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おつかい

朝日が差し込む王宮の回廊を、ランシーは軽快な足取りで歩いていた。剣も鎧もつけていない今日は、ただの「おつかいの日」。肩の力も抜けて、鼻先にはどこか浮き立つ気配がにじんでいる。


「ランシー。頼みがあるのだけれど」


そう告げたのは、主である第三皇子・ユリウスだった。執務机に向かったまま顔も上げず、けれど声だけはいつも通り落ち着いていて、どこか柔らかい。


「どうされましたか?ユリウス様。お疲れのようですし、何処か遠くへ逃避行でもしましょうか」


悪戯気に冗談を交えて返すと、机の向こうでユリウスの肩が微かに揺れた。笑ったのかもしれない。あるいは、呆れただけかもしれない。


「いつものやつだよ。何冊か見繕ってきて」

「……またそれっすか」


言葉とは裏腹に、ランシーの耳がぴくりと動く。それはひと月に一度、必ず訪れる特別な任務。王都で今話題の書籍を調べて集め、主に献上する――ただそれだけの任務に、ランシーはいつもひそかな期待を抱いていた。


「ジャンルは問わない。ただ、できれば“市井の空気”が読めるようなものがいいな。評判の恋愛小説でも、農民の回顧録でも」

「りょーかいっす。……あ、でも、また“ああいうの”混ざってたら、ちゃんとフィルターかけときますからね」

「“ああいうの”?」

「……“男女逆転モノのエルフの騎士と平民少年の禁断の恋”とか……?」

「……否定はしないけど、やや選択が偏りすぎていたね」


クク、と喉の奥で笑う気配がして、ランシーはこらえきれずに笑った。そして、心のどこかで思う。

この仕事をもらえる日が、実は結構、好きだ――と。


石畳の道を、靴音が一定のリズムを刻んでいた。

朝の王都は、まだ店先に準備の気配がちらほらと見えるだけで、人通りも少ない。ランシーはのびをひとつしてから、視線を空に向けた。


ユリウス様――。


思い返すと、あの人は不思議な人だ。臆病というか、慎重というか。円卓の会議に出れば、いつもどこかおどおどとしているし、兄君たちと会話する時なんて、緊張してるのが丸わかりだ。


けれど。


(出るときは、ちゃんと出る)


皇族として「ここは譲れない」と見定めた場面では、ユリウスは怯まない。小さな声のまま、でも、確かな言葉で意見を述べる。その瞬間、周囲の空気が微かに変わるのを、ランシーは何度も目にしてきた。

普段は「どうぞどうぞ」って引いてばかりの人が、時折びっくりするほど肝が据わってる。そのギャップが、なんというか――


「……悪くないんだよなぁ、あの人」


そう口に出してつぶやいて、ランシーは少し頬を緩めた。執務室の中では、ああやって公務と全く関係ない命令をぽろりと出してくることもある。今朝の「本を買ってこい」だってそうだ。


だが、だからこそ良いのだ。

人間くさいところを、見せてくれるから。


鼻先をくすぐるパン屋の香ばしい匂いに誘われつつ、ランシーは書店のある通りへと足を向けた。

通りの角を二つ曲がると、目的の書店が見えてきた。

「紅蔦屋」──王都の中心にありながら、華美な装飾もない落ち着いた佇まいの古書店。だが通りに面した木製の看板と、並ぶ書棚の品揃えは確かで、流行に敏感な貴族や文官たちの間でもよく知られている。

ランシーは、手慣れた様子で扉を開けると、店内にふわりと漂う紙とインクの匂いに深く鼻を鳴らした。

無骨な兵士には不釣り合いなほど繊細な手つきで、表紙の並ぶ棚を指先でなぞる。店主とは顔見知りらしく、奥で帳簿をつけていた老主人が、軽く手を上げて挨拶した。


「今月も皇子殿下のご命令で?」

「あいっす。ユリウス様の“文化補給”タイムですわ」


軽口を返しつつも、ランシーの目は真剣そのものだった。彼にとってこの選書は、“任務”のひとつ。主の時間を満たすのに、つまらない本を選んで帰るわけにはいかない。


「今月の評判モノっていうと……これか?」


手に取ったのは、花街の踊り子と薬師の青年の恋を描いた短編集。柔らかな水彩画のような表紙が目を引く。目元だけで笑って、ランシーは一冊を手提げ袋に入れた。次に選んだのは、王都で話題沸騰中という実話形式の旅記録、さらに庶民階級の台所事情を綴った随筆など、硬軟取り混ぜて五冊ほど。

