第43話「置き忘れた鍵」
夕方前の、少し静かな時間。
喫茶リセットのドアが、控えめに開いた。
入ってきたのは、年配の男性だった。
背筋は伸びているが、手元だけが落ち着かない。
「コーヒーを。
……ブラックで」
「かしこまりました」
男性は席に着くなり、ポケットを何度も探った。
上着、ズボン、鞄。
「……ないな」
小さく呟く。
「何か、お探しですか」
「鍵です。
さっきまで、確かに持っていたんですが」
コーヒーが置かれる。
「焦るほど、
見つからないものもあります」
「昔からそうで」
苦笑する。
「大事なものほど、
うっかりする」
男性はカップに手を伸ばし、
そのまま動きを止めた。
「……もう、いいのかもしれません」
「そう思われた理由は」
「家も、仕事も、
もう守る役目は終わった気がして」
湯気が、ゆっくり立ち上る。
「鍵を持ってるつもりで、
ずっと縛られていたのかも」
マスターは、カウンターの端を指さした。
「こちらに」
そこには、小さな鍵が一つ、
静かに置かれていた。
「あ……」
男性は、ほっと息をつく。
「見つかって、
良かったですか」
少し考えてから、答えた。
「……はい。
でも、見つからなくても、
大丈夫だった気もします」
鍵を手に取り、
しばらく眺める。
「持ってるって、
確認できただけで」
「それで、十分な時もあります」
男性はコーヒーを一口飲んだ。
「まだ、苦いな」
「それも、
慣れた味でしょう」
立ち上がり、
会計を済ませる。
鍵は、今度はしっかりポケットに入れた。
ドアを開ける前、
一度だけ振り返る。
「……置き忘れても、
戻れる場所があると助かります」
「いつでも」
ドアが閉まり、
店内に静けさが戻る。
喫茶リセットでは、
鍵を持つ理由も、
手放す迷いも、
同じ棚に置かれている。




