1.プロローグ
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
霞む視界の中で、
険しい顔の男が、何かを叫びながら
何度も、何度も、私を殴っていた。
──どうして。
(……愛してくれてるから……だよね)
歪んだ考えが、ぼんやりと浮かぶ。
優しかった記憶。
怖かった記憶。
ぐちゃぐちゃに混ざって、流れていく。
そして、最後に聞こえたのは──
「マリっ!」
────────────
目を開けた瞬間、最初に飛び込んできたのは、
やわらかな光だった。
白く霞んだ空。揺れる花。
その向こうで、湖が静かにきらめいている。
(……ここ、どこ……?)
意識を失う直前まであった全身に響く激しい痛みも、
喉を締めつける息苦しさも、
今は嘘みたいに消えていた。
震える手で、足から顔まで触れる。
──傷がない。
アザも、腫れ上がった頬の熱も、
それどころか血の跡すらなかった。
代わりに残っていたのは、
現実味のない浮遊感と、やり場のない喪失感だけ。
……ゆめ……?
そんなはずない。
毎日のように続いた痛みと倦怠感も、
離れる勇気もなく、一人になることに怯える感情も、
この胸がちゃんと覚えている。
あの人が浴びせてきた罵声も、
涙で滲んだ視界も、
唇を噛みしめた時の血の味も。
……それとも、私は死んだの……?
ぽつりと浮かんだ考えに、ぞっとする。
現実味のないこの空間こそが、
長い悪夢から覚めたあとの世界みたいで、余計に怖かった。
今までが嘘で、これが本当なら私は誰なのだろう。
これが嘘なら、夢はいつ覚めるんだろう。
喉の奥がひりついて、
私はぎゅっと膝を抱えた。
──その時だった。
足音がした。
びくりと肩が跳ねる。
音のした方へ、恐る恐る顔を向けると、
少し離れた場所に、誰かが立っていた。
───男の人。
反射的に身体がすくんだ。
けれど、その人は
私が思っていた怖いものとは、少し違って見えた。
黒い髪がさらりと風に揺れて、
陽の光を受けた顔は、妙に静かだった。
整いすぎているくらい整った顔立ち。
深い森の色みたいな瞳が、
まっすぐこちらを見ている。
綺麗……なんて
場違いなことを思ってしまった。
どうして、そんなふうに思ってしまったのか分からない。
その時……その人が、何かを言っていた。
けれど、頭がぼんやりして、うまく聞き取れず、
ただ、その声だけが妙にはっきり耳に残った。
低くて、落ち着いた声。
優しそうで──そんなふうに感じてしまった自分が、ひどく怖かった。
その声に、意識がほんの少し引き戻される。
けれど、返事をしようとして初めて気づいた。
(……声が出ない)
喉が、ひどく詰まっていた。
息を吸おうとしても、うまく入らない。
黙り込んだままの私に、
彼はゆっくりと、一歩ずつ近づいてくる。
やめて。
来ないで。
言わなきゃいけないのに、
唇が震えるだけで、声にならない。
心臓が、嫌な音を立てた。
どくん、どくん、と
耳のすぐそばで鳴っているみたいにうるさい。
息が浅くなる。
視界の端が、じわじわ暗く滲んだ。
「……っ、は……っ……」
呼吸が乱れる。
胸が苦しい。
喉が焼ける。
指先が冷たいのに、身体の奥だけ熱い。
彼もそれに気づいたのか、
慌てたように距離を詰めた。
やめて。
来ないで。
お願いだから、これ以上──
「……大丈夫……?」
その声と同時に、
ぶつりと何かが切れた。
私の意識は、そこで途切れた。
(……ほんと、最悪)