ふと手が伸びたのは、表紙に狼のイラストが描かれた冒険譚。その表示に描かれた三人の人物を見て、苦笑しながら袋に押し込む。満足げに店を出ると、太陽は少しだけ高くなっていた。紙袋の重みとともに、ランシーの足取りはどこか弾んでいた。


王宮に戻る頃には、通りもすっかり賑やかになっていた。衛兵たちの交代が終わり、庭園では侍女たちが朝露に濡れた花を摘んでいる。そんな中を、ランシーは紙袋を抱えながら軽快に歩いた。





**

ユリウスの執務室の扉の前で、いつものように軽くノックする。


「ランシーです。戻りました」

「どうぞ」


中から返ってきたのは、やや眠たげな、それでいて柔らかな声。ランシーは片手で扉を開けながら中へ入ると、紙袋をそのままユリウスの机の上にどさりと置いた。


「今月は恋愛小説、旅記録、民俗エッセイ、あと冒険譚を一本。評判は全部高めっす。どれから読むかはお好みで」

「ありがとう、助かる」


ユリウスは静かに礼を言いながら、一冊ずつ袋から本を取り出し、その装丁を確かめるように目を細めた。


「……これは、花街の踊り子と薬師の話か。前に読んだ短編と筆致が似てるな」

「あ、やっぱ分かります? 作者、同じ人でした」

「ふふ……さすが、目利きだね」


ユリウスが微かに笑ったのを見て、ランシーもどこか誇らしげに胸を張る。こうして選んだものを気に入ってもらえることが、彼にとってはちょっとした喜びだった。


「……あ、それと」


ランシーは思い出したように、一番下からもう一冊を取り出す。


「これだけ、ちょっと俺の趣味入ってます」


 表紙には、狼の青年と、二人の人物が描かれている。ユリウスはその一冊を見て、数秒間じっと黙っていた。


「あぁ、似ているね」

「似てますよねぇ、やっぱり」


クスッと笑って、ユリウスはその本も丁寧に積み上げた。


「明日の午後、少し時間を取れそうだ。読書会でもしようか」

「お、じゃあお茶とお菓子も準備しておきますかね!」

「……いや、それは君が食べたいだけだろう」

「ばれました?」


二人の声が、陽の差す静かな執務室に溶けていった。

剣も鎧もない、こういう日も、悪くない――ランシーはそう思いながら、主の隣に立った。







**

午後の日差しが柔らかく庭園を照らす頃、ランシーは丁寧に淹れた茶と小菓子を携えてユリウスの元へ向かった。

王宮の庭園の片隅にある小さなテラスは、花々に囲まれた静謐な場所で、二人だけの読書会にふさわしかった。

ユリウスはすでに席に座り、ランシーが選んだ冒険譚の一冊を手にしていた。彼の表情は柔らかく、執務室の時とは異なる穏やかな雰囲気を醸し出している。

ランシーは控えめにカップを差し出した。


「どうぞ、ユリウス様」

「ありがとう」


ユリウスは静かに茶を啜り、頁をめくりながら口を開いた。


「この剣士の決断には、若さゆえの迷いと、それでも譲れぬ信念が見て取れるね」


隣ではランシーが旅記録の頁を丁寧に追いながら答えた。


「ええ。旅先の風景や人々の暮らしぶりが生き生きと描かれていて、まるで自分もその場にいるような気持ちになりました」

「そうだね。こうして違う世界に思いを馳せることができるのは、読書の醍醐味だ」

「はい、俺も同感です。ユリウス様のお選びになった冒険譚も、勇敢さと繊細さが巧みに織り交ぜられていて、とても感銘を受けました」


互いに微笑み合い、しばし言葉を交わしながら、二冊の本は静かに頁を進めていく。

やがて陽が傾き、庭園に長い影が伸びていった。

ランシーはふと顔を上げ、主の表情を見つめた。


「こうして共に読書を楽しむひとときも、いいですね」


ユリウスは頷き、小さく微笑んで答えた。


「うん。そうだね」


その穏やかな言葉に、ランシーの胸に暖かな灯がともった。






**

昼下がりの王宮食堂は、陽が高く柔らかな光に包まれていた。高窓から差し込む陽射しが、長テーブルの上にゆらめく影を落としている。木の器が音を立て、遠くからは兵たちの笑い声が微かに響いていた。

