしたら、どうすればいいの。
もうすぐそこにいる相手がもう一歩踏み出す前に、ぐいとソラの腕を引いたのはハルキだった。
はっとしたソラを後ろに回してハルキが首を傾げる。
「あんた誰」
低い声。
襟足の尻尾が揺れた向こうでタカヤがまだソラを目で追った。けれども、ようやく目の前に立ったハルキに視線を移す。
不機嫌そうに顔をしかめたが、今度はハルキをまじまじと眺めて眉を動かした。
「あー! お前ハルキか。ボウズじゃないからわからなかった。タカヤだよ、中学んとき試合何度もしただろ」
「……タカヤ? 南第一の?」
ハルキの声が驚きの色に染まったが、ソラの腕を持っている手にわずかに力がこもった。
タカヤはなーんだと軽い口調で笑う。
「そ。こんなところで会うとはな~。じゃあ結局肩痛めたやつ治らなかったのか。将来はプロ入りもなんて言われてたのに、もったいなかったなあ」
「おい。俺が野球をしていたことも怪我のことも、ソラちゃんには関係ない」
硬い声にソラの肩が跳ねた。
こんな声のハルキは、初めてだった。
野球をしていたことも、それがうんとうまかったことも、怪我のことも聞いたことはない。
ソラから手を離さずにハルキは続ける。
「俺が野球をやめたことは、あんたがソラちゃんにちょっかい出すこととなんにも関係ないだろ。それなのにわざわざ今言う必要ある?」
「悪気はないって」
「それなら尚更質が悪いね。そうやって呼吸するのと同じみたいに、気づかず誰かを傷付けてたってことだろ」
ため息まじりにそう言うと、ハルキはソラを背中に隠したままタカヤがいるほうとは逆に促す。
よろけるように足を踏み出したソラの横にぴったりついて行こうとするから、固まっていた体が動くことを思い出し始めた。
「おい、ハルキ――」
「さ、帰ろ。遅くなっちゃう」
呼び止める声をもう、彼は聞かない。
ソラの背をそっと押してざわめきを置き去りにした。
廊下から離れて、階段を降りて。
昇降口に行くのだとばかり思っていたソラだったが、ハルキは下駄箱の前を通りすぎて人気のない空き教室の扉を開けた。
ぴったりと閉めてから、一番近くの椅子を手繰り寄せてソラにどうぞと笑う。その顔はもういつものハルキだった。
「顔が真っ青だよ」
座って、ソラはみじめなくらい震えたため息をこぼした。鞄を抱えてうつむく。
もし、ハルキがいなかったらどうなっていただろう。
まともに話せもせずただ固まるばかりで、そんなソラをあの人はまた大笑いしていただろうか。
ハルキがいてくれてよかった。ようやく息が吸えたような気がする。ソラは唇を動かした。
「……大丈夫」
「そんなことないでしょ。秘密にしたいならしょうがないけど、俺が知っておくことでなにか助けられそうなら、教えてもらうほうが心配でたまらなくなるよりずっといいよ」
覗き込むように屈んだハルキは、やんわりと首を振ってソラをなぐさめる。
彼のほうが嫌な思いをしただろうに。
みんなの前で以前のことを言われて、あんなハルキは見たことがなかった。それくらいきっと嫌だったのだとソラは思う。
そんなソラのことを見越したのか、ハルキは困ったように眉を下げた。
「さっきのは、ソラちゃんに知ってほしくなかったとかそういうのじゃないからね? そりゃあカッコ悪いから恥ずかしいけどさ。俺はアイツになに言われても大丈夫」
隠していたわけじゃないからと肩をすくめる彼から、たしかに悲しさみたいなものは見つからない。
いつもみたいにソラの周りの空気をふわりとやわらかくした。
「だから、ソラちゃんのこと聞かせてよ。こんなときは、誰かに頼っていいんだよ」
ソラはさっき、なにかをされたわけじゃない。ただ、呼び止められて、久しぶりだなって声をかけてくれただけ。それなのに自分はなにもできずに、ずっと前の些細なことを思い出してこの世の終わりみたいになっていた。
小さな頃のちょっとした意地悪だ。大したことじゃないのに、そんなことをまだ気にしている自分が嫌で嫌でたまらない。
