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第3話:軋む時針、翡翠の願い

 アンドロイド専門の病院――通称『ドック』。


 ここに来るのは初めてだった。


 白い廊下。鼻を刺す消毒液の匂い。


 無機質な光の下を、介護用アンドロイドが静かに行き交っている。


 壁のモニターには、僕には理解できない文字列やグラフが淡々と流れている。


 通常アンドロイドたちは一年に一度ドックに連れてこなければならない。


 人間でいう健康診断だ。だけど、うちには旧式のロボットしかいない。


 僕が生まれた時から家にいる、アンドロイド0.6式。


 通称『ロック』


 名付け親は僕だ。


 ロックにもメンテナンスはあるが、その時期になると自分で販売代理店に戻っていく。


 ドックとは無縁の存在だったのだ。


 そのロックが隣に座っている。留守番を頼んだはずなのにな。


 ……それが少しだけ、心強かった。


 院内を見回しても、人間の病院とはなんら変わりなかった。


 今や人間の病気でも治らないものはない。そんな時代だ。


 きっと、大丈夫と、心に言い聞かせる。


「君が美咲くん……彼女の持ち主だね?」


 胸のプレートに『院長 白石』と書かれた人物が近づいてきた。


 美咲に異変が起きたとき、このドックの白石院長を頼るようにと指示したのは義父だった――。


「何かあった場合には、ここに連れて行くように」


 渡された高級そうな名刺に書かれていたのは、ここの住所と白石院長の名前だ。


「この子のOSが4.0だということを知っているのは、私と彼しかいない。

彼とは旧知の仲だ。きっと君のことも助けてくれるだろう」


 くれぐれも他へは連れて行くな――

 そう念を押されていた。


「心配いらないよ。人間でいうところの風邪のようなものだ。暖かくして休ませれば、すぐに良くなる」


 院長の穏やかな声に、張り詰めていた肩の力が抜けた。


 ……よかった。

 生前の彼女にも、僕は頼ってばかりだった。だけど今は違う。


 僕が彼女を、美咲を支えるんだ。


 心の中で小さく誓ったときに、介護用アンドロイドに付き添われて美咲が出てきた。


「大変申し訳ございません。ご迷惑をおかけしました。すぐに帰宅し、家事を……」


 彼女の言葉を制するように、その頭を優しく撫でた。


 柔らかな髪が、指の間を流れていく。


「ありがとう。でも、今日はもういいんだ。一緒に帰って、ゆっくり休もう


 美咲の瞳が揺れる。

 わずかに頬を赤く染め、視線を落とした。


「はい……ありがとうございます」


「いつまでこんなとこにいるんだ! 早く帰ってわしの世話をしろ!」


 穏やかな空気を、場違いな怒声が引き裂いた。


 振り向いた先で、ふくよかな初老の男が酒臭い息を漂わせながら、床に横たわるアンドロイドを引きずっていた。


 彼女の衣装はぼろぼろで、翡翠のような長い緑色の髪は乱れ、かすかに埃の臭いがした。


「申し……わけ……ございません……」


 主人を見上げ、謝り続ける彼女の膝からは血のように赤黒い水冷オイルが滲んでいた。


「おい、そこまでだ。もういいだろ!」


 見ていられなくて、咄嗟に声を荒げていた。


 男は肩を震わせたが、僕の前に立ちはだかったのは緑髪のアンドロイドだった。


「大丈夫です……私が、ご主人様をお守りいたします……っ!」


「ひ、ひぃー!」


 彼女の行為とは裏腹に、男は情けない悲鳴を上げ、逃げるように去っていった。


「ご、ご主人様?」


 彼女は驚いた様子で振り向いたが、足に故障があるのか、追いかけることができなかった。


 主人がいなくなったことで、彼女の治療は一時的に後回しになった。


 この時代、アンドロイドは貴重な資源だ。だが同時に、あくまで“所有物”。


 持ち主の同意なく、第三者が手を出すことはできないのだ。


 待合室のベンチに座る僕たちのそばで、緑髪の彼女はずっと僕の顔を睨んでいた。


「……なあ」


 何度か声をかけてみるが、ツーンと顔を背けてしまう。


「落ち着いて……もう、大丈夫ですよ」


 耳元のリンクシステムを淡く光らせながら、美咲が緑髪の彼女に話しかけるとその表情が和らいでいった。


 同時に、ロックも腹巻のようなパーツを光らせる。


「これも、リンクシステムなのか?」


「はい。その通りです。かなりの旧式なのであまり実用性はないみたいですけど」


 緑髪の彼女が、静かに口を開いた。


「……なぜ、あんな真似をされたのですか?」


「君があんな仕打ちを受けていたから、当たり前のことをしただけだよ」


「違います。ご主人様は、私を必要としてくださっているのです。私が不甲斐ないばかりに……」


 ――全肯定。

 それが彼女たちにプログラミングされた、呪いのような献身だ。


「そんなボロボロにされてまで、あんな奴を庇う必要なんてないよ」


「必要……と、されているのです……早く、戻らなければ……」


 彼女は立ち上がろうとして、そのまま床へ倒れ込んだ。


「心配しなくていい」


 院長の言葉に複数の介護アンドロイド『D-Bot』たちが彼女を連れていく。


 不安そうに僕の手を握る美咲に、自分の上着を羽織らせた。


 それから約一時間後。


 院長と一緒に、彼女が戻ってきた。


 髪はサラサラに整えられ、新品のメイド服。


 さっきまでの痛々しい傷跡も消えていた。


「……よかった」


 僕の安堵に彼女は静かに小さなお辞儀をした。


「本来ならここで預かるべきだが、あいにく病室がいっぱいでね。

君の家で一日、彼女の面倒を見てやってくれないか?」


「ええっ!?」


 院長の唐突な提案に、僕は声を裏返した。


「それは素敵な案ですね」


 美咲はなぜか誇らしげに胸を張り、ロックに至っては既に彼女の手を引いて歩き出している。


「これはれっきとした暴行罪でもある。オーナーの彼には反省する機会を、

そして彼女には普通の生活を知るいいきっかけにもなるだろう」


 そう言われては、拒否できるはずもなかった。


 帰り道、美咲はいつもより少しだけ強く、僕の腕に自分の細い腕を絡めてきた。


(第3話・了)

アンドロイド0.6式のロック。

アンドロイドが人型になるのは1.0式からです。

ロックは本来、OSが1.0未満しか搭載されないモデルですが、販売代理店の行為により無理やり1.6までグレードアップしてもらってます。

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