双子と狼少年
【登場人物】
シュアンラン(11)…好奇心旺盛。社交的な子狼。
アドルフ…第二軍の新兵。
よくシュアンランと遊んであげている。
ジンリェン(10)…警戒心の強い子狐。弟中心の生活。
フーリェン(10)…臆病な子狐。言語発達がやや遅め。
王宮の石畳を踏みしめる靴音が、訓練場へと軽やかに響く。昼を過ぎた陽射しは穏やかで、城壁を越える風が、少年の耳と髪をくすぐっていく。
「おおシュアンラン。今日も元気だな」
「おはようアドルフ!急いでるからじゃあな」
「前見ろ転ぶぞー」
「分かってるよ!」
通りすがる兵士たちへと笑顔を振りまき、狼の子は急ぎ足で訓練場へと向かう。
「今日も来てるといいな……」
そう小さく呟きながら、シュアンランはキョロキョロと目的の白い尻尾を探した。
何度も通ったこの道は、彼にとって最も馴染み深い場所だった。
生まれも育ちも王都。父は兵士、母は医務官。その関係で、幼い頃から自然と王宮の敷地を出入りし、訓練に混ざって木剣を振っていた。兵舎の空気も、訓練場の砂の匂いも、彼にとっては日常の延長だった。
最近、そんな訓練場で気になる子がいる。静かで、透き通るような白い髪をもった狐の子だ。
自分から話しかけることはあっても、その子から言葉が返ってきたことはない。でも、どこか気になって、気づけば目で追っていた。
風が旗を揺らすその下、ふと目を向けた先に、目当ての白い尻尾がふわりと揺れた。思わず笑みがこぼれ、彼は勢いよく駆け寄った。
「フーリェン──!」
振り返った顔に、シュアンランの足が止まった。
髪の色も、瞳の色も同じなのに。しかしそこにある空気はまるで違っていた。
じっと見つめてくるその視線は鋭く、どこか張り詰めている。まるで矢のように刺すような眼差しだった。
「……フーリェン……?」
声がわずかに揺れる。白狐の少年は一瞬間を置いてから、首を振った。
「違う」
それだけの短い返答だった。しかしそこにははっきりとした線引きがあった。
そんな目の前の少年の声に、シュアンランは慌てて頭をかいた。
「ごめん。すごく似てたから……もしかして、フーリェンの兄弟…?」
"フーリェン"の名を出した瞬間、少年の顔が僅かに強ばったように感じたが、彼は何も答えず、ただ視線を逸らしただけだった。
「名前、聞いてもいい?」
尚も諦めずに問いかけてみる。しばらくの沈黙のあと、少年は静かに答えた。
「……ジンリェン」
「ジンリェン、か……。やっぱり、そうなんだな。名前の響きが一緒だ」
笑いながら一歩だけ近づいたシュアンランのその動きに、ジンリェンの目は一瞬にして警戒の色に染った。
「あっ、ごめん。近すぎたか?」
慌てて立ち止まった彼は、少し恥ずかしそうに笑いながら言った。
「なんかさ、君、俺と年が近そうだなって思ってさ。……こう、仲良くなれるかなーって」
ジンリェンは答えない。代わりに、ほんのわずかに眉をひそめた。そんな彼の様子に怯むことなく、シュアンランは優しく「ねえ、いくつ?」と問いかけた。
にこにこと大きな尾を振りながらそう問いかける狼の少年の仕草に、ジンリェンは少しだけためらってから口を開いた。
「十」
「十? ……俺、十一だから、一つ上だ」
予想が当たっていたことに、シュアンランは嬉しそうに笑った。小さく頷いてからもう一歩、心の距離を詰めるように言葉を紡ぐ。
「じゃあ、ちょっとだけ先輩だ。……これからも、ここで会えたら話しかけてもいいか?」
ジンリェンはまたしばらく沈黙したまま、じっと彼を見つめていた。けれど、今度はそれを拒むような棘はなかった。
「……勝手にすれば」
ぶっきらぼうな返事ではあったが、シュアンランはそれで十分だった。ぱっと笑って、元気よく頭を下げる。