それなのに、ソラのことを辛抱強く待っているハルキがいて。
ソラは、ぎゅっと鞄を抱えてから、ポツリポツリと弱音を吐いた。
黙って耳を傾けてくれるハルキは、ソラが誰と話すにもびくびくしていた始まりを、拙い言葉達から拾い上げているようで。
「ひどいいじめにあったわけじゃないの。ただ、でもなんだか、やっぱりだめだった……わたし、ちっとも変わってない」
泣いているような情けないソラの声にも、ハルキは違うよと首を振る。
「それは、ソラちゃんにとってすごく怖かったことだからで、そういう気持ちって誰かと比べなくてもいいんだよ。人に合わせる必要もないと思うよ。そのときいっぱい傷ついたんだよ、小さいソラちゃんは」
「……でも、もう大きいのに」
「消したくても消えないものってあるじゃん。俺、初恋の子の目の前で顔面にボールくらって鼻血出したの今でもたまに頭に浮かんでウワアァァてなるよ」
て、ちょっと違うか。苦笑したハルキに、ソラは目が丸くなる。
勝手にそんなハルキの様子を想像してしまい、思わずふふっと頬がゆるんだ。それにハルキも目を細める。
「俺は頭に過りそうになったらシュッて遮って考えないようにしてるかな。それかうんと考えて考えて飽きるくらい思い出して飽きちゃうのもいいかもね。だんだんどうでもいいかもなって思えるときがくるかもしれない」
「ハルキくんも?」
「ん。悔しかったぶん、楽しいことたくさんしたい」
頬をかいて歯を見せたハルキに、ソラの胸にはポッと明かりが灯ったようなあたたかさが生まれた。
強くて優しくて、ハルキはすごい。
ソラも、頑張らなくては。いつまでもぐずぐずしている自分とは、もういい加減にお別れしたい。ソラは自分が変われることをもう知っているのだから。
次の日。
いつもおろしている髪を、あのリボンのヘアゴムで丁寧に結んでから家を出た。
教室にいってもハルキはいないから、お守りにすることにしたのだ。
タカヤは隣のクラスだけど合同授業はないから、毎日なにかがあるわけでもない。見かけただけでソラが凍りつかなければいい。心構えができれば昨日みたいにはならないはずだ。大丈夫。すぐにはダメかもしれないけれど、徐々に慣れていける。
ソラはゆっくりと息を吐きだして学校へ向かった。
新しいクラスに慣れることもソラには大仕事だ。
緊張に震えあがっていた去年とは違い、思いのほか普通でいられた。隣の席の子とも、班が一緒になった人たちとも、少しつっかえつっかえにはなってしまうけれどちゃんと話せている。
あっという間に一週間、二週間と日がすぎて、タカヤのことは廊下でちらりと見かけるくらい。おーい、と声をかけられることがあっても、ソラは挨拶だけして教室に駆けこんだ。逃げていることに情けなさを感じるが、初めの日とは違って固まることはないからソラは自分を励ます。
大丈夫、なんとかなる。ちょっとずつ変わっていけているんだ。
「なんだよソラ。あんなに一緒に遊んだ仲なのに冷たいじゃん」
それでも、呼び止められれば挨拶ですまないときもあった。
授業が終わって帰ろうと廊下に出たとき。
まだハルキが来ていなくて、そして隣の教室からタカヤがちょうど出てきてしまった。あっと思ったソラが教室に戻るよりも、相手がソラに気付くほうが早かった。
ソラは鞄の持ち手をぎゅっと握る。
「……わ、わたしは、タカヤくんと遊んだことなんて一回もないよ」
「はあ?」
本当にただの一度も、ソラは遊んだ記憶なんてない。
奥歯を噛み締めて見上げると、タカヤはきょとんとした顔で首を傾ける。
「お前ちょっと意地悪したこと根に持ってるのか? 大したことじゃなかっただろ、水に流せよー」
「どうして、大したことないって、タカヤくんが決めるの?」
バクバクする心臓に焦るソラは、それでもゆっくりと息を吐き出した。
大丈夫、大丈夫。
鞄を抱える手が痛いくらいだけど。黙って縮こまるのはやめにしたんだ。
