第4話 電話に出るのが怖い日
今日も頑張る、派遣さん。
午後のフロアは、午前中より少しだけ落ち着いていた。
キーボードの音と、時々聞こえる会話。その合間に、一定の間隔で鳴る音がある。
――電話。
誰かが取って、短く話して、また静かになる。それを何度も繰り返している。
自分の席の近くにも、電話が一台置かれていた。
気づかないふりをしていたけれど、視界の端にずっと入ってくる。
鳴ったらどうしよう、と思う。
まだちゃんと教わっていないし、取り方も言い方も自信がない。
そう思っているときに限って、鳴る。
トゥルルル、と少し大きめの音に、一瞬だけ空気が止まった気がした。
肩がほんの少し固くなる。
誰かが取るだろうと思って少し待つが、誰も動かない。
視線は画面のまま。それでも、なんとなく分かる。
――近い人が取る流れ。つまり、自分。
もう一度、電話が鳴る。
さっきより長く感じるその音に、心臓が少しだけ速くなる。
迷いながらも、ゆっくりと受話器に手を伸ばす。指先が少し冷たい。
持ち上げる。
「お電話ありがとうございます」
少しだけ硬い声が出る。自分の声なのに、どこか遠くに聞こえる。
そのまま続けようとして、ふと止まる。
前の派遣先の会社名が、頭に浮かびかけた。
言いそうになるのを慌てて飲み込み、一瞬だけ間が空く。
受話器を持ったまま視線を机に落とすと、置いてある名刺が目に入る。
会社名が、そこにある。
ほんの一瞬だけ確認して、小さく息を整える。
――大丈夫。
そう思って、続きを口にする。
相手の声が耳に入る。
会社名と名前を聞き取り、メモを取る。ペンを持つ手は、少しだけぎこちない。
書いた文字が、ほんの少し歪んでいる気がする。
ゆっくり確認する。
たぶん、大丈夫。
「少々お待ちください」
そう言って保留ボタンを押し、小さく息を吐く。
――よし、大丈夫。
そう思って顔を上げた瞬間、
「何番?」
近くの人の声に、頭の中が一瞬真っ白になる。
何番。
電話を見ると、ボタンがいくつも並んでいる。
どれが今のか分からない。さっき押した場所も思い出せない。
視線が泳ぎ、指先が少しだけ震える。
「えっと……」
言葉がうまく出てこない。
ほんの一瞬のはずなのに、やけに長く感じる。
もう一度電話を見ると、ひとつだけ光っているランプが目に入った。
たぶん、これ。
「あ、これです」
恐る恐る指さすと、「ああ、OK」と言ってすぐに受話器を取ってくれる。
その速さに少しだけ置いていかれた気がして、胸の奥にたまっていたものがゆるむ。
席に戻りながら、小さく息をつく。
危なかった、と思った。
ちゃんとできたような、できていないような。それでも、つながった。
それで十分な気がした。
フロアにはまた、いつもの音が戻っている。
さっきまであんなに気になっていた電話の音も、その中のひとつに変わっていく。
席に座り、もう一度小さく息をつくと、肩の力が少し抜けた。
次は、もう少しだけ早く取れるかもしれない。
そう思いながら、胸の奥でそっとつぶやく。
――今日も、ひとつ乗り越えた気がする。