その一角、四人の直属護衛が並んで食事をとっていた。ジンリェンは淡々と、ほとんど無言で箸を動かしており、隣に座るシュアンランは時折何か思い出したように笑みを浮かべながら、それを見ていた。

フーリェンは三人より一拍遅れて食べ進めながら、食堂の騒がしさに目を瞬かせていた。


その中で、ランシーがふと口を開いた。声の調子はいつになく気楽で、どこか自慢げでもある。

「なあ、俺さ、最近ユリウス様からまた“おつかい”頼まれたんだわ。王都の書店行って、今流行ってる本いくつか買ってこいってやつ」


シュアンランがクスッと笑いながら返す。


「ランシーがそんなことやってんの、意外だよなー」


ジンリェンも腕組みしつつ顔をしかめて、ボソッと言う。


「この中で一番文化的なのがランシーってのは、ちょっと変な感じだよな。普段は猪突猛進のイメージしかねぇし」


ランシーは肩をすくめ、ちょっとムッとした表情で返す。


「おいおい、何言ってんだよ! 俺だって読書くらいするし、ユリウス様のために真面目に選んでんだぞ!」

「まったく、お前らもさ、本くらい読めよ」


口にしてからすぐ、ランシーは肉を一切れ口に運び、咀嚼しながら続く反応を待った。シュアンランが最初に笑い、ジンが静かに眉を上げた。


「俺はお前ほどの読書家にはなれないな」


ジンリェンはそう言いながら、手元の器に視線を落とし、落ち着いた口調でさらりと返した。その横で、シュアンランが声を押し殺すように笑った。


「だな。文字見るとすぐ眠くなるし」

「そもそもお前がいちばん本読むし、いちばん楽しそうだもんな」


ランシーは肩をすくめ、どこか納得いかない顔で口を尖らせた。


「面白いけどなぁ……あんなにいろんな世界の話が書いてあるのに。まぁ、わかんねぇかなー……」


言いながら、自然と視線がフーリェンに向かう。

視線を向けられたフーリェンは箸を止め、静かにランシーを見返していた。ほんの少しの間を置いて、ぽつりと小さな声が落ちた。


「僕は……長い文章、読むの、あまり得意じゃない」


その口調には迷いがなく、まるで前もってそう聞かれると知っていたかのような拒絶だった。ジンリェンが、すかさず口角をわずかに上げて言う。


「報告書は読めるのにな」


皮肉というよりは、純粋な疑問とからかいの混ざった声音。ランシーもそれに乗るように笑いながら頷く。


「だよなー。フーって、そういうとこ意外としっかりしてるし。……正直お前が一番意外なんだよな」


シュアンランが湯飲みを置き、ことんと軽い音を響かせながら言った。


「字も一番汚いしな」


その一言に、フーリェンが顔を上げる。眉尻がほんの僅かに下がり、むくれたように口を尖らせると、明らかに不服そうに言い返した。


「今それ、関係ない」


言葉に棘はないが、声音はしっかりと反論の意思を含んでいた。

一瞬の静寂の後、三人が同時に吹き出した。ジンリェンは笑いを堪えるように口元を押さえ、シュアンランは背を仰け反らせて肩を震わせる。ランシーは口を開けたまま、笑い声をあげて机を軽く叩いた。

フーリェンはそんな三人を見て、視線を逸らしながらも小さく口の端を緩めていた。


昼下がりの王宮食堂。

静かな陽射しの下、直属護衛たちのささやかな時間が、笑い声とともに、ゆっくりと流れていった。



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