「うん!またな、ジンリェン!」
そしてシュアンランは再び走り出すと、今度こそ、フーリェンを探して訓練場の奥へと消えていったのだった。
⋆⋆
その少年が現れたのは、ほんの一瞬の隙だった。
陽の傾き始めた回廊の真ん中で、訓練用の木剣を片手に歩いていたジンリェンは、自分へと近づく気配に気づくとピクリと耳を揺らした。
「フーリェン──!」
初めて見る顔だった。短く整えた髪、明るく色づいた目。息を弾ませて笑っていて、警戒心の欠片もない。知らないはずなのに、まるで旧知の友のように真っ直ぐに声をかけてきた。
「……フーリェン……?」
狼少年の口からその名前が出た瞬間、ジンリェンははっきりと否定の言葉を返した。
「違う」
冷たくしているつもりはなかった。ただ反射的に、声が低くなってしまった。王宮に来て三年。訓練も生活も、もう慣れた。けれど誰かに突然話しかけられると、身体の奥に根を張る警戒心が咄嗟に反応する。誰かが自分に近づくときは、何かを奪う時だった。かつての記憶が、ジンリェンの心にそう刷り込ませていた。
なのに、この少年は──
「名前、聞いてもいい?」
まっすぐで、臆せず、強引で、それでいて笑っている。
「……ジンリェン」
ボソリと名乗った瞬間、赤色の目がぱっと輝いた。まるで花が咲いたみたいな顔だった。
「なんかさ、君、僕と年が近そうだなって思ってさ。……こう、仲良くなれるかなーって」
“仲良くなれるかな”──
不思議だった。初対面なのに、名前すら知らなかった相手に、そんなふうに言えるのか。警戒されることには慣れていたが、好意を向けられることには、慣れていなかった。
「何歳?」
「十」
「十? ……俺、十一だから、一つ上だ」
年下と知っても、態度は変わらなかった。年上らしく振る舞おうとする様子もない。彼はただ、変わらず明るい笑みを浮かべているだけだった。
「これからも、ここで会えたら話しかけてもいいか?」
その言葉に、ジンリェンはどう返せばいいのか分からなかった。けれど、断る理由もなかった。
「……勝手にすれば」
思わず口をついたその一言に、彼はとびきりの笑顔で応えて、手を振りながら去っていった。
嵐のように現れて、嵐のように去っていった。けれど、嵐はただ通り過ぎただけではない。
確かに、何かを置いていった気がする。
ジンリェンはふと歩を止め、無意識に足元へ視線を落とした。先ほど弟の名が呼ばれた瞬間、胸の奥で細かな砂がこすれるような違和感が走った。
彼はフーリェンを知っていた。いつ、どこで、その名を耳にしたのだろうか。問いは浮かぶも、返ってくる答えはどこにもない。
(それに……人の名前は聞くくせに、名乗らないのかよ)
そんな皮肉めいた思いが頭をかすめ、ジンリェンは小さく息を吐いた。思考の波を断ち切るように、彼は訓練場の影へと身を戻す。
それでも白狐の少年の胸の奥には、狼の少年が発した“仲良くなれるかな”という言葉が、小さく残響していた。
――――
訓練場の隅。陽の光がちょうど届かない木の影に、白狐の双子はぴたりとくっついて腰を下ろしていた。
あまり人目の届かないこの場所は、兄弟にとって数少ない“休める”場所だった。すぐ近くには、フーリェンの監視役の兵士が一人、そんなふたりの空気を壊さないように黙って背を向けている。
ジンリェンの肩に、フーリェンの額がこつりと寄りかかった。それに構う様子もなく、ジンリェンはじっと遠くの空を見つめていた。雲ひとつない青空を自由に飛ぶ鳥たちの姿を視線の端に捉えながら、肩の重みに意識を向ける。
「……外、疲れるか」
