第9話 何気ない一言に救われた日
今日も頑張る、派遣さん。
昨日のことが、ほんの少しだけ残っていた。
いつもと同じように席に座り、パソコンを立ち上げる。画面がゆっくり明るくなり、見慣れたデスクトップが表示される。
やることは、変わらない。
それでも、どこかだけが少し違う。
――やっぱり、派遣さん。
昨日、心の中でつぶやいた言葉が、まだ消えずに残っている。
強くはない。ただ、静かにそこにある。
キーボードに指を置くと、軽く乾いた音がフロアに混ざっていく。周りの音と重なりながら、自分の音もそこに溶けていく。
それだけで、少しだけ落ち着く。
午前中が過ぎようとした頃だった。
フロアのあちこちで、電話の音や声が少しだけ重なり、空気がわずかに慌ただしくなる。
「これ、今日中にお願いできる?」
差し出された資料を受け取り、視線を落とす。
事業計画案の作成。
ページ数が多く、細かな数字と文章が並んでいる。
一瞬だけ、息が止まる。
指先に、ほんの少しだけ力が入る。
「手が空いてなかったら、派遣さんに頼んで」
少し離れたところで、部長の声が聞こえた。
その言葉が、静かに胸の奥に落ちる。
ほんの一瞬だけ、昨日のことがよぎる。
でも。
もう一度、手元の資料を見る。
紙の端をそっと整えながら、深く息を吸う。
――大丈夫。
前の派遣先で、何度もやってきた仕事だった。
「大丈夫です」
顔を上げてそう答えると、相手が少しだけ安心したようにうなずく。
「無理しないでね」
やわらかい声に、もう一度小さくうなずく。
パソコンに向かい、資料を開く。
画面に並ぶ数字と文章をひとつずつ確認しながら、少しずつ形にしていく。
最初は、少しだけ手が重かった。
キーを打つ指先が、ほんの少しだけぎこちない。
でも、進めていくうちに、感覚が戻ってくる。
次に何をすればいいのか、自然と分かるようになる。
画面に集中していると、周りの音が少しずつ遠くなる。
時間の流れが、静かに変わっていく。
気がつくと、フロアの空気が少しだけ落ち着いていた。
椅子を引く音や、誰かが立ち上がる気配が聞こえる。
窓の外に目を向けると、光がやわらかくなっていた。
もう夕方に近い色をしている。
あと少し。
最後の確認をして、データを整える。
マウスをクリックする指先に、少しだけ力がこもる。
大丈夫。
提出する。
「ありがとうございます、助かりました」
その言葉を聞いた瞬間、肩の力がゆるむ。
自分でも分かるくらい、息が深くなる。
「鈴木さんがいてくれてよかったです」
その一言に、思わず顔を上げる。
一瞬だけ、言葉が出てこない。
胸の奥に、あたたかいものがゆっくり広がっていく。
「いえ……」
小さく返すのがやっとだった。
さっきまで残っていたものが、少しずつほどけていく。
――ちゃんと、ここにいる。
そんなふうに思えた。
席に戻り、パソコンをそっと閉じる。
フロアには、またいつもの音が戻っている。
少しだけ疲れているはずなのに、不思議と体が軽い。
椅子に座り、ゆっくりと息をつく。
――ここにいてもいいのかもしれない。
その言葉が、今は少しだけ自然に思えた。
画面を開き直し、手を置く。
――今日も、ひとつ増えた気がする。




