第54話「開けない引き出し」
雨の名残が残る、湿った午後。
喫茶リセットの木の匂いが、少しだけ濃く感じられる時間。
ドアが開き、四十代ほどの男性が入ってきた。
手には、小さな鍵束。
「コーヒーを」
「はい」
席に着くと、男性は鍵束をテーブルに置いた。
いくつもある中で、一つだけ少し古びている。
「この鍵、
もう使ってないんです」
「そうですか」
「昔の部屋の引き出しで」
指で鍵を転がす。
「中に、色々入れたままにしてて」
コーヒーが置かれる。
「開けに行こうと思えば行けるんですけど」
「行かない理由は」
「……見たくないものも、
入ってる気がして」
男性は苦笑した。
「失敗とか、
やり直せなかったこととか」
湯気が、ゆっくりと消えていく。
「開けたら、
ちゃんと向き合わなきゃいけない」
「そう思われている」
「はい」
コーヒーを一口飲む。
「苦いですね」
「変わりません」
「そこがいい」
鍵を、もう一度見つめる。
「開けないままでも、
いいんですかね」
「閉じていることにも、
意味があります」
「意味……」
「今はまだ、
そのままにしておく時間」
男性は、しばらく黙った。
やがて、鍵束を手に取る。
「今日は、
開けません」
「はい」
「でも、
持っておきます」
ポケットにしまう音が、小さく響く。
「いつか、
開けてもいいと思えたら」
「その時に」
カップを空にし、立ち上がる。
「開けないって決めるのも、
一つの選択ですね」
「ええ」
ドアが閉まり、湿った空気が少し入れ替わる。
喫茶リセットでは、
開けないままの引き出しも、
無理に開かれることはない。