ポツリと問いかけた声に、フーリェンはほんの少しだけ首を振った。それは、決して「疲れてない」という意味ではない。ただ「大丈夫」という意思表示である。
ジンリェンはちらと横目で弟を見た。陽に透ける白い髪。耳はやや伏せられ、目元にはうっすらと疲労の影がある。
「無理、してないか」
再び投げかけた言葉に、フーリェンは少しだけ唇を動した。
「……してない」
拙い言葉がこぼれる。ジンリェンはしばらく黙っていたが、やがて自分の膝にあった木片を指先でいじりながら、ぽつりとつぶやいた。
「お前が、外に出るって決めたから……見守る。でも、つらかったら、すぐ戻っていいんだからな」
フーリェンは小さくふるりと尻尾を揺らした。
「……ジンがいるから、大丈夫」
か細い声に、ジンリェンの指先の動きが止まる。
少しだけ息を吐いて、彼はわずかに弟の肩に自分の頭を預けた。互いの体温を確かめ合うように、言葉のない時間が、静かに流れる。
遠くで剣戟の音が響いていた。けれど、この片隅だけは、誰のものでもない、小さな聖域だった。
**
訓練場の木の影、騒がしい中心部から離れたその一角は、誰の目にも止まりにくい静けさがあった。
シュアンランは今日もまた、フーリェンを探しに訓練場へと足を運んでいた。視界の端に白い頭が見え、狼の尾がふわりと揺れるのを感じる。だが次の瞬間、彼の足はぴたりと止まった。その隣に、もうひとつの白が静かに寄り添っていたからだ。
ぴたりとくっつくように並んだ肩。微かに動く耳と、同じような尻尾の揺れ。
片方は間違いなく、昨日出会ったジンリェンだった。
ふたりはほとんど言葉を交わしていないようだった。それでも、確かな温もりと、落ち着いた静けさがそこにはあった。
(兄弟……なんだよな)
遠目からその光景を眺めながら、シュアンランの脳裏にひとつの事実がぼんやりと浮かぶ。
似ている。けれど、まったく違う。差異に気づいたとき、ようやく彼は実感した。
フーリェンの目には、ジンリェンにだけ向ける柔らかさがある。逆にジンリェンの目も、誰よりも穏やかだった。
ああ、これは割って入っていい時間じゃない。そう結論づけると彼はそっと足を引いた。けれど完全に踵を返すことはできず、つい影の向こうから静かに寄り添う白狐たちに視線を向けてしまっていた。
そのとき、ふいにフーリェンの耳がぴくりと動いた。
思わず身を引こうとしたその瞬間、ジンリェンの鋭い視線がシュアンランを射抜いた。
目が合う。しかしジンリェンは睨み返すでもなく、ただじっと、シュアンランの存在を確かめるように見つめていた。
足音が、静かな訓練場の隅に響いた。
「昨日の…」
恐る恐るといった様子で近づいてきた狼の少年に向かって視線を投げたジンリェンの隣で、兄の肩にもたれていたフーリェンが、ぽつりと名前を呼んだ。
「……シュアンラン」
蚊の鳴くような小さなその声に、シュアンランは驚きと喜びを隠せず、満面の笑みを零した。
「名前、覚えてくれてたんだな……!」
ジンリェンははっと隣に座る弟を見やった。その瞳に少しだけ驚きの色が差している。
シュアンランはふたりの空間に自然と溶け込むように、その場にしっかりと腰を下ろした。
ジンリェンはフーリェンに向かい、低く落ち着いた声で問いかけた。
「こいつと、知り合いだったのか?」
フーリェンはわずかに顔を上げるが、目は伏せたまま、小さく首を縦に振った。
その反応を見て、シュアンランはそっと言葉を重ねるように口を開いた。
「初めて会ったのは、ちょうどひと月くらい前かな。訓練場で偶然見かけてから、たまに声をかけてる」
ジンリェンはその説明に、わずかに驚きを滲ませながらも隣のフーリェンへ視線を戻した。その目には、ほんの少しだけ厳しさが混ざっている。
