第56話「消せない跡」
夕方の光が、窓際のテーブルに長く差し込んでいた。
木目の上に、細い影が揺れている。
ドアが開き、制服姿の青年が入ってくる。
まだ学生のようだった。
「いらっしゃいませ」
「……コーヒー、お願いします」
席に着くと、彼は手の甲をじっと見つめていた。
そこには、うっすらとしたインクの跡が残っている。
「これ、消えなくて」
ぽつりと呟く。
「ペンで書いたんです。
すぐ消すつもりだったのに」
「そうですか」
「洗っても、
薄くなるだけで」
彼は少しだけ笑う。
「なんか、ずっと残ってて」
コーヒーが置かれる。
「別に、困るわけじゃないんですけど」
「はい」
「でも、見るたびに思い出すんです」
視線は、手の甲のまま。
「余計なこと、言ったなって」
少しだけ、言葉が重くなる。
「消せたら、
楽なのに」
カップに手を伸ばしながら、続ける。
「なかったことにできたら、
いいのにって」
一口飲む。
少しだけ顔をしかめる。
「苦いですね」
「はい」
彼はもう一度、手の甲を見る。
「これ、いつか消えますかね」
「跡は、
薄くなっていきます」
「完全には?」
「完全でなくても、
見え方は変わります」
青年は黙る。
「同じ跡でも、
気にならなくなることがあります」
「……」
「消えることと、
気にならなくなることは、
少し違います」
彼はゆっくり息を吐いた。
「確かに」
手の甲を軽くこする。
「今は、まだ気になるだけで」
「はい」
「そのうち、
忘れるかもしれない」
少しだけ、肩の力が抜ける。
「消さなくてもいい、ってことですかね」
「残っているままでも、
進めます」
彼は頷いた。
コーヒーを飲み干し、立ち上がる。
「今日は、
消さないで帰ります」
「はい」
「そのままにしてみます」
ドアに手をかけ、振り返る。
「また来ます」
「お待ちしています」
ドアが閉まり、夕方の光が少し傾く。
喫茶リセットでは、
消せない跡も、
そのまま置いていける。