「わたしは今まで人と話すのが怖くてたまらなかった。またなにか言い返されるんじゃないかとか、笑い者にされるんじゃないかとか、いつもいつも気にしちゃうくらいずっと忘れられないでいるの」
「わ、悪かったって。ごめん。――でもほら、今は大丈夫そうだしいいだろ? おれとも普通に話してくれよ」
「……あのときは、やめてって言っても聞いてもらえなかった。それなのにどうして、わたしはあなたの言葉を聞かなければならないの?」
タカヤが目を見開いた。
ソラは息をした。そしてまた口を開く。
「ハルキくんのおかげで、今はなんとか大丈夫になったよ。でも嫌だった気持ちがそれで消えるわけじゃない」
まだ忘れることはできないし、たくさん考えて考えることに飽きるまでにもなっていない。
今のタカヤがあのときとは違ったとしても、ソラにはそれを受け止める力がまだなかった。
「タカヤくんが謝ってくれたのはわかったから、もうわたしはそれでいいです。怖いものはやっぱり怖いし、これ以上はもう、しんどい……」
そこまで言って、大きなため息が震えながらこぼれた。
鞄の肩紐を握った手は汗がにじんでいる。心臓は痛いくらいだ。
今のソラにできることはここまでのようで、ソラはなにか言いかけたタカヤの言葉を待たずに向きを変えて歩き出す。
「ソラちゃん」
踏み出した先にいたのは、ハルキだ。
いつもののんびりした空気のままこちらへ手を出している彼は、固まったように鞄を握りしめているソラの手をするりとほどいてしまった。
「帰ろう」
頑張ったね、おつかれさま。そう笑うハルキに、ソラの瞼は我慢できずに涙を落とした。
ゆっくりとした歩調でソラの手を引いてくれているハルキ。
ソラの心臓はくたくたでまだズキズキと痛んでいるのに、穏やかなハルキの声が手当てしてくれるみたいに奥まで響いていく。
「今は許せないなら無理に許すことじゃないよ。もういいかなって思ったときにアイツがソラちゃんとまだ話したがっていたら、歩み寄ればいいんだよ」
薄く広がった雲に、夕焼けの桃色と橙がにじんでいく空を後ろにしたハルキがまぶしかった。
少しずつ軽くなっていく胸にソラははあぁと息をこぼした。
「ハルキくんてすごいなあ」
くすりと笑ったハルキが尻尾を揺らして首を振る。
「違うよ。俺はね人より諦めるのがうまいだけだよ」
ソラは夕焼けが頬を染めているハルキの横顔を見上げた。
前を見たまま彼は少しだけ続ける。
「無理してもできないことはできないって知ったし、今頑張らなくても、ちょうどいいときに頑張ればいいこともあるって知ってるだけ」
「……野球できないのはさみしいね」
「そうだね」
ソラには想像することしかできないけれど。
きっとハルキは野球が大好きで、辛いこともたくさんあったけれどやっぱり好きで、それなのに諦めなければならなかった。もしかしたら、学校だってここに来る予定じゃなかったのかもしれない。
いろんな、思い至らないものがあるくらいたくさん、きっとハルキは乗り越えないといけないものがあった。
それを思うとソラの胸はきゅっとなる。
こんなふうに明るく笑っているハルキが、この先もっと笑っていたらいいなあと思った。
「でも、またなにかあるかもしれないものね。野球もだけど、同じくらい好きなことができるかもしれないし。わたしがハルキくんと話すことになったみたいに、なにが起こるか楽しみだねえ」
「そうだねえ」
ハルキが目を細める。
歩道に伸びた影と一緒にソラを振り返って、唇を綻ばせた。
「なにかあったら、一番にソラちゃんに教えるね」
「うん。わたしもそうするから、これからもよろしくお願いします」
このまえよりもはっきり言えた。
言えるようになった。少しでも変わっていける。
来年になったら、きっともっとちゃんとチョコも渡せるし気持ちもたくさん伝えられるだろう。
来年にならなくてもできたらもっといい。
そう、もしかしたら来年では遅いことがあるかもしれない。できるときに、できることを。
くしゃりと笑ったりハルキの手を、ソラは頬を赤くしながらきゅっと握った。