「お前……どうして俺に教えなかったんだ?」
そんな兄の言葉に、フーリェンはふっと小さく息を吐くと急に視線を逸らしてしまった。その表情には、どこか照れくささと、言い出しにくさが入り交じっているように見えた。
ジンリェンは眉をひそめつつも、柔らかい声で続けた。
「別に責めているわけじゃない。ただ……お前が他の奴と話しているの、見たことなかったから驚いただけだ」
「お兄ちゃん、ちょっと怖そうだもんな」
「おい、ほぼ初対面の相手に言うのかそれ。お前、昨日名前すら名乗らなかっただろ」
「あれ、俺名前言ってなかったっけ……?」
「聞いてねーよ……」
「ごめんごめん。言った気になってた」
しれっと口を挟んだシュアンランに、ジンリェンはむっとした顔を向けて言い返す。そんな二人のやり取りを横目に、フーリェンはまだそっぽを向いてはいるものの、その肩はわずかに力が抜けていた。
「まあ、でもさ」と、沈黙が一瞬流れた後シュアンランは並んで座る白狐の兄弟に視線を向けて言葉を続けた。
「折角話せるようになったんだし、もっと仲良くなれると思うんだよな、俺」
無邪気なシュアンランの言葉に、ジンリェンは視線を弟から彼へと移し、小さく頷いた。
「……そう、かもな」
その言葉に、フーリェンの顔がようやく少しだけ向き直った。そのままじっと、少しだけ親睦を深めたふたりへと視線を向けた白狐の弟の姿に、シュアンランはくすりと笑みを浮かべた。
後にかけがえのない存在となる彼らの交友は、狼の少年のちょっとした人違い――そんな些細な出来事から静かに始まったのだった。
――――
薄明かりの中、二人の足音が静かな王宮の廊下に響いていた。アスランとの合同訓練から数日。ジンリェンとシュアンランは早朝の見回り当番に向かいながら肩を並べて歩いていた。
「なあシュアン、この前の野営戦、どうだった?」
「んー……いろいろ思うところはあるが、まぁ、満足かな」
何気ない口調で尋ねたジンリェンへと、シュアンランは軽く笑いながら答えた。
「俺は後方だったからな。最前線の様子は正直伝令頼みの部分あったが、うまくいったみたいでよかったよ」
「それでも、アスランはやっぱ手強かったな。…正直、模擬戦じゃなければ、どちらが潰れていたか分からん」
少し声のトーンを落としてつぶやいた狼男に倣い、ジンリェンも声を潜めて言葉を返した。
「そうだな……もっと腕を磨かないとな。ついでに、火起こしの腕も」
真剣な口調の最後に、軽い冗談が混ざっていることに気づき、シュアンランは思わず小さく笑った。
「そういえばお前、火起こしは苦手だったもんな」
「そもそも、火起こしなんてしなくても、能力使えばパパッと付けられるんだよ……」
「戦の前に貴重な体力温存しないでどうすんだお前……」
二人はそうしてひとしきり笑い合い、和やかな時間を共有したあと、ジンリェンが自然と話題を変えた。
「話変わるけど、ウェディング祭の時のフーの服…」
「服がどうしたって?」
興味あり気に視線を向けたシュアンランへ、にやりと笑いながらジンリェンは言葉を続けた。
「あれ、実は俺が選んだんだ」
得意げにふふんと鼻を鳴らす兄狐の様子に、シュアンランは思わず目を見開き、驚きの表情を浮かべた。
「…初耳なんだけど」
「似合ってたろ?」
「ああ、ばっちり似合ってたよ。外套着せるには勿体ないくらいにな」
「それ、フーに言ったかのか」
「言ったよちゃんと」
「なら俺が言うことはねぇな」
淡い日差しが大理石の床を照らし、窓から差し込む光と笑い声が混ざり合う。
長い時を経て親友へと変わった二人の朝は、そこにはいない"弟"の話題から始まるのだった。




