人殺しと狂気の覚醒
三
満月が凪の海を見下ろしている。音もない静かな埠頭。それはまるでこの夜が、いつもと変わらぬ優しいものだと騙すように。
月は青白い酷薄な笑みを浮かべて地の惨状を愉しんでいた。その冷たい光が照らす人間は三人。いや、彼の視点から見れば、あと登場人物は二人増えているのかもしれない。
彼……伊佐美秋人は目覚めたとき、その光景に驚愕した。
(夏輝……!? 先輩!)
悠然と空を仰ぐ小躯の男の足下に、二人の人間が倒れていた。「氷沼夏輝」と「双樹冬香」だ。
二人は完膚なきまでに敗北していた。
(こんな……こんなことって)
これは彼にとって今まで見たことがないし、見るだろうと予期もしていなかった映像だった。それほど二人は強かったからだ。
その強さは、彼らが作られた人格であったことに由来する。
通常、人間は自分の身体を操作することに関して、特別な意識を持たない。それが当たり前のことだからだ。しかし、作られた人格であり、生後しばらくの間、肉体を操作する権限を与えられなかった彼ら二人にとって、事はそう簡単にはいかなかった。それは最初、人型のロボットを操縦するのにも等しい難行だったのだ。
しかし、その難行を越え、当たり前を意識的に行えるようになった二人は、一つ人類の限界を超えた。
完璧な身体操作術をマスターしたのだ。
それは、古武術と呼ばれる全ての流派がその長い歴史の全てで追い求めつづけ、そしてついには完全な形で会得することができなかった秘中の秘。まさに奥義の名がふさわしい究極の技だった。彼らはそれにより相手が生身の人間である以上、負けるはずがない実力を得た。
人類最強……そう名乗ってもいい、それだけの力を持ったのだ。
例えば、彼らは内分泌系に干渉して総合的に身体能力を向上させること――いわゆる火事場の馬鹿力――をいつでも必要な時にできたし、神経伝達の速度を加速させ、ほとんどスロー再生の映像を見るがごとく相手の動きに対処することもできた。
だから、ありえない。
こんな痩身小躯の、まだ少年の面影すら残る男が二人を捩じ伏せるなど、あってはならない光景だった。
「あぁああああああああああああああああああああああああああ楽しいぃいいいいい!」
小躯の男が月に向かって吠える。
「なんて楽しいぃんだよお前ら! オマケのお前らでここまでやってくれるなんてさぁ!
やべぇよ! やばかったよ!」
瞳孔が拡大した瞳は周りの闇よりもなお暗く、まるで空間に穴があいているかのようだった。瞳孔の拡大は交感神経の活発化によるものだ。それは彼がまぎれもなく戦闘態勢に入っていることを意味する。
その狂気の瞳を見上げ、秋人は人生で初めて死の恐怖を感じた。常識で考えれば、ただの喧嘩に生と死などという大層な言葉が混じる余地はない。重犯罪検挙率が九割を超える法治国家で殺人などリスクが高すぎる。
しかし、この瞳はその所持者がそういう常識の埒外にいることを雄弁に語っていた。
月光を背に受けながら、男は倒された秋人へ歩み寄る。逃げようとしても、足が動かない。
「あらぁ? 動けないのかよ。オーライ! 手ぇ貸してやるよ」
そう言って、男は秋人を抱き起した。その泥酔した友人を介抱するような手つきに秋人は困惑する。
(コイツは……なにがしたいんだ)
敵と味方の認識が揺らぐ。対人関係を友好に保つことを目的として作られた人格である秋人に、他人を憎みきることはできない。なされるがまま、動かされる。そして、その歩んでいく先には、
玉響真弓がいた。
逃げ出す時間は十分にあった。ただ、愛する男が一方的に嬲られるその光景に足がすくみ、また、彼女の倫理観がどうしても「見捨てて逃げる」という自己中心的な行動を良しとしなかった。たとえ秋人がそれを望んでいたとしても。
今、彼女は呆けたような瞳で、肩で担がれた最愛の男と、それを痛めつけた憎むべき敵の二人を見つめていた。
ハッピーエンドを願って。
彼女が思い描いているのは、喧嘩を通して友情がはぐくまれ、互いの健闘を称えあいながら笑う、そんなありきたりなハッピーエンド。最初こそ紆余曲折があるものの、最終的にはかけがえのない友になる……そんな不器用な友情が誕生する場面を今、自分は見ているのだと、そう信じていた。信じたかった。
しかしそんな痛切な願いは、無残にも裏切られる。
秋人の左手には銀光を放つ一振りのナイフが握られていた。
小躯の男が、両手で包み込むように秋人に握らせたそれは、真っ直ぐ、真弓の方を向いている。
触れたもの全てを斬り裂いてしまうようなナイフ。こうしてただ構えて進んでいるだけでも、裂かれた空気が見えるような鋭さ。
その切っ先の向こうにある少女の瞳は、恐怖に濁るでもなく、怒りに震えるでもなく、ただ、静かな水面のように水を湛えていた。
ズブリ、と嫌な音がして瞬間、
ポツリ――
と、乾いた地面に雫が落ちた。
黒い瞳が、その闇を一層濃くする。
もう二度と戻ることはない、
命の輝きを、
失ったのだ。
玉響真弓の心臓部には深々とナイフが突き刺さっていた。
秋人は、ナイフの柄から手が離せない。
震えていた。震えるたび、刀身が揺れ、ぐちゅぐちゅと音がした。堪らなく嫌だった。
腕から伝わってきた感覚を反芻する。
その柔らかな脂肪を分けいって入った時の気持ちよさ。
固い筋肉繊維を切り開いた時の達成感。
切っ先が心臓に触れた時の、吐き気を催すような絶望感。
貫いた瞬間溢れた、彼女の涙。
頭がどうにかなってしまいそうだった。脳内が爆発しそうなほど様々な強い刺激が起こり、秋人を内部から撹拌した。
(――気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!)
世界が真っ赤に見えた。
何もかもが神経を逆撫でするような立体に変容してしまっていた。
世界から生気が抜け落ちてしまったような、そんな非現実感覚に襲われる。
途端に恐ろしくなって、真弓に深く刺し込まれたナイフを抜いた。
赤黒い洪水が噴出し秋人の体を濡らす。
体中がべっとりと生ぬるい。
「うわぁああああああああああああああっ!」
叫んで、秋人は思い出した。
封じられていた禁忌の記憶を。