第66話「言えなかった言葉」
雨の音が、静かに店を包んでいた。
ドアベルが鳴り、濡れた傘を畳みながら、一人の女性が入ってくる。
年は三十代半ばほど。
少しだけ、疲れた表情をしていた。
「いらっしゃいませ」
「……温かいものを」
「かしこまりました」
席に座ると、女性は両手をカップのように組んだまま、じっとテーブルを見つめている。
しばらくして、湯気の立つカフェラテが運ばれてきた。
「ありがとうございます」
両手で包むように持ち、一口。
その温かさに、ほんの少しだけ表情が緩む。
「言えなかったことがあって」
ぽつりと、こぼした。
「はい」
「もう、会えない人に」
カップの縁をなぞる。
「謝りたかったんです」
視線は下を向いたまま。
「大したことじゃないんです。
あのとき、ほんの一言、
素直になればよかっただけ」
小さく息を吐く。
「でも、それが言えなくて」
雨音が、少し強くなる。
「そのまま、会えなくなりました」
沈黙。
「時間が経てば、
どうでもよくなると思っていたんです」
「……」
「でも、逆でした」
少しだけ、笑う。
「時間が経つほど、
ちゃんと向き合えばよかったって思うんです」
マスターは静かに言った。
「言葉は、
届かないこともあります」
「はい」
「ですが、
残すことはできます」
女性が顔を上げる。
「残す……?」
「手紙でも、心の中でも」
カフェラテの湯気が、やわらかく揺れる。
「届かなくても、
言葉にすることで、
自分の中に区切りができます」
女性は、少し考える。
「……今からでも、遅くないですか」
「遅いということは、ありません」
静かな声。
「その言葉は、
今のあなたが持っているものですから」
女性はカップを置き、目を閉じる。
そして、小さくつぶやく。
「……ごめんね」
その声は、誰にも届かない。
けれど、確かにここにあった。
しばらくして、目を開ける。
「少しだけ、楽になりました」
「はい」
「ちゃんと言えた気がします」
カフェラテを飲み干し、ゆっくり立ち上がる。
「今度は、言えるうちに言います」
「ええ」
女性は微笑んだ。
外の雨は、いつの間にかやんでいる。
喫茶リセットでは、
言えなかった言葉も、
そっと残していける。




